生と死の間
- 2009/05/31 09:41
- Category: 独白
今朝はたっぷりと森の中でフィトンチッドとβ-エンドルフィンを満喫してまいりました。昨日は何故か腹を壊してダウンしておりましたが、まあ、そのときはそのときで楽しみはあります。しかし、やはり外気に触れて、森の香りを楽しめることは幸いなのです。何と言うシアワセ♪
このところ、私の関係者の死を通して、その死という人間の不可避の定めを考えさせられております。生と死の一線を越えること。もちろん私たちにとってはそれはこの古き体を離れて、何の妨げもなく主と共におれるようになる幸いな経験なのだが、しかし、それでも、この地上の幕屋を脱ぎ捨てることは、地上にいる誰もが経験したことのない、すべての人間にとって初めて経験となるのだ。
生命と物質の間。実に不思議なラインである。一見、明確な一線でもあるかのようだが、よく考えると実に曖昧でもある。このところjmolによってインフルエンザ・ウイルスのヘマグルチニンやノイラミニダーゼ、さらにRNAポリメラーゼの分子構造を紹介した。そして昨日は雪の結晶構造をお見せした。前者は生命現象を生み出すが、後者は単なる物質現象。しかしその差は何か。単なる分子構造の複雑の差なのか、それとも何か生命現象を生み出すsomethingが物質をして生命活動をさせるのか?
ウイルスは、特に、単なるタンパクの殻にRNA(時にDNA)を含み、それを宿主の細胞に取り付いて増殖させるだけの物質なのだが、果たしてこれは生命現象なのか。生命現象は自己保存と自己増殖として定義すれば、確かに立派な生命なのだが、しかし原形質も持たず、自らエネルギー代謝もしない。単にRNAを複製し、増殖するだけなのだ。
そして私たち自身の身体でもこのようなDNAの自己複製が絶えず行われているのだが、普段それを意識することはない。が、よく観察すると実に絶妙の現象が私の意志とは関係なく起きている。そこにあるのは単なる高分子の化学反応に過ぎない。では、私は単なる物理化学反応として存在に過ぎないのか?この考えは実に怖い。死とはその反応の停止であり、私の完全消滅を意味するからだ。
聖書では「死とは霊がこの肉体を離れること」なのだが、するとこの霊(pneuma)とは何なのか。また霊と単なる物質に過ぎない私たちの身体(soma)はどのように相互作用しているのか。ちょうどその相互作用をするポイントが私たちの精神、つまり魂(psyche:知・情・意)なのだ。この辺りも前に紹介したmixiのコミュ『霊精神身体医学研究会』ではポツポツと議論しているのだが、多分、完全なる理解は無理なのかも知れない。
脳外科医のペンフィールドやノーベル賞受賞の神経生理学のエックルスらは、精神活動は物理化学的存在である大脳だけではなく、霊とか何かが相互作用していると提唱している。これは古くはデカルトにさかのぼる二元論的立場であり、私たちもこれをとる。しかし最近の脳科学では、例えば養老先生のように、精神活動をすべて物理化学的現象に還元しようとする立場(一元論)が主流である。というか、その立場しかとり得ない。霊とかの存在はサイエンスの領域ではなく、信仰の領域になるからだが。
しかし私が毎朝味わう森の中のシアワセ感、つまりクオリアは私にとって確かな経験であり、疑い得ようもない。そこには脳内麻薬が働いているにしても、私が生きている実感を生み、私は今この地上の生を満喫することができるのだ。同様にキリストに触れるとき、キリストのクオリアを生み出し、この身体で制限があるにしても、キリストを堪能することができる。かくしてパウロもこの霊と肉体の狭間である種の葛藤を絶えず経験していたのだ。
この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。・・・それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。・・・わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。
そして彼の出した結論は
だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。・・・わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。・・・わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。
zion
昨今の学生は奨学金を返さないとか(返せない?)、、
本当に必要としている貧乏学生にとっては迷惑な話。
かくいう私は育英会、某製鋼会社、市から貰っていましたが、10年かけて完済。
あれがなかったら今日の自分は無かった、、、
何とかならないものでしょうか。