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武蔵野の野辺に朽ちぬとも・・・

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身はたとひ、武蔵野の野辺に朽ちぬとも、留め置かまし大和魂

これは安政の大獄で死罪とされた吉田松陰の言葉。三島由紀夫にも通じる日本人の心である。私も吉田や三島のように、日本人でありたいと願うが、ニッポン人であることを嫌悪する。同様に私はクリスチャン(キリスト者)ではあるが、ニッポンキリスト教徒であることは嫌悪する。

日本への警告』において宮内学氏がきわめて秀逸な発言をされている。ひとつは「ネット亡国論」。匿名性に隠れた誹謗中傷の卑劣な行為が"当たり前"になりつつある今日、あきらかにニッポンの内部の腐敗と崩壊を促進している。もし「2ちゃんねる」の管理人西村博之氏が、一部で言われている某筋の「工作員」だっとしたら、実に巧妙な仕業である。そしてきわめて悪魔の性質に合致している。参加者自身が悪魔によって弄ばれていることに気がついていない病識の欠如。ニッポンは彼の出現によって崩壊へのカウントダウンを早めた。

もうひとつは、「ダンテとゲーテ」、似て非なるふたりの違い。共にテーマは真理の探究と魂の遍歴を描くも、その本質において、致命的な相違があることを宮内氏は指摘される。ひじょうに怖いのは今のニッポンがゲーテの落とし子であること。宮内氏は指摘する:

そして、現代人はゲーテの子である。ダンテを古臭い中世人と卑下しながら、ゲーテとともに人間の可能性を謳歌し、その挙句に、メフィストフェレスに魂を売ったのである。真理は一粒の涙とともに来たることを知らずして、(「神曲」煉獄篇5歌106)絶え間ない努力と才能によって強奪できるものと信じている。

個々人がどちらの文学者を好むのか、それは人の自由である。また、現代人がゲーテ的人生観を持とうが、それが即破滅という訳ではない。しかしながら、一つだけ注意すべきことがある。ダンテの地獄篇27歌にあるように、真理をもし努力と才能によって奪い取らんとするのならば、悪魔にも努力と才能があることである。才能は才能に対して盲目である。ファウスト的人生観は、最後の最後には、悪魔の才にひっかかる。

この最後の警鐘は、すでにニッポンにあっては成就している。三島もその危険性を感知して、彼の場合は、人間の努力と才能を超えた絶対性を天皇に求めたのであろう。彼も別の意味で罠に落ちたと言えるが。

そして『文藝春秋八月号』においては、次のような記事があった。例のアキバ事件の加藤を英雄視するネットに生息する若者に対して、

若者よ、殺人犯を英雄にするな

と呼びかける記事がある!?何ということ、このような記事を日本の知性の象徴である同誌が掲載する必要があるのが、現代ニッポンだ。また続いて

貧困大国ニッポン-ホワイトカラーも没落する-
 もう限界だ。このままでは社会の土台が崩れる

と警鐘を鳴らす記事もある。著者は前にニッポンにもスラム街ができると指摘した人物。私的に診ればすでに土台は崩れている(現在完了形)のだ。かつてペリーが浦賀に来た時の日誌で、当時の日本社会のモラルの高さと清潔さ秩序正しさなどの美徳に驚嘆し、「日本を開国し、欧米化することは、果たしてこの国にとって幸福なのだろうか」と書いていることは前にも紹介した。当時、日本には貧しい人々は多かったが、貧困はなかったのだ。このふたつの違いが分かるでしょうか?今日のニッポン、すでにあらゆる精神性を破壊され、貧困の極みに追い詰められている。いわゆる経済的な貧困は、実は内なる精神の貧困の現れに過ぎない。

朝のジョッギングの際も、つらつらとニッポンの行く末を祈りつつ、主は今この国にご自身の正義の御手を置こうとされている事を感じた。悪は、腐敗の極み、行き着くところまで行く必要があるのだ。ニッポンキリスト教も同様。否、ニッポン社会以上に正義の主の御手が置かれるだろう。それはゲシュタルト崩壊をもたらす。否、主が起こされるのではなく、起こすのは人間自身である。その時、まことの主の心に安息して残される少数の者は幸いである。

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300分の1

最近ある兄弟の身に起きた事から宗教が如何に儲かり、そこに愛など一欠片も無いという事を思い知りました。幸い私はそこから早くに逃げ出す事ができましたが、この世では、人は容易に騙されるのだと今回の事では諭された思いです。信頼し頼れるお方は主のみだという事を!

  • 2008/07/11 08:44
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