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石がハマりたい処

再建主義の富井氏のこの訴え、まことに心に響く:

ディスペンセーショナリズムに汚染され、プレ・ミレの悲観主義的な終末論によって不信仰に陥ったキリスト教界、福音派の中で評判を獲得し、偉くなり、指導者になったからそれが何だ。
聖書すら毀損されていることが明らかなのに、何も対策を講じない集団において出世したからいったい何がいいの?
人の歓心を買うことを第一とするような教会成長学に汚染されたキリスト教界で孤立することに何か不都合なことがあるの?
「人間に信頼する」ことは「心が貧しくない」ことである。
人間に頼れないことを悟ったときに、はじめてわれわれは「幸い」になる。

彼のただ神にのみ頼る孤立無援の歩みには敬意を覚えているのだ。私も意に反してこのニッポンキリスト教なる忌まわしい業界と関わりを持たされたが、すでにこのギョウカイ、ビョウキと狂気が支配し、まともな人間であればとても住める処ではないと分かるはずだ。これはもう繰り返すまでもない。

今回いつもの電気屋さんが面白いことを書いておられた。

ある程度石と付き合うと、石がここに置かれたい場所が見えてくる時があります。
それを私の意志を用いて据えられた時はちょっと快感です。

これ、漢詩も同じ。作為的かつ技巧的に詩語をハメた詩は、形はそれなりについても、スキッとした爽快感がないのだ。詩語がハマりたい処にハメてあげると、これが実に快感。こちらの意志ではなく、あちらの意志が優先される時、そこに何かが起きる。富井氏も、自分を信じるな、自分に頼るな、と繰り返しておられるが、まことに自己(セルフ)の匂いが入るとすべてが台無しになる。それは実に興覚め(ツマラナイ)なのだ。

そう、私たちはまことに生ける石なのだ*1。ただその石をどこにハメるかは神の意志による。私たちはその主権に服し、何気にハメこまれる時、実に自然かつ安楽なのだ。自分としてはハメられた気もしない。ただ自然と生きているだけ。こちら側では老子的無意自然。神の側では有意必然なのだ。いわゆるキリスト教のリバイバルなんとかとか、人為的な臭さのあるものはもう散々な結末を生んだことは言うまでもないだろう。この業界、屍累々だ。彼らの妬み・嫉妬・怨念がネット上には亡霊の如く蔓延している。もはやエクソダスとか叫ぶつもりもないが、この業界はその腐臭の中で立ち腐れるであろう。

幕末から維新にかけて、諸々の志士たちがそれぞれの信条に基づいて、決断し・行動し・命を捨てた。彼らは自分がどんな場面で、どのような歴史的意義を有していたか、もちろん知る由もなかったのだ。それはただ神の主権の領域のこと。判断は、少なくとも当時の人間がなすべきものではなかった。私たちも同じ。自分の生きている様が神の御計画の中でどんな意義を与えられているのか、それは私たちが判断することではない。ただ、私たちは日々生きるだけ。ならば、楽しく生きた方がよかろう。先にも書いたが、主は午前に雇った者にも、午後に雇った者にも同じ賃金を下さるお方。ならば午後雇われた方が理に叶っている。ここにDr.LukeのiDLING生活の根拠があるのだ。

高杉晋作らの生きた時間を見ると、その短いことに改めて驚く。彼らはその瞬間的な輝く生をただ必死*2に生きたのだ。そしてそれぞれの役割や意義をまとめ上げるのは神だ。こうして歴史は、人の意志(無為自然)と神の意志(有意必然)が絡み合って紡がれていく・・・。


※死の直前の晋作の詩。小門夕棹舎に遊ぶ。

軽暖軽寒春色晴る 閑吟独り小門(おど)に向い行く
梅花は凋落し桜猶早し 窓外唯聴く夕棹(せきとう)の声

■参考:神の予定と人の自由意志について

*1:私の号は一石、これ、ペテロを意識したわけではない。クリスチャンになる以前からだから。ルーツはアインシュタイン(Ein Stein)なのだ。
*2:いわゆる今日的な「必死」の意味ではない。

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