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トランスフォーメーションは栄光にあって

先の三浦綾子の文章について*1、すでに「心の貧しい者たち」の誤訳でその後をあえて論じるまでもないが、はっきり言う。偽りである!パウロは苦難について何といっているか。

私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。-Phil 4:12

彼は環境や状況の犠牲者(Victim)ではない、それらを支配したのだ、つまり勝利者(Victor)として。彼はよく肉体のトゲ、つまり病気を抱えていたと言われる。が、病気ではない!聖書は聖書で解釈する必要がある。トゲはサタンの使いだ。それは彼の働きを阻害する存在なのだ。前にも書いたが、彼は直後にこう言っている:

ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。-2Cor 12:10

キーワードは「キリストのために」だ。ここに病気はリストされていない。もし「弱さ」が病気であるならば、キリストのために病気に甘んじている?・・・意味不明だ。人はいわゆる病気や苦難において造り変えられるのではない。これは三浦綾子文学の世界だ。パウロは言っている:

主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。-2Cor 3:17-18

栄光の中でトランスフォーメーションは起こる*2。栄光は前に書いたが、Kavod。すなわち「重さ」だ。神の栄光が望むとき、それは重い。その重さは素晴らしいエクスタシーをもたらす。その主の重いタッチが私たちを造り変える。決して歯を食いしばることによるのではない!主ご自身ですら、喜びのゆえに十字架につかれたのだ。十字架教の宗教の霊から解かれよ!

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。-Heb 12:2

主の十字架は主の栄光だった(John 7:39)。神のみわざはすべて栄光の中でなされる。栄光の雲が臨むとき、それは私たちに主の臨在を経験させる。旧約の祭司たちのように立っていることができなくなる(1Kings 8:11)。その臨在のエクスタシーの中で、我を忘れ、聖霊が自由に働かれるとき、自然と癒しも起きているのだ。造り変えも、癒しも、すべてはこの臨在の雲、栄光の中の現象なのだ。どこに自分の信仰がどうのこうのと主張する余地があろうか。自分は消えるのだから。

*1:自己憐憫の投影であることは言うまでもなかろう。
*2:マリアが受胎告知を受けたとき、「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます」と言われた。この「おおいます」は"episkiazo?"、主が変貌の山で雲がおおったのと同じ単語だ。つまりマリアの妊娠も栄光の雲の覆いの中で起きた奇跡なのだ。

信仰の分け前

午後はGYMにてボディのメンテを。雨でジクジクだが、やはりボディを追い込むことは気持ちいい。

さて、癒しとか繁栄について触れると、なぜか微妙な反応が出る傾向がある。ある人は、信仰によって癒しがなされると書いたところ、異議を申し上げるとして、癒されない人が信仰がないような書き方はけしからんとのこと。繁栄も多分同じような心理によって反対意見が出るのだろう。彼らは言う、現実を見てみよ、クリスチャンでも癒されない人や悲惨な生活をしている人はごまんといるではないか。彼らは皆信仰がないということなのか、と。ちなみにニッポンキリスト教のスタンダードとも言える三浦綾子によるクリスチャン像がこれらの反対意見に組みしていると思う。

心の貧しい人たちは、幸いである。(←これがそもそも誤訳!霊の空っぽの人だ)
天国は彼らのものである。
(新約聖書・マタイによる福音書5章3節)

 心の貧しい人とは、人に誇るべき何ものも持っていない人であろう。金もない、地位もない、体も弱い、知識もない、おのれにたのむ何もないがゆえに、ひたすら謙遜に、神の前に頭を垂れている人たちである。
イエスのまなざしは、いつもこうした弱い人々に向けられていた。イエスの愛は、いつもこうした謙遜な人間たちに注がれていた。        
(三浦綾子・新約聖書入門より)

実はこういった人が謙遜であるとは限らない。現実は逆なのだ。福祉の現場とかを見れば明らかだ。

なぜ癒される人と癒されない人がいるのか、私は分からない。Joelも分からないと証言している。事実彼の父親は長年の高血圧で腎臓を患っており、最期は心臓発作で逝った。しかし母親は末期ガンをきれいに癒されている。信仰があれば癒される、これは真理だ。しかしその信仰は自分で絞り出すようなものではない。

わたしは、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりびとりに言う。思うべき限度を越えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである。-Rom 12:3

この「量り」とは"metron",Strongによれば"An apparently primary word; a measure (?metre?), literally or figuratively; by implication a limited portion (degree): - measure."あえて言えば、「分け前」が適切だろう。信仰は自分由来ではない。癒されない人は信仰がないのか、という人は、実は自分由来の"信仰"を頼みとしているのだ。だから信仰がないと暗に指摘されていると感じて勝手に傷つくのだ。誰もそんなことは言っていないし、信仰は分け前だから、自分が誇るものでもない。

聖霊によって分け前として分配された信仰をみんな持っている。それをどう活用するかは、それぞれの信仰の成長の度合いによって異なるだろう。信仰を活用できる人もいれば、無駄にする人もいる。その差はあるだろう。分かち与えられた信仰がある形を構成するようになるとき、それはサブスタンスとして、その時での固有の信仰として生きる。これが癒しの信仰であったり、必要の満たしの信仰であったりするのだ。この点、イエスは信仰を実に自由に活用できたのだ。

癒されない時はどうするか。ある人が言っていた。プランBはないと。神の言葉はあくまでも真理。信仰があれば癒されるのだ。ゆえに自分の経験や感じ方を否んで(これが自分の十字架を取ることだ)、主の前に出て、主のタッチを受ける。私たちが変えられるべきであって、御言葉を変えるのでは断じてない!ここにマインドのトランスフォーメーションがなされる。肉の思いは神に敵対する。それでどうして癒していただけるだろうか。悔い改めとは罪の白状することだけではない。マインドが深いレベルまで御言葉に従って造り変えられることなのだ。十字架により自分を否むとはこのことである。

「繁栄の神学」ってなんだろう?

Joel Osteenをはじめとするいゆわる"Word of Faith (WoF)"運動についてはかなり批判や非難があるようだ。異端だとか、カルトだとか、さらにはニューエイジだとか・・・。特にその中の「繁栄の神学」と称される分野はかなりエキセントリックな反対がある。正直に言えば、極私的にはなぜなのか、ちょっと理解しかねている部分があるのだ。彼らに言わせるとこれらの御言葉は何を意味し、どう理解するのであろうか?

するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」

イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」

まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。

またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。

あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。

あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。

その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。

また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。

どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、

「私は信じた。それゆえに語った。」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語るのです。

愛する者よ。あなたが、たましいが栄えているようにすべての点でも栄え、また健康であるように祈ります。

私の理解するレーマとロゴスの違いや、信仰の定義についてはすでに書いているが、信仰とはサブスタンスとその現れ、それは語り出された言葉、レーマによること、言葉には力があること、罪の赦しも病の癒しも十字架の中に含まれていること、もちろん必要の満たしも・・・。イエスはすべての病気を癒し、欠乏していたパンを増やし、人々を満腹させたこと。イエスは御父の完全なる表現であり、御父の意志を100%行ったこと、彼の語った言葉は御父の言葉であったこと・・・。

つまり御父の御心は人間のあらゆる罪を赦し、病を癒し、必要を満たし、健康を与え、あらゆる面で豊かに飽かせて下さることであると分かるのだが・・・。極私的には、これらの御言葉をアレコレこねくり回さず、単純に同意して、感謝しつつ受け取るだけなのだ。なぜなら、尊い御子イエスの血がすでに流されているからだ!

わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。
わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、
あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。-Ps 103:1-5

追記:参考までにOsteenを偽預言者と糾弾するビデオを貼っておきます。

見る・思う・その結果

私たちが何気に行うこの行為。実はこれが人生を決める。

女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。-Gen 3:6

エバは、見た、思った、そして食べたのだ。これが人類の罪の原点。そこから死とすべての悪と悲劇が侵入し、人類を罪の中に閉じ込めた。私たちが見ること、思うことは、そのとおりに実現する。ポイントは同意の有無。エバはその木の魅力に同意した。ゆえに行動を起こした。私たちのビジョンとマインドのパワーはまことに運命を支配する。どんなビジョンを持ち、何をマインドに浮かばせるか。同意とともに思ったことは必ずなるのだ。

私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ・・・2Cor 10:5

人間の悲惨はどこから来るか。たいてい、ある時にサタンの偽りに同意している。自分は病弱だ、同意。するとそうなる。自分は貧しい、同意。するとそうなる。自分の家庭は不幸だ、同意。するとそうなる。自分は大したことない存在、同意。するとそうなる。神は私たちの幸福と健やかさを願っておられる。エデンの園におけるように、ご自身の保護と満たしによって生きることを願われる。なぜ、あえて病気や貧困に人を閉じ込めることがあろうか。現在の地上の縞模様の様はサタンの横奪の結果なのだ。人々がサタンの偽りに同意し、受け入れているからだ。神の責任ではない。

御言葉は言う:

・私たちは天地を造られた神の子である。
・私たちはキリストと共に死んで復活し、新創造とされている。
・私たちは恐れを抱かせる奴隷の霊を受けたのではなく、子とする霊を受けた。

そう言われても、今の自分を見ると・・・という人は取り残される。セルフ・フォーカスの姿勢は神の真理を拒絶する。なぜなら肉の思いは神に敵対するからだ(Rom 8:7)。私たちはサタンの中傷や告発を拒絶し、これらの真理に意志を用いて同意するのだ。これらの御言葉を常に見つめ、思うこと。すると信仰が生まれ、それを語ること。するとサブスタンスがこの世界に現出するのだ。

病気の人に同情(sympathy)してはならない。貧困にあえぐ人に同情してはならない。運命を恨む人に同情してはならない。同情はその人のアイデンティティーをその状況によって肯定し、そこに固定してしまう。サタンの偽りの中に置き去りにするのだ。イエスは決して弱者や病者に同情しなかった。彼は彼らをあわれんだのだ(compassion)。日本語ではこの区別が曖昧だが、あわれみはその状況にある彼らを肯定しない。罪の赦し、病の癒し、必要の満たし、豊かないのちと生活、キングダム・ライフにある真のアイデンティティーへと彼らを引き出し、そこに確立するのだ。

イエスは盲人に「かわいそう」とは決して言わなかった。泥を目に塗り、シロアムの池に行けと命じたのだ。まだ目は開いてないのに!イエスはすでに彼の目が開くのを霊で見て、思った。そして信じて、語ったのだ。サブスタンスを明確にとらえていた。何を見るのか。目の前の物理的状況か、霊の世界のサブスタンスか。そのどちらを思うのか。思えばその結果をいずれ得るのだ。

わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。-2Cor 4:18

Joel Osteenの秘密

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彼については、かつて私は批判的であった*1。いわゆるNWRとの関係なども指摘した。が、最近、彼のメッセージについては単純に評価するようになった。批判者たちはキャンディ・メッセージと非難するが、いやいや、2万人を相手に毎週メッセージをすることの重さを考えてみて欲しい。30分間で2万人のマインドをとらえるのだ。

そこで極私的には彼がどんな生活をしているか興味を持ったが、ちょうどインタビュークリップを見つけた。これによると、彼の生活はきわめてシンプル。基本は家族と過ごす。筋トレなども行いつつ、水曜日から土曜日まではメッセージの作成と記憶に費やすと・・・。やはりきちんとした原稿をつくり、それを記憶しているのだ。これを毎週行う霊的・精神的労力は相当のものがある

人は何を求めているのか。単純だ。ハッピーになること。神は何を求めているのか。人のうちにキリストができること、つまりメタモルフォーゼだ。人生にはビハインドとアゲインストの風が吹く。神よ、何ゆえに!と叫ぶこともある。Joelはそのような人々の叫びに聖書から回答を与えている。基本はGOD IS GOOD。神があえて病気や貧困を送って人を訓練するといったサディストではないこと。自我を砕きぃ~といった十字架教でもないこと。神に期待し、信仰をおいたときに、神は私たちを失望させることはないこと。このようなエンカレッジを与えていることは間違いない。

*1:理由は、私が影響を受けてきたウォッチマン・ニー的霊性とは真逆だからだろう。彼は貧困と病苦と幽閉、そして殉教の人生を送ったのだ。そこに私は大いなる魅力を覚えていたのだから。が、普通の人からするとある意味息が詰まってしまう人生ではある。対するJoelはいかにも米国的な明るすぎる笑顔。ハッピーを絵に書いたような家族とリッチな生活。胡散臭いと感じていたが、これも敗戦国のコンプレックスがなせるわざかもだ・・・。

神と同意する

私が最近強調しているニュー・クリーチャー。アダムにある私たちはすでに終わり、キリストにある新創造とされた事実。これって、けっこう抵抗があるようだ。いわく、自分のうちを見ると罪的なものや汚れているものばかり。それを無視して、新しい人類と言ってしまっていいのか?私たちは罪ゆるされた単なる罪人*1。だからへりくだって、自我が砕かれる必要があるし、もっと罪の告白やデボーションや修養により聖化される必要がある・・・。ところがそのような人はたいてい次から次へと問題を抱える。

大脳辺縁系の問題はもう繰り返さないが、真理は私が今現在どのような状態であるとかないとか、一切関係ない。神がキリストにあってそれをなされたゆえに私たちはすでに新創造、ピリオド。メッセでも語ったが、神とともに歩むためにはまず神と同意する必要がある。問題を次々に抱える人は神と同意してしない。

ふたりの者が同意することなしに一緒に歩めるだろうか。-Amos 3:3

神は言われる、あなたはすでに聖であり完全である。新しい生命体であり、ニュークリーチャーであると。Do you agree?

追記:サタンはすでに私たちに対して何らの権威も有していない。が、私たちのマインドに彼が語りかける偽りに同意するならば、彼のパワーが私たちに働くようになる。私たちが何に、あるいは誰に同意するか。これがマインドにおけるバトルの本質なのだ。メッセでも語ったが、私たちは門を出入りするが、それはマインドを通してなのだ。

*1:メッセでも指摘したが、こう言っておくことは保険なのだ。see?

日々キリストにありて

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ニール・アンダーソンによる黙想


 また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません(ヤコブ1:22)。

 しばしば牧師や宣教師たちが罪を指摘しつつ、自分がそれを犯しているケースを聞きます。全国的に有名なクリスチャンの理想的人物が、隠された不道徳な生活を暴露されたりもしています。私たち神の言葉を与っている者たちは、まずこのことを最優先する必要があります。私たちはメッセージを準備するときには神のみ前で膝をかがめ、「神よ、この御言葉は私の生活において実際となっているでしょうか」と問うのです。そうでなければ、聴衆に対して、「私はこの点で模範でありたいと願いますが、まだ成長過程にあるのです」と言うべきでしょう。御言葉が自分にとって実際となっていないのにそれを宣言することは偽りを語ることです。
 御言葉を受け取る私たち自身もそれを行わなければ、自己欺瞞を犯すことになります。私たちは説教や講義を聴いて、「わお、なんという偉大な真理だ!」と言って、それを自分で実行したり、生活に適用することなく人と分かち合うのです。ヤコブは御言葉を聞いて行わない者は自分を欺いていると言います。
 私たちはどうして自分が御言葉にふさわしくない事実を認めることができないのでしょうか?それは私たちが完全癖コンプレックスを持っているからです。私たちは自分が完全であり、それ以下であってはならないと感じているのです。しかし、私たちは模範にはなれません。なぜなら私たちは不完全だからです。私たちは成長の模範となれるのです。私たちの周りの人々は私たちが成長過程にある存在だと認める必要があります。私たちは成功とともに、失敗もどのように処理するかを彼らに示すのです。私たちがクリスチャン・コミュニティにおいてこのように振舞うならば、敵に足がかりを与える可能性を著しく低くすることでしょう。

 主よ、私があなたと御言葉にあって成長することよりも、地的な完全を求めてしまうことをゆるしてください。今日、私があなたのいのちにより成長することの模範を示せますように。

※このシリーズは1月の分にて休載いたします。

TODAY'S CELEBRATION 【Apr 12, 2015】

UPしました。

タイトルメディテーションによるマインドのパワー

聖書箇所:アモス3:3;創世記11:6;ヨシュア1:7など

4月19日のセレブ

 ・場所:横浜技能文化会館(特別会議室)
 ・時間:1300-1700
 ・Web:Kingdom Fellowship®

神をブロマイド化する罠

クリスチャンの間でよく行われる証。これがしばしば罠になる。いわく、神はこれこれの方で、私があれこれの時にこうしてくださった。このテーマはこうこうで、これこれだ・・・。こうして神を2D化してしまうのだ。

かつてここで紹介したウォッチマン・ニーの黙想にもあったが、救いの時、これこれの御言葉であれこれの経験をした、云々。これが罠になると。ただ一回性の神と御言葉との邂逅を写真のように現像して焼き付けてしまうのだ。そして他者はその印画紙の像を見て、神を知ったツモリになる。ちょうどアイドルのブロマイドのようなものだ。

私がニーを評価している理由は、人間の成り立ちや霊と魂の関わりなど、ちょうど霊的な解剖学や生理学を提示しているだけだから。その後は自分で経験せよ、と。彼が経験した神を人に提示することはほとんどない。まして後半の20年は幽閉されており、いかなる神との関係を得ていたかはまったく不明。神と彼の間のみで共有されているだけ。

この意味で私は御言葉の解き明かしとか霊的意味の解説などに対しては、最近は特に懐疑的になっているのだ。それはブロマイドを人に売るようなもの。その人がブロマイドを見て、本人を知ったツモリになる罠があるのだ。もちろん、われわれは限られているから、個人で神のすべてを知ることはできない。が、神がどのような方であるか、それを味わい、経験するのは、あくまでも個人の問題である。私たちは神の前の単独者であるべきだ。

自分が知っている神はブロマイドのそれか、直接のそれか。絶えず自問自答する必要があろう。ブロマイドを100枚持つよりも、神の目をひと目でも直接見ることの方が重大なのだ。神は私に対してこの物理的時空間に直接に介入されるお方。それ自体がスーパーナチュラルな現象なのだ。

Joel Osteenの魅力

ここでも何度か紹介した彼。自己啓発だとか、成功哲学だとか、いろいろ批判はある中で、2万人をこの簡素なステージとルックスで惹きつけるメッセージはやはりすごいものがある*1。しかも淡々と立板に水的な原稿を読むかのような語り口、いわゆるウケねらいも、聴衆に対する媚びもない。英語は教科書のようにクリア。矢沢はあの派手なステージで1万人を満足させるが、この簡素さのコントラストにある意味、感動する。

*1:霊的にどうのこうのは置いておく。

幸いな魂

主よ、わが心はおごらず、わが目は高ぶらず、わたしはわが力の及ばない大いなる事とくすしきわざとに関係いたしません。
かえって、乳離れしたみどりごが、その母のふところに安らかにあるように、わたしはわが魂を静め、かつ安らかにしました。わが魂は乳離れしたみどりごのように、安らかです。-Ps 131:2-3

十字架教の罠

「自我を砕きぃ~」、「自己を十字架につけてぇ~」と叫ぶ向きがニッポンキリスト教によく見られる。かくしてクルシチャンが大量に生まれる。何度も言っているが、自分で自分を十字架につけることなどできるわけがない!彼らは自分が何を言っているか分かっていないのだ。主は言われた、自分の十字架を取って私に従え。魂を救おうとする者は失い、失う者は得る、と(Luke 9:23-24)。ポイントは、私たちは魂を得るのだ!魂が栄えるために十字架を取るのだ。

Dr.Kさんがニーの『キリスト者の標準』を詳細に検討されている。その中でこう指摘されている

 キリスト者の間の考え方にある種の混乱がある。

主の十字架の価値が分かった上で生じる混乱だ。

くどいようだが、再度ローマ6:6に注目したい。

ローマ6:6b,c
本当に分かっているのか、このことを
我々の古い人は主とともに十字架に付けられた
罪の体が廃棄されるように
もはや我々が罪に縛られることがないように
(Nee訳+意訳)

この聖句において次のことが分かる。

あの出来事を、過去の、まさにあの場所へと回帰させていく動詞時制となっている。

しかも、最初で最後、ただ一回のみのイベント。

事は必ず完了し、なされないままでは終わらない。

我々の古い人は、ただの一度、そして永遠に十字架に付けられてしまった。

よって、二度と十字架に付けられることはない。

これが知識であり知恵だ。

この一回限りの十字架でアダムにある私たちは終わったのだ!そしてキリストと共に死に、復活した。今や、新しい創造ニュー・クリチャーとされている。これが我々の真のアイデンティティー。罪ゆるされた罪人ではない!新しい人類なのだ*1

十字架はこの新しいアイデンティティーに反する要素を処理する場。特にマインドが鍵になる。私たちのマインドは霊と魂の接点であると繰り返しているが、偽りを信じ込まされているマインドは信仰を阻害する。そして大脳辺縁系の諸々の欲望や感情を生み出す"自分"を自分と思い込んで、それをなんとか改善したり、聖化しようと務める。何度も言うが、それは幻想。何度も何度も自分はまだだ、まだ足りない、まだきよくない、まだ忍耐がない、まだ・・・・、と果てしなくグルグル周りする*2。人生はそんな葛藤に明け暮れるほど長くない。

新しいニュークリチャーとしての私に反するマインドの思いをまず捨てること。御言葉に矛盾する思いを取るのか、真理を取るのか。その選択の場が私の負うべき十字架なのだ。前者を選べば、大脳辺縁系からエネルギー(リビドー)が私たちの魂をトライブ(駆動)する。それは不安・緊張・焦りなど死の感覚に満ちる。後者を選べば、御霊のエネルギーが魂をドライブする。それはいのちと平安だ。魂は思い・感情・意志が健やかに活動して、文字通り繁栄する。そのときあらゆることで繁栄し、健やかであることができるのだ。十字架教から解放されよ!

愛する者よ。あなたのたましいが繁栄していると同じく、あなたがすべてのことに繁栄し、またすこやかであるようにと、わたしは祈っている。-3John 1:2

*1:もちろん体が旧創造に属するから時にいろいろな罪は犯す。しかしアイデンティティーは罪人ではないのだ。New Creatureが有する権威と能力のポテンシャルはすごいものがあるのだ。make sense?
*2:大抵は聖書の言葉を用いてぐるぐる周りを正当化するが、彼らのマインドはしばしば自作自演の葛藤にはまっているだけだ。この無駄な努力をやめることが実は十字架なのだ。十字架は魂のレストの場だ。

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