語り出された言葉の力
- 2015/02/13 20:28
- Category: 信仰
- Tag: 信仰 神の国 言葉の力
このビデオ、とにかく観てほしい。特に10:28辺りに注目。前に天候に命じるとどうなったか、私自身の経験を証したが・・・。
Dr.Luke的日々のココロ
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このビデオ、とにかく観てほしい。特に10:28辺りに注目。前に天候に命じるとどうなったか、私自身の経験を証したが・・・。
現在私たちが普通に使うTVやスマホなどの電子機器は、多分19世紀までの人から見れば奇跡と見えるだろう。彼らは電磁波なる物理的実在を知らなかった。19世紀に入り、マックスウエルがファラデーの実験結果を次の4つの方程式にまとめた。電界(E)と磁界(B)と電流(J)と電荷(ρ)の間の相互関係式だ*1。この方程式に基づいてすべての電子機器は制御されている。
サイエンス(物理学)はこうして目に見えない電磁界を制御する。対して信仰と御言葉は目に見えない霊の世界を制御する。あえて言えば霊理学とも言える。それはついには目に見える世界を変える。神は人をご自分の形(内面も外面も)に創造された*2。ゆえに人の持つポテンシャルは神的要素を有している。ただし、それらを十字架とイエスの血潮によらず開発あるいは発掘することは危険であると知るべきだ。私たちの霊的経験はすべてそこに基づいている*3。今日、世の中でもあちらの霊のポータル(門)として"用いられる"人々が増えている。私たちは神の国を地上にもたらすポータルとして機能すべきなのだ。私たちの得ている力は地獄にも打ち勝つものである
*1:これらもロゴスのひとつである(Heb 1:3)。
*2:人はそもそもそのように造られているのに、サタンはエバを「神のようになる」と誘惑した(→「誘惑の本質とは」)。ポイントはサタンは神の善意に基づく御言葉に対してあたかも不足があるかのようにエバを欺いたのだ。エバはサタンのサジェスチョンに対する自分の意志の同意とそれに基づく行為によってそれを得たところに違反があった。それは今日も同じ。すでに聖とされ完全とされている私たちに何か不足があるかのように、あなたは神になれると誘うのだ。こうしてニューエイジの世界が展開する。誰の言葉に同意し、応答するのか。これが私たちの信仰の核心を形成する。
*3:神の形に造られ、堕落から贖われた私たちにどのレベルまでの神的属性が委ねられているのか。事実として、主イエスは「信じる者に不可能はない」と言われたのだ。ちなみに出エジプトではこう言われている、「見よ、わたしはあなたをパロに対して神とし・・・」(Exo 7:1)。ここの神はElohimで、創世記1章1節の神と同じなのだ。
これらの図を見て欲しい。いわゆる錯覚を生むパターンだ。これらの認知された映像は、実は脳が勝手に作り出しているものに過ぎない。もっと言えば、色はもともとナイのだ。在るものは波長の異なる電磁波。しかしそれが色として知覚される。要するに色も脳が作り出したもの。これをクオリアと呼ぶ。3D映画などはその典型。どこにあの立体像が存在するのか。そう、脳内だ。現実にはナイ!
かくして私たちのマインドは脳が生み出したものを"リアリティ"として知覚・認知している。元々ナイものを在るものとして・・・。生まれてこの方、生きている間に経験したその"リアリティ"がリアリティだと思い込んでいるのだ。例えば、ガン。われわれは通常、DNAに傷がつき、それが変性タンパクを作り出し、勝手に増殖を繰り返して、正常細胞を侵すことにより、最終的に死に至ると思っている。これは目に見える観察と実験の結果だ。が、聖書では「目に見えるものは見えないものがフレーム化したものだ」と言う(Heb 11:3)。観察と実験によらず、信仰によってそれを知るのだ。そこで信仰はその目に見えない原因を対処する。ガンの霊的な源を主イエスの名によって叱る、あるいは呪うのだ。おお、なんと前近代的にして迷信、と"賢い"人々は思う。だが、そう「思える」だけで、リアリティではない。リアリティは御言葉だ。
すると、そこに十八年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全然伸ばすことのできない女がいた。・・・この女はアブラハムの娘なのです。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。-Luke 13:11-16
イエスご自身が、病気の霊が原因とし、サタンの縛りであると宣言されている。さらに
それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。-Acts 10:38
とある。私たちが観察し実験しているガンなどの対象は「見かけ」であり、その病理を解明し、治療することが医学の仕事だ。信仰の仕事はその「見かけ」を作り出す見えない原因を取り扱う。すなわち私たちの口から語り出される御言葉がそれを消滅させるのだ。かくして何が自分にとってのリアリティかを再度問う必要があるのだ。目に見えること、それとも御言葉?「自分はこう思う」という"想い"を一旦十字架に置く必要がある。思いが開かれ、トランスフォームされるとき、霊の世界がクリアに見えるようになるだろう。イエスにはすべて見えていた。そして
「だれが主の思いを知って、彼を教えることができようか」。しかし、わたしたちはキリストの思いを持っている。-1Cor 2:16
えっ、私たちはすでに持っている!?ここに大いなる希望があるのだ。
といつもの再建主義の富井氏が。
tomi 2015/02/12(木) 14:33
日本の真の解放は聖書信仰に立つ以外には実現しない
(1)
旧約聖書の予言つまり大イスラエルはキリストにおいて成就しました。
「わたしには天地において一切の権威を与えられた」とありますので。
「まだ成就していない俺たちが成就する」と言っているのがロスチャイルド。
ロスチャイルドは、南北イスラエル統一王朝を復活させようとしている。
紋章にそれぞれ南イスラエルと北イスラエルの象徴である「獅子と一角獣」が含まれているのがその証拠。
実は、皇室のマークが同じ「獅子と一角獣」。
これは、日本において南北統一王朝がすでに成就していることを示す。
日本は真正メシア・キリストの国であり(これはイルミナティ側の代表レオ・ザガミも認めている)、それなるがゆえに偽メシアを擁立しようとしているイルミナティ・ロスチャイルドは日本を潰そうとしている。
うーーむ エゼキエルのこの預言はすでに成就していると・・・。
わたしは、エフライムの手にあるヨセフの杖と、それにつくイスラエルの諸部族を取り、それらをユダの杖に合わせて、1本の杖とし、わたしの手の中で1つとする。・・・私がイスラエルの山々で、1つの国とする時、ひとりの王が彼ら全体の王となる。彼らはもはや2つの国とはならず、もはや決して2つの王国に分かれない。-Eze 37:19-22
「イスラエルの山々」とは日本列島なのだろうか まあ、彼のパーシャル・プレテリズムによれば、黙示録の20章まではすでに成就しているわけだから・・・・。
注:引用聖句をよりて適切な個所に変更しました。
昨年12月末頃に自分の経験したことと似ている証しをしているBill Johnson。それまではまったく知らなかったが、いわゆるスーパーカリスマ派として分類され、一部では狂信的カルトだとか、ニューエイジだとか、異端だとか言われているようだ。彼の教会Bethel Churchでは私が拒絶していた金粉が舞うとか、天使の羽が見つかったとかの逸話もあるそうだ。まあ、その真偽は置いておいて、その彼の著作を読んでいる。"Experience the Impossible"。
まだ半ばではあるが、これまで読んだ限りではしごくまともなことを語っていると感じている。ポイントはこうだ。イエスは完全に人であり、完全に神であったが、その地上の努めにおいてはあくまでも人として生きた(Acts 2:22)。私たちとの違いは肉体に罪(Sin)が一切なかった点。その贖いの業によって私たちも罪々(sins)がゆるされ、さらに父なる神から見るとそれらは最初からなかったとされる。神は私たち自身を見るのではなく、キリストをご覧になっているからだ。この点において、肉体に罪が残る点は違うが、イエスとまったく同じ立場にある。イエスは人として業をしたが、その力は神が共におられたからと御言葉は証している(Acts 10:38)*1。すると私たちに対する課題は、イエスが限りなく聖霊に満たされ(John 3:34)、その導きに完全に従ったように、私たちもそうあり得るかという点になる。つまり聖霊を通して神とどれほどに親密な関係を持ち得るかという点なのだ。
・・・とここまでが彼の聖書からの理解だ。結果、あの五千人の給食も人として行ったことであり、私たちもなし得るというのだ。事実,彼の教会では僅かの鮭で600人をもてなしたと証している!?うーーむ 極私的には、果たして肉体に罪を宿す私たちがイエスと同じレベルにまで聖霊を受け、満たされるか、さらに従えるか、という点が気になる次第。限りなく聖霊を受けることはできるのか?いや、聖霊は神のひとりのパースンであるから、切り売りされるお方ではない。つまり私たちのうちに100%の聖霊がおられ、同時に父と子が内住されるのだから(John 14:12)、神そのものを宿している。だから私たちは神の宮なのだ(1Cor 6:19)。よって、もちろんイエスを死者から蘇らせた復活のパワーも有している。すると、イエスと同じことが、いや、さらに大いなることがなし得ると結論せざるを得ないわけだ(John 14:12)。ポイントは聖霊とどれだけ深い交わりにあるかという点に落ち着くのだ。
うーーむ、チャレンジングというか、キャパがかなり引き伸ばされる必要があるというか。とにかく、繰り返すが、聖書が語っていることは、マジで受け止めるとヤバイことだらけなのだ
*1:確かに、神として行ったのだったら、「神が共におられたから」との理由はおかしいことになる。
しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことば(logos)をいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」-Matt 8:8-9
主がロゴスを語り出すとき、レーマとなる。
イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことば(rhema)による。』と書いてある。」-Matt 4:4
問題や困難に直面するとき、自分の罪や失敗、さらに病気や事故などに陥るとき、もがいたり焦ってはならない。私たちがなすべきただ一つのことは、あれこれの方策ではなく、レーマを聴くこと。レーマを聞けば事態は瞬時に変わる。ゆえにイザヤ書にこうあるのだ:
神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」-Isa 30:15
加えて私たち自身も自分の状態や状況に神の言葉をもって命じるのだ、「山よ、動き出して海に沈まれ!」と。あらゆる困難や病気は神の言葉のパワー(デュナミス)を知る機会となり、神の栄光になるのだ(John 11:4)。
朝風呂でまたあの現象が起きた。何も見えず、聞くこともなかったが、ボディは完全に支配された。昨日、聖霊に「あること」を求めたが、その回答だ。
レーマによりこの世界をあらしめた神の信仰は、すでにすべてを見透している。黙示録の世界は神にとってはすでに成就している世界。その神の信仰に参与しているのが私たち、神の子だ。これってちょっとヤバイ。そして神はあえてこの世*1のいわゆる知識や常識とは外れることをあえて語り、あえて行うお方。ある意味、神の聖なる自己主張とも言うべきだ。海を割り、太陽を天に止め、また戻し、岩から水を生じさせ、ロバに語らせ、人が水面を歩き、死人が起き上がる。神は善悪を知る知識の木の実を摂った人類に対して、あえてチャレンジしているかのようだ。逆に言えば、神の御心をとらえる秘訣はここにある。
そして、こちらの側としては、レーマを聞いたり、幻を見たら、おしまいだ
*1:養老孟司氏に言わせれば、世は人間の脳が作り出したもの。つまり人間の信仰の実体なのだ(cf.Gen 11:6)。
年老いたアブラハムとサラは神から子供ができると聞かされたとき、共に笑った(Gen 17:17;18:12)。彼らの魂の思い(mind)はその告知を受け入れることができなかった。なぜ?地的な常識あるいは知識に反するから。しかるに、へブル書にはこうある:
信仰によって、サラもまた、年老いていたが、種を宿す力を与えられた。約束をなさったかたは真実であると、信じていたからである。-Heb 11:11
ここでポイントは、神の言葉(レーマ)を聞くとき、思いは必ずしもその内容を納得することはないのだ。「はあっ?」という反応がほとんどであろう。それはぶっ飛んでいるから。が、信仰はそこにあるようになる。なぜなら、神が語ったから。神が「光よ、あれ」と語ると、光があったのだ。それは私たちが納得するとか、私たちが改めて信じるとかの問題ではない。この点、使徒行伝で、ペテロとヨハネが美しの門にいた足萎えを癒したとき、こう証している:
ペテロはこれを見て、人々にむかって言った、「イスラエルの人たちよ、なぜこの事を不思議に思うのか。また、わたしたちが自分の力や信心*1で、あの人を歩かせたかのように、なぜわたしたちを見つめているのか。-Acts 3:12
つまり、その癒しは彼らの何かによるものではないというわけだ。信仰は聞くことから、聞くことは神の言葉(レーマ)によるとロマ書はいう(Rom 10:17)。この部分を、聞いてから何か信仰を「生み出す」と解する向きがあるが、これは意訳の結果だ。原語では
αρα η πιστις εξ ακοης η δε ακοη δια ρηματος θεου
「よって その信仰 から 聞く その また 聞く 経由 レーマ 神の」となる。サラの場合も「聞く即信仰」だったのだ。私たちの思いがどうのこうのは関係ない。神の声を一旦聞けば、それはどうあがいても否定しようがない。あとはそれに従うだけ。するとその実体が現出するのだ。
問題は思いがトランスフォームされていないと*2、御言葉自体もスルーしてしまうし*3、神に聞く姿勢も起きない。さらに思いが聞いたことばをあえて拒絶するならば、もちろん従うこともない。ゆえに実を得ることはできない。あるいは思いが自分のことや何か特定のことでイッパイ・イッパイの場合、霊は抑圧され、聖霊の働く余地がない。感情も同じだ。そこで一度、魂が死ぬ*4必要があるのだ。
*1:この原語は"eusebeia"、ふつう「敬虔」と訳されている(1Tim 3:16)。
*2:しばしばレーマを得てからその現出までにタイムラグがある場合が多い。この間に私たちの思いは揺れる。自分の聞いたことが勘違いだったのではとか、思い込みだったのかとか。あるいはある種の待ち時間が必要となるのだ。私たちの魂は待つことが苦手なのだ。
*3:最近、スルーしていた御言葉が次々に出現している。
*4:先に述べたように、魂の諸機能が機能停止することではない。凝り固まった魂のエネルギーが一度抜かれるとでもいうべき状態に入る事。これは十字架の働きによる。
昨年、エクレシアにとってはヨベルの年。世界にとってはケイオスと言った。Xさんが井口博士のBlogを紹介して下さったが、ウクライナ、ドネツクでキノコ雲が観測されたようだ。これが核爆発かどうかは不明だが、なんとなく不穏な感じを受けている。
地を造られた主、それを形造って堅く立たせられた主、その名を主と名のっておられる者がこう仰せられる、
わたしに呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答える。そしてあなたの知らない大きな隠されている事を、あなたに示す。
・・・
見よ、わたしは健康と、いやしとを、ここにもたらして人々をいやし、豊かな繁栄と安全とを彼らに示す。
わたしはユダとイスラエルを再び栄えさせ、彼らを建てて、もとのようにする。
わたしは彼らがわたしに向かって犯した罪のすべてのとがを清め、彼らがわたしに向かって犯した罪と反逆のすべてのとがをゆるす。
この町は地のもろもろの民の前に、わたしのために喜びの名となり、誉となり、栄えとなる。彼らはわたしがわたしの民に施すもろもろの恵みのことを聞く。そして、わたしがこの町に施すもろもろの恵みと、もろもろの繁栄のために恐れて身をふるわす。-Jer 33:2-9
これはユダとイスラエルの回復の預言。しかし、私たちエクレシアに対しても語られている(2Cor 1:20)。私たちが主の喜びの名、誉れ、栄えとされ、健康と癒し、豊かな繁栄と安全を享受し、主の恵みを証しすることは、他の人々にとって恐れとなる。これによって立ち返るべき者は立ち返る。
「朝、太陽が照っていたら、私はします」。
「ドアが開かれるならば、それをなすのが私であると分かるのですが」。
「世界宣教のクラスに合格するならば、私は宣教師になります。そうでなければ、一地域の牧師でいいです」。
私たちは自分がこのような姿勢よりはましと思っていますが、いざとなると頭に浮かぶことがこれと同じ状況であることに驚くのです。このような前提主義は、主の前に「毛皮を置き、しるしを求める」ことです。
毛皮はギデオンの物語に由来します。士師期6章において、ギデオンはイスラエルをミデアン人から解放するために神に召されます。ギデオンは神がイスラエルと共にあることを疑い(13節)、自分自身の能力を疑い(15節)ました。そこで彼は神にしるしを求めたのです(17節)。神は彼にひとつのしるしを与え、バアルの祭壇を打ち壊すように語りました。彼は昼間は恐れていたので、夜、出かけました。
そして、さらに彼は神がイスラエルを解放することに疑問を持ちました。この時は、小羊の毛皮を地面に置きました。もし神がイスラエルを解放するならば、朝、毛皮を湿らせ、地面は乾いたままにすることを求めました。よく朝、そのとおりになりました。これで彼は納得したでしょうか?違いました!さらに確証を求めて、また神が怒らないことを願いつつ、ギデオンは神に再度、逆の結果となることを求めました(すなわち、毛皮を乾かし、地面を湿らせる)。英雄としては相応しくないでしょうが。しかし、神はギデオンの求めに応えられ、ギデオンの軍隊を300人に減少しました!
ここの物語の要点は、神ご自身が、人ではなく、解放者であることです。神は必死で確証を求める人物を選ばれ、その軍隊を縮小し、勝利はご自分のものであることを示されたのです。毛皮は信仰のデモンストレーションの手段ではありませんでした。それはむしろ逆です。またそれによって神の御心を動かしたのでもありません。神はすでにギデオンになすべきことを告げておられました。ギデオンは神の完全さに疑問を呈しました。ちょうど私たちも神の御旨が明らかなのに、毛皮を求めると同様です。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています」(マタイ12:39)。神の民として、私たちは神のみ顔を求めしょう。
主よ、時に私たちはみ顔を求めるのでなく、しるしを求めることを赦してください。私は今日、あなたの御言葉に啓示された信仰の内を歩むことができますように。
イエスは日々十字架を負い、自分を捨て、魂のいのちを否めと言われた(Luke 9:23-24)。何度もここで書いているが、それは魂の機能である、知性・感情・意志の活動を停止し、私の意識が消失することではない*1。それはナンセンス。しかし、こう勝手に解釈して、自分が死なない、死のうとするとますます生きてしまうと葛藤し、自作自演的にクルシチャン化する者がいる。霊から独立して機能する魂を否めと言うことであり、私たちの魂はキリストに依存するとき、ますます栄えるのだ。
生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子の信仰によるものです。-Gal 2:20
パウロは明確に、生きているのは私ではないとしつつ、肉において私が生きていると証ししている。キリストの信仰に頼るとき、私は生きるのだ。この二つの「私」の間には十字架の死と復活がある。だからヨハネはこう祈っている:
愛する者よ、あなたの魂が栄えているように、あなたがすべての面で栄え、健康であるようにと祈っています。-3John 1:2
邦訳では「恵まれて」となっているが、ヘブル語は"euodoō(栄える)"だ。人類はいのちの木の実を取り損なった。その実体はキリストご自身。その方の信仰によって生きるとき、
待ち続けるだけでは心が病む。かなえられた望みは命の木。・・・願望がかなえられれば魂は快い。愚か者は悪を避けることをいとう。-Prov 13:12;19
かなえられた願いはいのちの木、すなわち信仰の実の一要素である喜びを生む。イエスご自身がこう約束されている:
あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。・・・これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。-John 15:7-11
ハレルヤ!キリストの信仰によって生きる魂はますます栄え、神の国を表現するのだ。その霊に満たされた魂が語り出す言葉は、霊であり、いのちである(John 6:63)。ゆえにパウロはこう勧めている:
そして思いの霊において新しくされなさい-Eph 4:23*2
はっ?思い(mind)は魂の機能では?確かにそうだが、ここの思いには霊が浸透しているのだ。これがトランスフォームされた思い(Rom 12:2)。私たちの魂、特に思いはもはや霊から独立して勝手に彷徨うことはない*3。それは霊と御言葉にしっかりと根付いている:
だから、あらゆる汚れやすべての悪から離れ去り、移植された御言葉(logos)を素直に受け入れなさい。それは、あなたがたの魂を救うことができます。-James 1:21
魂が栄え、すべてにおいて健全であること。これはまず思いのトランスフォーメーションから始まる。思いが霊と真理に基づいているならば、感情は安定し、健やかかつ豊かであり*4、意志もそれによって言動を決める。こうして私たちは神の国のポータル(門)として、地上に神の国を現出させるのだ。ゆえにハデスの門もエクレシアに打ち勝つことはできない(Matt 16:18)。ますます大胆にイエスの名によって求め、願いをかなえていただこうではないか
*1:こういった状態を「悟り」とか勘違いする向きがあるようだが、それは宗教。
*2:邦訳では「心の底から」とか意味不明の訳になっているので注意。
*3:思い煩い、後悔、自責感、抑うつ、焦りなどは彷徨う思いの兆候だ。もちろん敵の放つ火矢もある。
*4:イエスが笑ったかとか議論する人々がいる。イエスは実に感情豊かだった。人前でもよく泣いた。しかめっ面と信仰は反比例するのだ。あと、目が笑っていない牧師の笑顔とも・・・