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トップ > 2013年07月12日

イエスの再臨と携挙はAD70年にあった!

最近の再建主義の富井氏の論はますます過激さを増しているような・・・。

よくプレテリスト*1に対する批判として、

イエスは「昇天されたと同じ姿で来る」と言われたではないか。そんなことが紀元70年にあったのか。紀元70年に携挙があったのか。そんな歴史的記録はないが。

という人がいる。

あったのである。

なぜならば、聖書がそう言っているからである。
歴史的記録にないから「なかった」という結論を付けるならば、「聖書は聖書によって解釈する」という原則を破ったことになる。
聖書以上の権威がない以上、聖書に「紀元70年にイエスの来臨と携挙があった」と述べているならば、「あった」のである。
聖書に裏付けは必要ない。
聖書は神の言葉である以上、信仰の対象であって、疑いの対象ではない。

パウロは、「生き残っている私たちが」と述べている。
(1Thess 4:15,17)
つまり、携挙はパウロ及び同時代人が生きている間に起きると述べている。

イエスの来臨は、イエスと同時代人が生きている間に起きる。
(Matt 16:28;Mark 9:1)
イエスの来臨は、昇天と同じように起きる。
(Acts 1:10-11)
これらの聖句から、イエスは、同時代人が生存中に、昇天と同じ有様で再臨されたと結論しなければならない。
歴史的記録などどうでもいい。
聖書信仰とは、「聖書は聖書によって解釈する」という原則を持ち、聖書を「自己完結している書物」としてとらえることを意味する。
だから、科学的なアプローチとはまったく異なることを肝に銘じるべきだ。

うーん、すでに対話が成立しないところにおられるようだが、黙示録14章(Rev 14:14)では雲に乗った人の子のような方が公に来られるのであり、その後19章での地上への再臨について、ゼカリヤ書ではオリーブ山が東西に裂け、ユダヤ人が胸を叩いて悔改めるのだが(Zech 14:4)。これは二度目の再臨になるのかしらん?

*1:「プレテリスト」とは、黙示録をすでに起きたこととして解釈する立場。富井氏の場合、19章まではAD70年に成就とする。ゆえに「パーシャル・プレテリスト」とも言われる。対して「フル・プレテリスト」は黙示録すべてがすでに成就しており、現在は新天新地であるとする立場。富井氏はこれを「契約的事実と物理的事実の混同である」と批判している。

TOKYO-YAZAWA

私もけっこうカッコイイ(と思う)が、YAZAWAはやっぱり、モア2・カッコイイ・・・

いよいよ、前期も終わりが・・・

見えてきた。いつもどおりの金曜日の午後、まったりと過ごしている。というわけで、私の好きな夏だ!この夏はいろいろと考えているが、ややスケジュールがタイトだ。富士山に再チャレンジしたいが、なんだか原宿か新宿並みの人混みのようで、さて、どうするか・・・。それにしてもこの学期ごとの解放感がたまらないのだ。これゆえにこの仕事も続けられているわけで。いずれにしても、遊ぶツモリ。ちなみにこれは本日の私。

ファイル 3732-1.jpg

ちょっとコワオモテ系だが、けっこうシャープに仕上がっている。これで講義しているのだから、仕事も遊びもあまり変わらないかもだ。かくしてこのボディもメンテを怠りなく、極私的には30台のまんまなのだ

ファイル 3732-2.jpg

ところで、福島は事態がいっこうに収束していない。むしろ汚染は深刻化していると見るべきだろう。燃料はすでに地中に潜っていると考えた方が筋が通る。京大の小出氏の指摘どおり、福島は隔離の上、石棺化し、地中には隔壁を設けるべきなのだ。茨城沖のスズキでは、なんと1,000Bq/Kgの汚染が出ている。人体でセシウムが40Bq/Kgも蓄積すると心筋がやられることは、すでにチェルノブイリを調べたバンダジェフスキー氏の論文でも指摘されている。さらには膀胱がやられる。かくして真実を薄目か横目でスルーし続ける日本は、確実にその終焉を迎えつつある。ちょうど末期がん患者の心理と同じなのだ。緩慢な死を迎えつつあるこの国。神の御心はどこにあるのだろう?

追記:挨拶を忘れてました

暑中お見舞い申し上げます

EVOLUTION vs. GOD

朝、森の中で主にあらゆることを語りかけ、祈り、賛美する。そして神の創造物を楽しむ。鳥の声、緑の木、きらきらする波・・・。これ以上のハッピーがあるだろうか?

今、論争を引き起こしている作品。聖書の「神」を「創造主」に変えたからと言って、聖書が見えるようになるものでもないが、進化論はすでに破綻しているのだ・・・。次の会話を考えてみよう。

Q.ここにPCがあります。これは自然の偶然の積み重ねによりできたのです。
A.NO!オツムがいかれている!

Q.そうです、PCは人間が作りました。では、PCと人間はどちらが性能が高いでしょうか?
A.人間に決まってるじゃん!

Q.その人間は自然の偶然の積み重ねによりできたんですよ、これを「進化論」と言います。
A.なるほど、神がいて、神が創造したなんて、幼稚園レベルの妄想病患者の戯言だ!

「進化論」は信仰の一種。サイエンスではない。サイエンスを知らない者がよく言うセリフは「科学的」。愚かなものだ、人は、しばしば、自分が何を語っているか分からなくなるものなのだ・・・。

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