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「主の祈り」の意図

天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。-Matt 6:9-10

私たちのセレブではいわゆる「主の祈り」とか「使徒信条」告白とかの形式的なことを行っていない。が、昨年の後半より、なぜかこの主の祈りが心にクローズアップしてきた。いつか語る必要があると。理由は不明。ただこれをこれまでのようにスルーすることはできないと感じ出したのだ。

いったい主の祈りの意味は何か?何が地上で行われるのか・・・。自分が知らないことに気がついた。だから積極的に祈りもしなかった。上のニール・アンダーソンにもあるが、その意味が分からないでは祈れるわけがない。かくして自分が「聖書も神の力も知らない」こと、「イエスがなされたこと、否、それ以上のことを私たちもなし得る」ことのチャレンジを受けたとき、主の祈りの意味も輪郭が浮かび上がってきた。

解答は、イエスを見よ!と。彼が何を語り、何をなされたか。彼こそが完全な真理、御父の体現者、御国の現出をもたらしたのだから。英国のColin Urquhartは言っている、イエスの愛は病んでいる人にsympathyを覚えたのでなく、compassionを覚えたと*1。sympathyからは奇跡的癒しは起きないが、compassionからは起きると。よくニッポンキリスト教で「弱者や病者に寄り添う」といった表現がなされるが、これはsympathy。対してイエスは彼らの虚弱や病気をcompassionにより具体的に癒された。目に見て、手で触れる形で!この二つは宗教と神の国の違いを決定的に明らかにする。

昔、「同情するなら金をくれ」なるセリフが流行った。今は、「同情するより力(デュナミス)を与えよ」と言うべき時なのだろう。

*1:sympathyは実は自己憐憫の投影なのだ。だからもっともらしく見えるが、巧妙な偽りで、力はない。なお、symapathyは同情、compassionは憐れみ、と一応訳しておきたい。

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