ビョウキ(Sicko)の定義
- 2008/02/28 12:31
- Category: 意見
下で山谷さんがウィットネス・リー神学の問題点を指摘して下さっています。個々の実に愚かな問いかけに誠実に回答される少佐の実直さが分かりますね。
さて、私たちサイエンティストの視点からすると、
・神性と人性を混ぜ合わせて、人が神になる。
ここに「混ぜ合わせ(ミングリング)」とは、水とお茶をそれぞれの性質を保ったまま、混ぜ合わせることで、神性と人性も性質を変えずそのままに混ぜ合わせること。
応答:メタ(記述)言語と被定義語のランクが区別されていません。例えれば、辞書で「A」を引いたら、「Bを見よ」とあり、「B」を引いたら、「Aを見よ」とあるようなもの。分かりますか?
・カルヴァンとアルミニウスの論争:決定論か偶然論か?
応答:あのね、解像度1㍍のレンズでどうやって1㌢メートルの物体を観察・記述できるわけ?
・みどりごは父神であり、キリストは御霊になった。
なぜなら、相互に内住しているから。
応答:相互に内住できるのは、父が子でなく、子が御霊でないから可能なのでしょう?A=BかつB=Cときて、C=Dとするようなもの。
と言うわけで、これらの命題自身に内在するナンセンスさが分かった時点で、私たちはそれ以上関わりません。皆さんは、例えば、
・「-1=1⇒(-1)^2=1」
とか
・「2=1⇒2^2=1」
(^は二乗のこと)
と言う命題をどう判断しますか?これらを「間違っている」と言う人とは私たちはそもそも論じ合う意義を感じないわけです。何を信じるのも、まあ、ご勝手にとなるでしょうか(笑)。
ここで「メタ」の視点が必要になります。今、
・「x=1⇒x^2=1」・・・※
と言う命題があったとします。これは正しいですね?そこでこれを個物xの"関数"と見て
・f(x):=
{
x→f(x)|x=1→x^2=1
}
と定義します。そしてこの値域は、{0,1}とするわけですね。
さて、ここでxに-1を代入してみましょう。関数f(x)はどんな値を返すでしょうか?※が正しいのですから、f(-1)=1です!同様にf(2)=1なのです。かくして上の二つの命題は真なのですね。
こういう視点を「メタの視点」と言います。個々の命題の中に飲み込まれるのではなく、それをより高度の次元から見るわけです。こうしてみると、「ミングリング」も「カルヴァンvsアルミウス」も「父=子、子=御霊」も論じるに値しない事が容易に分かるわけです。
私が定義する「ビョウキ」とは、「メタの視点をもてない精神状態」と言えます。自分の感情に飲み込まれた人が鬱病患者、自分の妄想や幻覚に飲み込まれた人が分裂病(統合失調症)。そして再建主義に飲み込まれた人、人の神化に飲み込まれた人、ウィットネス・リーに飲み込まれた人、ベニー・ヒンだのチョウ・ヨンギに飲み込まれた人・・・。このニッポンキリスト教にはこういった病理標本に事欠きません。
サイエンティストは常に自分のスタンスに飲み込まれないように、自己確認を行います。そこから、例えば観測の限界を定式化したハイゼンベルグの不確定性原理、偶然と必然の分離限界を定式化したカオスの理論、論理構造そもものに矛盾があり得ることを指摘したゲーデルの不完全性定理などが分かってきたわけです。
ウイットネス・リーに飲み込まれた人々とダビデ・張に飲み込まれた人々にはどうも親和性があるようですが、共にメタ視点を失っているビョウキ(Sicko)であることは間違いありません。そして彼らにとって最も居心地の良い場が「2ちゃんねる」あたりなのでしょう。そこの"世論"が一般世論であると自己内的世界に飲み込まれているわけです。ほくそえんでいるのは西村博之氏でしょう。かくして彼らがそこで主張する程に、LCもCTもおかしいことが分かるわけです。倒錯とはメタ視点の欠如です。
改めて、山谷少佐の実直さには敬意を表したいと思います。
参考:科学と信仰(→http://www.kingdomfellowship.com/Treatises/sciandfaith.html)
付録:週刊東洋経済誌にあの「外務省のラスプーチン」こと佐藤優氏の論考があった。「専門家にはなぜ偏屈な人が多いのか」と言うタイトルだが、彼は同志社大の神学修士を持っているが、専門家の視野狭窄、つまり「飲み込まれ現象」について、こう言っている:「認識論哲学の入り口を勉強すべし」と。要するにメタの視点を持てと言うことだ。彼の著作はできるだけ追いかけているが、「神学」をきちんと相対化する視点を持っており、かなり興味深い言説が多い。