風と戯れる
- 2009/07/26 07:54
- Category: 日記
何と言う爽快感、風が肌をなでてくれる感覚。同時にセミの声が私の身体に滲み込んで来る。朝の光はきらきらと、木々の葉がそよぐ音。アーサーじゃないけど、「ばっかやろー、これが神の愛の風なんだぜ、ベイビー!」と叫びたくなる。
* * *
ご質問がありましたが、自分の負うべき十字架って何でしょう?
・ウォッチマン・ニーのように信仰のゆえに強制収容所に20年間幽閉されて、最後はトラクターの上でボロのように召されること?
・ひたすら自分の嗜好を抑え、早天祈祷(この単語自体、私は相当に違和感を覚える)や20日断食をして自分を痛めつけること?
・愛する人も仕事も捨てて、裸一貫クリスチャン的出家をすること?
・清く、貧しく、美しく、何も持たず、何も贅沢をせず、淡白な沢庵と味噌汁の食事で過ごすこと?
・日本国民総福音化、リバイバルのために、街頭に立って伝道すること?
・自分の買いたいモノを控えて、什一献金に励むこと?
・鬱病や身体の病、あるいは経済的貧困の苦しみにひたすら耐えること?
・・・・さて、皆さん、もしこれらがDr.Lukeにとって自分の十字架を負うことであれば、私はただちに逃げ出します、ヨナのように。では自分の十字架って何?まあ、それぞれが主の前に問うことなのでしょうね。別に祈祷院に篭ったり、断食しなくてイイですから、当たり前の生活を当たり前に生きる中で、ですね。なにしろ「自分の」なのですから。同時に主とくびきを共にすることについて、主はこう言われていますね:
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
追記:少なくとも、たましいに安らぎがこないのであれば、間違った「十字架」あるいは「くびき」を負っているのです。これがクルシチャンたちですね。イエスはサディストではありませんから。
細木
この世の法と異なる、神の国の法と神の国の価値に生きることが私たちの十字架だと言われました。自分ではそうだと納得しています。そうすると、やはり、当たり前の生活を当たり前に生きる中でということになると思います。