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あといったい何度・・・

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満開の桜や 山の紅葉を

 この先いったい何度みることになるのだろう

        -竹内まりや『人生の扉』

私たちの霊はポータル

・神の国はあなたがたの真っ只中にある。

・神の国は聖霊にある義と平安と喜びである。

ファイル 4831-1.jpg

この図はシェーマとして理解しやすいのでずっと紹介しているが、ひとつ罠がある。霊が閉じ込められてしまっている印象を与えるのだ。アダムの堕落の後霊は死んだが、クリスチャンは再生されている(Born Again)。そして聖霊が臨在されることにより父と子が住まわれる。ゆえに神の国は私たちの内側に存在する。

つまり私たちの霊は私たちの内側に閉じ込められているのではなく、むしろ天のポータルあるいはチャネルとして無限の霊的領域へと開かれているのだ。私たちの霊を通して、神の国はこの時空間に現出する。私たちの霊はどこでもドアのようなもの。そこを通してサブスタンスがフレーム化される。それは神のいのちと統治・力・臨在をもたらすのだ。それは私たちが口を開いて語り出すことによる。語り出された言葉には神の国があるのだ。

「私は信じた。それゆえに語った。」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語るのです。-2Cor 4:13

本日の一冊

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自分はもっと自我が砕かれる必要があるとか、自我を十字架につけてぇ~、まだ自分はダメ、不安、うつ、もがき・・・。これらは実はサタンの罠。彼らは「盗み、殺し、滅ぼす」ためにはどんな手も使う。御言葉や正義をすら用いる。しかし私たちはすでに聖徒であり、完全なニュー・クリエーション。騙されてはならない。

処方箋はKynan BridgesのKINGDOM AUTHORTY。彼もサタンの策略で破滅の淵を通ったことがある。サタンはすでに敗北し、何らの権威もないが、恐れる者には不法な力を行使する。それと無知な人にも・・・。お薦め。

信はサブスタンスをフレーム化する

今回、基本の基本に戻らされて、結局、信仰、というより信がなんなのか、この再チェックに絞られた。

・信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。

・さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。

・信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。

・さて、信仰とは望んでいることの実体、目に見えないことをあばくことです。

・さて、信とは、望まれている事柄の実体化であり、未だ見ていない事柄を確認することである。

・Now faith is the substance of things hoped for, the evidence of things not seen.

・εστινG1510 V-PAI-3S δεG1161 CONJ πιστιςG4102 N-NSF ελπιζομενωνG1679 V-PPP-GPM υποστασιςG5287 N-NSF πραγματωνG4229 N-GPN ελεγχοςG1650 N-NSM ουG3756 PRT-N βλεπομενωνG991 V-PPP-GPN

・[3isG1510.2.3 1AndG1161 2beliefG4102 5of hopingG1679 4 the reality]G5287 of things,G4229 the proofG1650 notG3756 being seen.G991

どれがどの訳とは指定しないが、それぞれ、訳者の解釈が入っていることは明らかであろう。ギリシャ語の対語英訳を見るとKJVが一番原語に近い。ただ"evidence"は"proof"の方がいいかもしれない。

・さて、信とは望まれていることのサブスタンスであり、見ていないことの立証である。(私訳)

サブスタンスに「確信」などの訳語はとにかく不適切。だから「自我を十字架につけてぇっ」とか踏ん張るクルシチャンが登場する。そもそもそんなことができるわけがないでしょうに。すでにつけられたのだ!信は物理的領域と霊的領域をつなげるチャネル、あるいはポータルだ。祈りを続けるうちに、内なる神の国にチャネルが開く。このときサブスタンスに触れるのだ。この感覚が「得た」とか「かなえられた」という表象としてマインドに現れる。

クリスチャンの歩みはみな信による。霊の再生も、魂の造り変え(いわゆる聖化)も、病の癒しも、しるし・不思議も、みなサブスタンスに触れることによるのだ。自我を十字架につけてぇっ・・・などは所詮魂の中の空回りに過ぎない。

私たちはすでに聖にして完全とされたニュー・クリエーション(Heb 10:10-14)。これがサブスタンス。すでに確立されている。

 **

そして主に向く時には、そのおおいは取り除かれ、わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである(2Cor 3:16-18)。これが"proof(立証)"であり、トランスフォーメーション(メタモルフォーゼ)だ。

**の部分にチャネルが開くと、サブスタンスがプルーフされる。この原則は癒しであれ、奇跡であれ、しるしであれ、みな同じこと。そして主は言われた。

 「できれば」と言うか。信じる者には何でもできる。-Mark 9:23

ヘブル11章1節の"faith"には定冠詞がない。つまり別にクリスチャン信仰に限らないのだ。先に超能力者の清田君のことばを紹介した:「スプーンを持ってて、グニャグニャに柔らかくなるイメージが浮かぶと本当にそうなって、ついに切れて落ちるんだ。」彼はクリスチャンではないから、霊の再生を受けているわけではない。あくまでも魂の領域、マインドの中で起きることを語っている*1。が、それでも信は機能するのだ。そもそも人間のマインドにはそれだけのパワーがある。アダムが動物を呼ぶとそれが名となった。名は実質と不可分。アダムが各動物をframe化したのだ。

信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られた(framed)のであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。-Heb 11:3

アダムが語ると動物がフレーム化された。これは神が語ると創造があったことと同じ原理だ。信によって語ることによりサブスタンスがフレーム化されるのだ。6日間の創造はすべて神が語り出すことによった。つまり創造は神の信のフレーム化だ。イエスの受肉も神のサブスタンスが物理的時空間に現出(proof)したもの、つまりフレーム化だ。すべて神のわざの原則は信による。なぜなら信によらないことは罪だから(Rom 14:23)。

「自我を十字架につけてぇ」とか、「私は衰えるがあの人は栄える」とか、きわめてもっともらしいキリスト教の標語であるが、真理ではない。神の信ではすべてが完成している。まずその神の信を持てと主は言われる。そのときサブスタンスが私たち個人個人のレベルでプルーフされてフレーム化されるのだ。どこに私の努力が入る余地があるだろうか。すべては神の信に始まり、神の信によって完成されるのだから。

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。-Heb 12:2

イエスは喜びのゆえに十字架についたのだ!宗教の霊から解かれよ、ニッポンキリスト教のクルシチャンたち!

*1:あるいはある種の霊的領域と関わっているのであろうか?

そもそも信はスーパーナチュラル

最近ここで頻発する「スーパーナチュラル」とかの単語にひっかかる人がいるようです。Lukeさんはしるしだ、不思議だ、奇跡だとこれまで違う方向にいってしまったとか・・・。私は何を言っているかといいますと、そもそも処女が子供を産むとか、復活などはスーパーナチュラルでしょう。それを当たり前と感じてしまうクリスチャンは本当に聖書を信じているのかどうか・・・。聖書の知識・思想体系として知っているだけかも知れません。使徒信条を告白しても、真に信を得ているかは別問題なのです。そこで再チェックが必要かもと思っているのです。それはマインドがトランスフォーメーションされたのではなく、麻痺しているのかもしれません。

本来、聖書の啓示は自分の力で信じることなどはできないのです。私たちの信はサブスタンス(Heb 11:1)。「信仰は望んでいる事柄を確信し・・」とかの訳ではまったくずれています。信はそれ自体がスーパーナチュラル。それはギフトなのです。前にも言いましたが、筑波大の小田晋という精神科医は、イエスは妄想病者であり、クリスチャンはその妄想を信じ込まされている人々だと言っていました。これが聖書を真実に読んでいる人の感想であるべきなのです。当たり前に処女が妊娠した、へえー。イエスは死んで復活した、なるほど~。そんなの当たり前でしょう・・・。この姿勢は真にその御言葉と向き合っているのかどうか。

マインドの制限を覚えれば覚えるほど、私たちの信はスーパーナチュラルであると思います。よく自分はこんなことを信じられたなあ~と。それはまさに聖霊によるのであって、その方の力によらずしては決して信じることはできなかったでしょう。御言葉を解き明かすとか、霊的意義を探るとかいったことではなく、イエスの言葉を聞くだけ。信は聞くこと、聞くことはキリストの言葉(レーマ)によるのですから。このような基本の基本をずーっと再チェックしているわけです。私の見た幻や聞いたことも含めて。その中でいやしとかしるし・不思議も扱っているのです。それのみを求めることをしているわけではありませんので、一応・・・。私はサイババではありませんからそこんとこよろしく~

追記:Lukeさんは偽預言者で永遠のいのちを失うかもしれないと言ってくださる方もおられます。根拠はマタイ7:21-23であると・・・。うーん、そもそもこの節は永遠の救いに関する節ではありません。お心にかけていただくことはありがとうございます。

神のわざはスーパーナチュラル

聖書の啓示はそもそもわれわれのマインドを超えている。つまり理解できない事柄に満ちている。たとえば、自分はよく知っていると思っておられる方も、次の御言葉をよく読んで欲しい*1

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。

要するに私たちは二千年前、キリストと共に磔刑を受け、共に死んで復活し、新しい創造とされ、天のところに座せしめられた、というわけ。これが私たちの真のアイデンティティーだ。ところがこれを何気に当たり前のように読んでいる人はマインドが閉じている。これはスーパーナチュラルな事象なのだ!Are you with me?

聖書はそもそもがすべてスーパーナチュラルな記事に満ちている*2。神が私たちのうちに住まわれ、神の国がうちにあり、神と交わりをもち、神が私たちの祈りを受けて下さる。

イエスと交わって内側が平安と甘い感覚に満たされることも、天的な霊的領域にある私たちの霊と主の霊の相互作用というサブスタンスが、信によってこの地上にある私たちの肉体の神経系に"感覚"として現出されたものなのだ(Heb 11:1)。

私たちはつねにこの地上の物理的世界と天的な霊的領域の狭間に存在している。私たちが内側の霊を解き放つことは、天的領域のサブスタンスを解き放つことなのだ。だから信じた、それゆえに語るのである。その言葉はこの物理的世界において何かをなす。語り出された神の言葉が無益に帰ることはない(Isa 55:11)。

今回、『真理はあなたを自由にする』の続編を書いてみたいと思い出した*3。題して『神の法-自然法則を超える神の啓示-(スーパーナチュラルなディメンジョンに生きる鍵-faith。聖書は不可能を可能にする生き方を提示する)』(アウトラインだけpdfにて公開します)。

さて、またぞろ異端だ、カルトだ、ニューエイジだ等々、ひと騒動起きることでしょう人は自分のパラダイムやマインドから逸脱することに対しては、まず自分を守るために排除し、さらには攻撃すらしたくなるのが本性なのだ。

*1:実は日本語で聖書を読むとほとんど正確な理解が無理になる。たとえばヘブル11:1、「信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することである」とか。まったく見当はずれの訳である。
*2:きちんと定義しておくと、ナチュラルとはこの時空間における存在・事象。スーパーナチュラルとは霊的領域におけるサブスタンスのこと。
*3:本書もニッポンキリスト教においては、なんだかよくわからん本だとの評判だった。

ザカリヤとマリアの経験

神の直接のタッチを受けることは不安感を産み、恐れすら感じるものだ。旧約の預言者たちもみな同様に、もうダメだ、自分は死ぬとパニくったのだ。それは新約でも同じ。

ところが、主の使いが彼に現われて、香壇の右に立った。
これを見たザカリヤは不安を覚え、恐怖に襲われたが、御使いは彼に言った。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。・・・」
そこで、ザカリヤは御使いに言った。「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。」
御使いは答えて言った。「私は神の御前に立つガブリエルです。・・・これらのことが起こる日までは、あなたは、おしになって、ものが言えなくなります。私のことばを信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現します。」
人々はザカリヤを待っていたが、神殿であまり暇取るので不思議に思った。やがて彼は出て来たが、人々に話をすることができなかった。それで、彼は神殿で幻を見たのだとわかった。ザカリヤは、彼らに合図を続けるだけで、おしのままであった。-Luke 1:11-22

ザカリヤが不安を覚え、信じることができなかったことは実によく分かる。またしゃべることができなくなっていた。私は主にしばしの猶予を願っている。現在、7:3位で信じることができるようになっているところなのだ。

御使いは、はいって来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。
すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。
・・・」
そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」
御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。・・・神にとって不可能なことは一つもありません。」
マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。-Luke 1:18-38

マリアも御使いの訪問に際して恐れ、戸惑った。が、彼女は一度は反論したが、すぐに御使いのことばに服した。こうして彼女は祝福を得た。鍵は聖霊が彼女に臨み、神には不可能はないこと。正確には神の語り出されたことば(レーマ)には不可能はないことだ。そう、われわれが未知の体験をするとき、御霊が臨み、レーマを聞き、それに服すること。するとそのあり得ないことが必ずなるのだ。

SO BE IT!!!

追記:ザカリヤは挑発的な反論をした。証拠を示せと。このために唖にされた。神や真理に対して挑発的姿勢を見せることは自分に禍を招くのだ。対するマリヤは自分の気持ちを素直に表現した。しかもすぐに御言葉に服した。このふたりの対応の差は学ぶべきであろう。

見ても信じない?

極私的に花粉症では本当に苦労した。20代後半からここまで。毎年2月半ばくらいから出るのだ。薬もいろいろ試した。ここでも何度も紹介したが、ザジテンが一番効いた。が、眠くなるのだ。その他の鼻炎薬は口が渇くとか、いろいろ不都合があった。今年も2月半ばくらいから用心のためにパブロン鼻炎用を飲んでいた。ところがいつもと何かが違う。で、3月に入ってからはまったくやめた。出ないのだ!?ついにここまで出ない・・・

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もう自分のアイデンティティーの一部だったから、うれしいというよりは、呆気にとられている感じが正直なところ。なんだこれ?と。イエスが癒された人々を見てもパリサイ人など、信じない者がいた。自分の中に同じ要素があることに気がついた。トマスのように見たら信じると思っていたが、見ても信じられないと感じる部分が、正直いってあるのだ。これほどにわがマインドはかたくななのだ。これまでの世界観やパラダイムから外れる事には抵抗を覚える。それを頑なに守ろうとする。かくして神の言葉にも異議を唱え出す者もいる。

自分の何かを捨てた者は幸いだ。古い革袋には新しいワインは入らない。パッチワークでは新しいワインを保つことはできない。捨てれば、得る。神の業は、特に新しい地平が開かれる時、この原則が働く。自分の何かを守ろうとすれば、新しいワインを飲むことはできない。まことに神の業は人にとってあり得ないことなのだ。

主は御言葉を遣わして彼らを癒し/破滅から彼らを救い出された。
主に感謝せよ。主は慈しみ深く/人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。
感謝のいけにえをささげ/御業を語り伝え、喜び歌え。
彼らは、海に船を出し/大海を渡って商う者となった。
彼らは深い淵で主の御業を/驚くべき御業を見た。
主は仰せによって嵐を起こし/波を高くされたので
彼らは天に上り、深淵に下り/苦難に魂は溶け
酔った人のようによろめき、揺らぎ/どのような知恵も呑み込まれてしまった。
苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと/主は彼らを苦しみから導き出された。
主は嵐に働きかけて沈黙させられたので/波はおさまった。
彼らは波が静まったので喜び祝い/望みの港に導かれて行った。
主に感謝せよ。主は慈しみ深く/人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。-Ps 107:20-31

追記:ここにある「天に上り、深淵に下り、酔った人のようによろめき、揺らぐ」はまことに12月以来の極私的経験でもあった。自分に何が起きたのか、何を見て・聞いてしまったのか・・・。妄想か、幻覚か、本物か・・・。

日々キリストにありて

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ニール・アンダーソンによる黙想


 なるほど、あなたがたパリサイ人は、杯や大皿の外側はきよめるが、その内側は、強奪と邪悪とでいっぱいです(ルカ11:39)。

タルムードは古代のラビたちの書いたものですが、幽閉されたラビ・アキバの物語を記録しています。ラビ・ヨシュアが彼のもとに水を持ってきましたが、番兵がその水を半分こぼしてしまいました。洗うためにせよ、飲むためにせよ、あまりにも量が少なく、もしラビ・アキバがその水を宗教的洗浄のために用いると、水が足りないために死に直面することもありました。彼は考えました、「手を洗わずに食事する者は死に値する罪を犯すことになる。私は罪を犯すくらいなら、渇きで死んだほうがましだ」と。
 イエスはそのような考えを厳しく指弾しました、「目の見えぬ手引きども。あなたがたは、ぶよは、こして除くが、らくだはのみこんでいます」(マタイ23:24)。主は宗教的実行厳守に注意を置くとき、律法のもっとも重要な要点(たとえば、義とか憐れみなど)がおろそかにされることを指摘されたのです。これは神の永遠の法則を無視することになるのです。イエスは人々に自分の心を清めること、また手だけを清めるような指導者にならうことがないようにと注意されました。
 神の律法は人を解放し、保護するものです。それは悪しき者から私たちを守るために制限を与えます。指示を与える規則の一つひとつについては、神が与えた個人個人の能力によるのです。それらは私たちを目的からそれることがないようにガードし、組織を乱用する者から守るためのものです。
イエスが示した模範は次のとおりです:もし人々が、人生をより困難にしまた組織の目的に資することがない伝統的な実行に従うように命じられた場合、私たちは宗教的良心の問題として関わる必要はないのです。イエスはそのような伝統には従われませんでした。同時に弟子たちが従わないことについても擁護されたのです。

 主よ、私に律法は殺し、御霊はいのちを与えることを思い起こさせて下さり感謝します。今日、その自由の中に生きるように助けてください。

TODAY'S CELEBRATION 【Mar 22, 2015】

UPしました。

タイトルアイデンティティーにあるパワー

聖書箇所:ガラテヤ6:15;ルカ17:21;詩篇104:30;1コリント14:32など

3月29日のセレブ

 ・場所:横浜エスカル2F会議室
 ・時間:1300-1700
 ・Web:Kingdom Fellowship®

アイデンティティーについてはかつてかなり語りましたが、ここへきて新たな地平が開かれている次第。

ポータルが開く鍵-intimacy

イエスは言われた、わたしの名によって求めるものは何でもかなえてあげよう、と。これが実現する鍵は、「わたしの名によって」だ。祈りの最後にあたかも札をつけるように、「この小さき者の祈りを私たちの救い主イエスのお名前によって祈ります」と唱えることでは必ずしもない。その真の意味はintimacyだ。聖霊による主イエスとの交わりが深ければ深いほど、イエスの名によっての実質、サブスタンスが増し加わる。私たちのマインドの有様がキリストのマインドと一致するようになる。

イエスは父との関係において完全にひとつであったから、ラザロの復活のとき、あれだけの大見栄を切ることができた。「父よ、わたしの願いを聞き届けてくださったことを感謝します。いつもわたしの願いを聞いてくださることを知っています」と。この関係を主イエスと私たちに平行移動するとき、私たちの祈りもこれと同じ結果を生む。intimacy-人との関係も同じだが、まして神との関係においては本質的である。

追記:わたしの30年来の花粉症は跡形もなく消えた。毎朝、今日は出るんじゃないかと思っているのだが、本日のような晴天の花粉日よりでも、マスクを外していたが、出ない・・・。うーっむ。

CLIP:<フリーメーソン>「世界を操る秘密結社」なのか? 活動盛んなドイツの実情探る

毎日新聞 3月21日(土)11時29分配信

世界的な友愛団体フリーメーソンのドイツの支部幹部シュトラスナー氏。「陰謀論は気にせず、むしろ楽しむ会員も多いですよ」

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 【ベルリン篠田航一、写真も】「世界を操る秘密結社」などと言われることも多い世界的な友愛団体「フリーメーソン」。米国を中心に会員は世界で約600万人とも言われ、欧州にも浸透している。小説や映画では「陰謀論」も渦巻くが、実態はどうなのか。活動が盛んな国の一つ、ドイツの事情を探ってみた。

【シンボルマークとは?】フリーメーソンの建物には「コンパスと定規」のマークが見られる(写真)

 ベルリン南西部の高級住宅街に「グランドロッジ・フリーメーソン・ドイツ」との看板がある。重厚なレンガ造りのその邸宅に入ると、グランドマスター(責任者)で独北部キールの医師、アヒム・シュトラスナー博士(67)がにこやかに迎えてくれた。「よく聞かれますが、陰謀とは無縁です。そもそも政治活動はしないので、国際政治に影響力を行使することなどあり得ませんよ」

 あくまで友愛団体で、政治的人脈や商売上の利益を目的にしているわけではないという。入会は原則21歳以上の男性のみだが、近年は女性のためのロッジ(支部)もある。現在、ドイツ国内の会員は約1万5000人。年会費は集会所の維持費など、年間500ユーロ(約6万5000円)前後という。
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