しまった、忘れていた・・・
- 2014/01/08 09:52
- Category: 日記
- Tag: YAZAWA
Dr.Luke的日々のココロ
トップ > 日記
本日から始動。さっそくしごいてきた。学生たちに言わせると、朝からやたらテンションが高いセンセなのだ*1。・・・と言っても今週で講義は終了、あとは試験、そして冬眠に入る。この冬はGymにてボディをさらにワンランク・バルクアップするツモリだ
ところでこの写真、マクドナルドだけを90日間食べ続けた男のビフォー・アフターだ。
昔、『スーパーサイズ・ミー』なる実験的映画があった。マックだけで1年やってるといかなる事態に至るかを実証した作品だ。人生、かくのごとく、一日一日の小さな積み重ねで大きな差を生むことになる。先の郷ひろみ、彼はまもなく還暦。私よりもひとつ上だ。正直この年齢になり、自分で自分のボディをビルドアップし、かつメンテする努力を知っている者として、正直、彼はマイ・リスペクトに値する。この映像、動きのキレとパワー、実に感動だ。
要するに日頃の節制と訓練の賜物。YAZAWAももちろんだが、彼らの見えない部分での努力は素直に認めたいところ。西城秀樹や沢田研二との違いはどこにあるのか?先にも書いたが、コレまでの還暦のイメージを覆す必要がある。自分は自分が信じたとおりになるのだから。私がDicscoで燃えるのも、要するに、そのためだ。胸は厚く、腹筋は輪郭をくっきりと、ウエストは絞り、かくのごとくメリハリのあるボディを作りかつ維持すること。これ、簡単なようで、やってみれば分かるが、相当の意志力を必要とする。食いたい物を食えるだけ食って、ゴロゴロしていれば結果は悲惨なもの。
例えば筋トレでも、最後のワン・レップ、つまりフォースト・レップをするか否かで結果は異なる。通常、一回持ち上げるだけのウエイトの80%を、8-10回程度をワンセットとして、3セット位を行う。すると最後はかなりキツクなるのだが、ここでフォースト・レップをするか・しないか。自分をどこまで追い込むか。郷ひろみも歌っている、「あしたからじゃ手遅れさ、DO IT NOW! 今、やらなけりゃ突き抜けない、二度と・・・」と。突き抜けること。そう、これも2014年の課題にしよう。
YAZAWAも70まではケツを振ると言っているし、郷ひろみも燃えている。で、私も燃えよう。4月に備えて、新しい出会いを楽しみにしつつ・・・・。
追記:午後はGymにてミッチリと。ランニングマシンで30分、大胸筋、広背筋、僧帽筋、上腕三頭筋をメインに追い込む。とにかくセロトニンが出て、気持ちイイ。TwitterにUPしておいたが、何でも、セイロトニンは腸でも合成されるとか。腸の健康は若さと大いに関係があるようだ。前に美魔女は腸もキレイとかある番組で紹介されていたし・・・。とにかく気持ちのイイことを追求しようゼ!
*1:前にも書いたが、私は大学教師には見られないようだ。センセーって、どこから来てる人?とか聞かれて「うん?」だったことがあるのだ。
今朝は実に寒々しい空気の中、キーーンとくる刺激を受けてきた。生きてる実感。もう正月も終わるが、昨晩はちょっとした隠れ家的な店で和食とワインを楽しんだ。場所はヒ☆ミ☆ツ。で、すでに書いたとおり、今年はいろいろチャレンジするつもりであるが、もうひとつ付け加えた。
それは食の追及。食べることと信仰は密接に関係している。人類は堕落以前は草食だったが、堕落後は肉食が赦された。それはいのちをつなぐためにはいのちの犠牲が必要であることの象徴。つまりキリストの血の贖いの型なのだ。同時にイエスは自分はパンであると、また肉であると宣言された。その血潮によりまことの植物系と動物系の食をわれわれは得たのだ。かくして食べることによりいのちの信仰はつながれる。決して教団組織や神学の勉強などによるものではない。栄養学を知らずとも健全な食品を食べることにより健康は保たれるのだ。現代のキリスト教はこれが逆転している。栄養学の知識はたっぷり詰め込んでも、食べてないので霊的に痩せているのだ*1。体脂肪を蓄えるのはよろしくないが、霊脂肪はたっぷり蓄えたい。これからの霊的飢饉に備えるためにも*2。
・・・と前ふりが長くなったが、何をしたいか。そう、ミシュランガイドの店を巡ること。この本、眺めているだけでわくわくする。このBlogに書いている部分だけを読むと、さも私が六本木で贅沢三昧かのように見えるであろうが、普段の私の食事は実に質素なものだ。というか、あまり食べない。もちろん筋肉の養成のためにプロテイン中心であり、炭水化物系は極力食べない。夕食のご飯などは小さな茶碗に半分程度だ。老化はAGEs(後期糖化生成物)の生成によると最近言われているが、これは糖の過剰摂取、運動不足、喫煙、ジャンクフードなどで促進される。さらに血糖値を急激に上昇させる食品はすい臓などに負荷をかけて、糖尿病や血管性疾患を生むとされる。この時に指標となるのがGI値(グリセミック指数)。要するにブドウ糖と比較してどの程度血糖値を上げるかの指標だが、これが高いものは老化を促進する。この辺に興味をお持ちの方は、前にも紹介したがこの本をどうぞ-
この写真の著者は50歳だ。確かに若い。ちなみにわが永遠のライバル郷ひろみが58歳にして双子を授かったとか。いや、たいしたものだ。西城秀樹や沢田研二の悲惨な姿と比べると実に若い。これで再来年還暦*3。(→弾願GROOVE)
要するに意識の問題、モチベーションの問題なのだ。私も若い子たちを相手にしている手前、若さは常にキープしたいところ。腹が出て、口と体臭が臭う、いわゆる「おじさん」は嫌われる*4。実は30代前半の私ははっきり言って車だん吉状態。写真を見せてもいいのだが、あまりにも××なので、イメージを崩さないためにやめておく次第。が、ある時、ある件で一念発起。それからはずっと30代のボディをキープしている(と勝手に思っている・・・)。
そんなわけで、いつもは節制、食べる時には思いっきり食べる。このメリハリを楽しみたいのだ。人生、つまらんことやビョウキの人たちと関わると無駄にする。これはニッポンキリスト教と意図に反して関わらされて実によく分かった。このギョウカイ、精神科病棟とあまり大差がない。今、あらゆる柵から解かれて、さすがに郷ひろみのように一から子供を作ることはできないが*5、残された時間と資源を十分に用いて地上の生を満喫したいのだ。まことに曹操の詠うが如しだ-
*1:と言うよりは奇形が多発している。
*2:特に御言葉の飢饉はすでに始まっている。例の『パーパス・ドリブン』だの、経営の神様ドラッカーの手法による教会の運営とか、ナンセンス極まりないものが蔓延りつつあるのだ。
*3:従来の還暦のイメージは変える必要があると思う次第。人生の振り出しに戻ることであり、ジジイ・ババアの記念日ではないのだ、絶対
*4:と言うよりそもそも相手にされない。彼らにとっては人生の背景みたいなものなのだ。
*5:生物的には十分可能なのだが・・・
いや、気持ちがイイ。この朝の空気で生かされる。帰っての風呂。30分くらい漬かるのだが、これでHSPが生産される。よってお肌もつるつるだ
さて、今年の冬の過ごし方をいろいろ考えているが、もちろん温泉やJazz LiveにDisco*1などは昨年どおりだが、先にも書いたように、ひとつはローマ史、もうひとつは、何と源氏物語に挑戦する気持ちがむくむくと生じてきた。実は今、かつて古文の勉強のために百人一首をすべて覚えたのだが、なんとなく懐かしくて手に取ったこの文庫本にはまっている*2。
先に大友家持の歌を紹介したが、これで百人一首を再度と思い出し、若いころはそれほどでもなかったのだったのだが、和泉式部の歌*3がえらくなまめかしく感じられ、次の紫式部*4の歌で源氏物語へとつながった次第。
まあ、私のすることはいつもこんなアソシエイションによるのだが それにしても彼女たちの感性の繊細さとことばの豊かさに改めて感動しているところだ。漢詩と古文。かつては受験科目の一部だったのだが*5、その世界がこの年齢になって、実にみずみずしくかつ豊かに迫りきて、私の心の中にビビッドに展開するのだ。やはり、少しは人生の酸いも甘いも味わって熟れてきたのだろうか?
で、原文ではやや重いので、やはり瀬戸内寂聴で入っていこうかと。熟男(うれだん)は源氏物語を読む-これ2014年のキャッチコピーにしよう。
*1:早速FBとLINEにて一昨年度の学生たちから飲み会のリクエストがあり、では、やはり六本木のMAHARAJAHで、となりそうだ。
*2:装丁が萌え系だったので、つい手に取ったとも言えるが・・・はは
*3:あらざらむ この世のほかの思ひ出に いまひとたびの 逢うこともがな
*4:めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬまに 雲隠れにし 夜半の月かな
*5:私はセンター試験どころか、共通一次をも知らない世代だ。が、当時東大は独自の1次試験があり、理系でも理科系科目以外に現代文・古文・漢文と社会二科目を課せられた。ちなみに社会も苦手で、困った挙句、過去問を調べると四択の「2」の正解率が高かったので・・・というわけこれでパスしたのであるからなんとものどかな時代だった。
昨晩はちょっと怪しげな雰囲気の中で縄文文化論を拝聴してきた。石埜君が諏訪の御柱祭を解説して話の導入を作り、国学院名誉教授の小林達夫氏が縄文土器論を展開、その他のアーチストや歴史家たちがそれぞれに自分の見解を述べるという趣向。結構面白い点があったが、なんと言っても縄文時代は1万年以上続いたこと。しかも平和だった。現代的に言えば富の分配が実にうまくいっていたと言うこと。食べるためにも年に2,3ヶ月労働すれば必要なカロリーはまかなえた。だからこれだけの土器を作り得た。要するに彼らは精神性においてもリッチだったのだ。
小林氏によると火炎土器のデザインにもルールがあって、それは彼らの世界観を表現しており、その世界観は何気に当時の人々の間で共有されていたのだとか。当時の人々の脳もすでに現代人と同じレベルであり、今の時代に連れてきて教育したら立派に現代人になれるそうだ。現代人は憲法を要とするコミュティを形成し、とりあえずの国家(体制はいろいろあれども)としてのアイデンティティを得ているが、彼らは互いに共有した世界観を要として共同体を形成し、アイデンティティも得ていたのだ。
さらに石埜君によると、縄文人も現代人もさほど変わりはなく、もろもろの習俗や儀式において縄文性を見出すことができる。その中心は死と再生(写真は茅野市尖石遺跡の国宝「縄文のビーナス」。要するに妊婦の像。)。クリスチャン的に言えば死と復活だ。これは、吉村作治氏によると、エジプトの太陽の船なども同様で、死と再生のモチーフは人類普遍の霊的課題なのだ。クリスチャン的には、それはもちろん、キリストの死と復活において実体化され、神の力の証明とされ、そこにこそわれわれの希望と信仰があるわけだが。しかし、いつも言うとおり、この人類普遍の死と再生の課題と解決をキリスト教が占有したことに大きな悲劇があるのだ。
アニミズムの根底に流れる祈りも死と再生にある。しかし彼らはキリスト教につまづき、キリストの死と復活を見ること、さらに私たち自身のキリストと共なる死と復活をなぜか拒絶する。これはニッポンキリスト教においても同じで、この点に対する彼らの攻撃は狂気を呈していることはすでにここの読者はご存知であろう。つまり、ある意味、それを解決してもらっては困るかのようなのだ。あるいは十字架の提示を拒否する傾向だ。あくまでも何か永遠の人類の神秘的課題として祭っておきたいような姿勢が見えるのだ。確かに今回のイベントのような雰囲気の中で死と再生が語られると何か不思議な魅力で惹きつけられるが、牧師がしたり顔で「かみっさまわ~」とやるとほとんど興ざめとなる。アニミズムの魅力の方がキリスト教の魅力よりもはるかに深いものがあるのだ*1。
4回も去勢され、クラゲのように浮遊する国家、アイデンティティの中核を失い、世界の力学の狭間をさまよってきたこの国が、変な形で目覚めようとしている印象が最近強い。それは現代のアイデンティティの喪失状況の裏返しだ。昨日のイベントの参加者も、どちらかというと今の社会において居場所を見出せない人々が多いような感じだった。あの場はイベントのタイトルのとおり"ワンネス"、つまり「ひとつになること」でかろうじて自分を確認し得ているかのような危うさを覚えた空間と感じた。すでに戦後のニッポンを支えたもろもろのパラダイムは崩壊し、若者が価値観や人生観を失い、現実的には貧困に陥り、人生設計もできず、行き先も分からず、さ迷いつつ、縄文の「光」に吸い寄せられている感じがした。こんな場があること自体、けっこう意外なオドロキを覚えたところだ。
2013年、曲がり角を曲がってしまったこの国とニッポンキリスト教の行くへは、どうもますますヤバクなってきた感がある。
*1:縄文人に福音を伝えること、これはけっこう大きな課題であろう。いわゆる神学などのキリスト教文化だのはまったく無意味であり、無力であろうから。
今朝も肌を刺すような空気が気持ちイイ。昨日まで温泉を堪能したが、ここは実に趣があり、リピーターになりそうな予感。要するに集落の形態で、田んぼあり、みかん畑あり、ウサギ小屋あり、陶芸部屋あり、もちろん温泉はいろいろあり・・・というコンセプト。伊豆はすでに数え切れないほど訪れているが、知らなかった。仲井さんにたずねると7年ほど前にできたそうだ。値段は一人3万円ほど。部屋は自立した古民家風で、露天風呂付き。料理も個室にてかなりグッド。陶芸ではついに念願かなってロクロを回してグイ飲みとお茶碗を製作(口が尖がっている・・・)。後ほど色付けして焼いて送ってくれる。自分のこねたグイ飲みでやるのもかなりオツなもの。ぜひ真澄のあらばしりを・・・。
というわけで、イベントが目白押しだった12月もそろそろ終わり。が、実は今晩もイベントがひとつ。小中学校の9年間を同じクラスで過ごした石埜穂高君が企画している「MOVEMENT ONENESS MEETING 縄文と再生」が今晩行われる。彼の提唱する"JOMONISM"については前にも紹介したが、ニッポン再生の鍵は縄文文化にありとするコンセプト。雰囲気的にはDJもついてクラブでのトランス系の感じだが、縄文の味わいにちょっと触れてきたい。ちなみにそこはアニミズムの世界だが。
この八幡温泉郷杜の湯「きらの里」、なかなか面白そう。宿というより、ひとつの集落。その中にいくつかの建物に分かれて部屋と温泉がある。
年明けの冬眠期間、ローマ史と共に肉体のワンランク・アップにチャレンジするつもりだ。問題はモチベーションをどこに置くか
本日で仕事納め。後は温泉のみ。というわけで、ここも年末年始休みモードに入ります。ま、いつでも脱力モードではあるのですが・・・。では、みなさま、良いお年を
このオリジナルCM、欧米ではかなりの話題となっている・・・。
お仕事。台風でつぶれた回の補講だ。いつもカツを入れてるためか、一限から学生たちもちゃんと出てきている。殊勝なものだ。けっこう彼らはナイーブで、関わり方次第では実になついてくれるのだ。
なんでもSalt氏が小学校女子4年生対象の性教育の歌を作曲するとか。どんな歌になるのだろうか。彼のところにもちょいとコメントを入れたが、大学生ともなるとすでに実地検証段階に入っている。実に華々しいというか、香ばしいお話を聞くこともできるわけで、いやあ、昨今のJKやJDは実にすごい。ここではとても書けないような事も、さらっとネタにしてしまうのだ。学生時代からの友人の女性産婦人科医も、女子高生はこわいと話しているところだ
世間のおじさん族も普段JKやJDには縁がないためだろうか、最近摘発されたようだが、アキバには「JKお散歩」なるサービスもあるらしい。おじさんたちはJKやJDと聞くとつい妄想が膨らむようなのだ。実際、ある兄弟が女子大生キャバクラにはまって相当にカネをつぎ込んだ"証し"をしてくれた。私などは常に10cmの至近距離で接しているし、時に彼女たちの体臭も感じられることもあるほどだが(逆にこちらの匂いも注意しているが)、あっけらかんといろいろなネタを拝聴しているので、まあ、そんなもんか、で終わりなのだが・・・。
さて、早めのランチを摂って、これから帰宅。午後はジムで過ごす予定だ。このところ筋肉がびんびんに反応してくれている。エクササイズにより自分を追い込むことにはある種のカイカンが伴うのだ
本日02時11分、冬至。今朝の光景、朝の月もなかなか風情がある・・・・。大石も山科で同じ月を愛でていたのだろう。漢詩がまたひとつできそうだ。
注:一陽=冬至;風人=風流にして洒脱な人;灰=虚しい
杜甫の『冬至』を紹介しておこう。晩年の彼が官職を捨てて、江南を彷徨っていた頃の心境を歌ったもの。極私的にはまさに漂泊の現代人の心を描いていると思うのだが。この3年後に彼は孤独の中で世を去る。
注:忽忽=心がうつろなさま;泥殺=甚だしく悩み苦しみ、生気を失う;藜杖=アカザの茎で作った軽い老人用の杖;丹壑=赤い谷;紫宸=唐代に臣下が皇帝に拝謁する大明宮中の御殿;三秦=陝西省一帯、特にここでは都長安を指す
またも金曜日。日程の上ではすべて終了。が、来週、台風でつぶれた回の補講が。それと田舎にて所用が少々・・・。それが終われば温泉、そしてお休みというわけだ。とりあえず今晩も飲む予定。昨晩、というより、今朝2時に寝たのだが、疲労感はまったくなし。なんなのだろう、この楽しさと喜びは。別に宝くじに当ったわけでもないのだが、ただじわっとこみ上げてくる。いつも思うのだ、大石内蔵助の心境を。彼が伏見撞木町で放蕩に耽ったのは、敵の目を欺くためであったとよく言われる。が、私は違うと思う。彼はそれ自体を楽しんでいたのだ。
所詮この世は浮世狂言。それにしても猪瀬氏もあの急ごしらえの"借用書"や5千万を"入れた"バッグなどを持ち出さなければよかったのに・・・。せめて札束に小分けして入れたら、とアドバイスしたくなった。根は小心でまじめだからこそのコミカルな狂言劇場になってしまったのだ。そして餃子の王将の社長射殺事件(犯行場所は大石が篭った山科だ・・・)。誰の意志で?
かくして政治も経済も、そして教育も、世の中はすべて、ある意味やらせ。そう、狂言なのだ。書類とハンコの世界。多分小学校教師のSalt氏などは無意味な書類の処理に相当に辟易されていると推察する。しかも時に暴力も。誰かの意志と誰かの意志がぶつかり合ったり、協調したり。その力学が世のもろもろの事象を生み出している。
昔あった歌の歌詞に「馬鹿と阿呆の絡み合い」とあるが、まさにそのとおり。メンツとメンツの張り合いと化かし合い。騙す方も騙される方も、結局は同じ穴のムジナだ。しかしこの複雑怪奇に張り巡らされたクモの巣状態の意志たちのネットワーク、特に最近ではネットにそれが実体化されているが、その中に場所と時代を超えて唯一永遠の意志が働いている。誰の・・・?言わずもがなではある。