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「地獄でかの者の意志がなるごとく、地にもなるように」

という祈りがあったとしたら、現状でそれが成就していることは誰もが認めると思う。中一生徒などの殺害事件の連鎖、ISILにしても21人のクリスチャンの首を切る行為など、地獄の門が開き、かの者の意志を忠実に行っているのだ。対してクリスチャンはどうか?自分の葛藤の解決やハッピネスの追求でほとんどエネルギーを消耗しているのが現状。

主は復活した週の最初の日の晩に弟子たちに言われた:

その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。
そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。
そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。-John 20:19-23

戸がしまっているのに入って来られ、おそらく仰天している弟子たちに平安を祈り、復活の証拠を示された。そして「父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」と言われた*1。父がイエスをつかわされたように、とはどういうこと?そして聖霊を吹きかけて、罪の赦しを弟子たちに委託したのだ。罪の赦しを委託されるということは、病の癒しをも委託されることに他ならない(Mark 2:9参照)。かくして聖霊のうちにある神の国の権威を得たのだ。

わたしは、あなたに天国の諸々のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、すでに天でもつながれており、あなたが地上で解くことは、すでに天でも解かれているであろう。-Matt 16:19(私訳)

この節は時制が重要。天ですでにつながれていること、すでに解かれていることを、地上でもつなぎ、また解くのだ。かくして地上にて天で裁決されていることを具体的に執行するのが、天の門であり神の家であるエクレシアの役目となる。もしこの権威を用いて私たちがその役目を果たしたら地上で何が起きるのだろうか?繰り返すが、現状をひっくり返してみればよい。具体的にはイエスご自身がなされたことそのものなのだ*2。くだらない神学論争をしている暇があったら、御父の完全なる体現者イエスを見よ!(John 14:9)そしてその通りに行うこと*3。SO BE IT!

■追記:よく、主イエスは貧しく、見る影もなく、罪と病を知っていたから、その通りにクリスチャンも歩むべきだとする向きがある。カトリック系の自己憐憫投影型だが、これはまったく違う!下の同一視の問題とも絡むが、私たちが同一視するのは復活のイエスなのだ。古い存在を蘇らせてどうするわけって?新しい復活の初穂と私たちはひとつだから新創造なのだ。

*1:このふたつの「つかわす」は単語が異なる。前者はapostellō、後者はpempō。しかしイエス自身、父が自分をつかわされたと言う時、この二つを交換的に用いているので、同じセンスとみてよい。
*2:これは必ずしもしるし・不思議だけをなすことではない。神の国は力(デュナミス)にあると共に(1Cor 4:20)、聖霊にある義と平安と喜びなのだから(Rom 14:17)。
*3:私には無理と思われた方はとんでもない勘違いをしていることに気が付くべきだ。イエス自身も自分では何もできないと言われているではないか!彼のうちにおられる父が業をしていると。だからマインドのトランスフォーメーションが必要なのだ。新創造として生きることを阻害しているのは、マインドのうちに構築された敵の要塞なのだ。自分を責めたり、改善しようとしたところで、まったくの見当はずれと知るべきであろう。

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