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続・語り出された言葉の力

不思議だ。花粉症がほとんど出ない。例年だとこの時期はもう地獄の苦しみなのだが。しかも今年は昨年よりも多いとのこと。とにかく12月のあれ以来、不思議なことばかりだ。しかし自分的にはいまだ半信半疑なのだ。私たちの口から出る言葉の力。まことに

死と生は舌(ことば)の力にある。どちらかを愛して、人はその実を食べる。-箴言18:21

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。
またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。
あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。-John 14:12-14

私たちのFaith(信)とは宗教ではないのだ!善と悪の平面上にはない*1。それは霊的領域に関わり、願う実体をそこからこの時空間に現出させる。その鍵は私たちの口から語り出されることばにある。

ちなみに2011年3月8日、私はここで"MAR. 11 2011, THE DAY IT'S COMING!"と語ってしまった*2。何かが来ることがわかったが、あれほどのものとは。こちらに最近の地震の状況図がある。注意するに越したことはない。

ファイル 4796-1.jpg

*1:神の御心を生きるためにビクビクする人たちが多い。御心から外れないようにとか、神に受け入れていただくためにとか、もっと言えば、裁かれないようにとか・・・。が、父は言われる、あなたはすでにわたしの心にかなう子、またわたしのものはすべてあなたのものだ。あなたはわたしに何を願うのか。わたしはあなたが喜ぶのを見たいのだ、と。
*2:当日の午前の記事では地震への警戒を書いている。

霊と魂の相克

ベニー・ヒンについての最近の発言を紹介しているが、やはり過敏な反応が出るようだ。最近注目しているビル・ジョンソンについても、アメリカでは偽預言者・異端・カルト・ニューエイジとかなり批難がある。さらには、ニール・アンダーソンについてすら、同様の批判が行われている。もっと言えば、英国のコリン・アーカートについてもだ。ここまでくると極私的には批判している側の資質を検討する必要があると思うのだ。ご存知のように私についても一部のニッポンキリスト教徒からカルトだ、異端だとされているわけで。

そしてこれはイエス自身が遭遇した事態なのだ。つまり、この地上に神が人となって現出され、水の上を歩いたり、パンを増やしたり、病人をことごとく癒し、死者を生き返らせたり、自分の肉を食べ、血を飲めと言ってみたり・・・、こういった事態がそのものが人の常識やパラダイムを揺すぶるのだ。人は自分の世界観やパラダイムに脅威を覚える場合、批判や攻撃性を見せる。メッセでも語ったが、聖書なる書物自体が元々ヤバイことを証している。キリスト教はその中の自分が受け入れることができる要素だけをつまみ食いして、いわゆる神学や文化や伝統を構築してきた。それはトランスフォームされていないマインドでも受け入れられる要素だけに基づいている。

たとえば、その体系の中では五つのパンで五千人を養うことは、神であるイエスにはできても、人間である自分たちには不可能とするのだ。ところがビル・ジョンソンなどは、いや、イエスはあくまでも人として業を行った。だから私たちもそれと同じ業、さらにはもっと大いなる業がなし得るとチャレンジする(John 14:12)。ここで人は自分のパラダイムにチャレンジを受けて、不安を覚えるのだ。そこでいろいろと議論を始め、さらには攻撃すら行う。これがトランスフォームされていない私たちのマインドの性向であり、パイサイ人や律法学者がしばしば行ったことだ。かくしてイエスは悪霊に憑かれているとか、果ては狂っているとまで非難されている。神のものはかくのごとく生まれながらの人間の魂にとっては決して受け入れらない。それは彼らにとっては愚かなもの、狂っているものだから。彼らの攻撃性の強さと彼らの内的不安とは正比例する*1

生まれながら(Gk.魂的)の人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、霊のことは霊によってわきまえるものだからです。-1Cor 2:14

かくして私たちのマインドは神に敵対するか(=肉におかれた思い)、神に服するかのどちらかに置かれる(=霊におかれた思い)。もし自分の魂のマインドを変えることを拒むのであれば、それはすなわち十字架を拒絶することであるが、それ以上の霊的進歩は止まる*2。もし十字架により自分の魂を否み、マインドのトランスフォーメーションを受けるのであれば、信仰は拡大され、さらに豊かな霊的領域に入りゆくことができる。十字架は自我を砕くとか叫ぶ場ではない。御言葉の真理と自分のマインドのどちらを選択するかを問われる場なのだ。絶えざるトランスフォーメーションによってのみ、神の深みへと入り込むことができる。神の深み!それは奥義また神秘である。

まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」
神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。-1Cor 2:9-10

*1:内的に安息している人は性急な結論は出さないものだ(1Cor 4:5)。
*2:この場合、延々と他者を批判また攻撃する、否、しないと自分を保てなくなる。

最近のベニー・ヒンの聖霊論

彼の最近の発言はとてもまともな印象を醸していることは先に紹介した。勝利は十字架の死から始まるとか・・・。今回、彼は聖霊について語っているが、実にポイントを突いている(→ビデオ再生できないときはこちら)。

1.聖霊とは、ジーザス・アンリミテッドだ。つまりイエスを無制限に証しする方であると。
2.聖霊そのものを求めるのではなく、ジーザスを求めること。すると自然と聖霊は働かれる。

しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。-John 14:26;16:13-15

いわゆる聖霊派の聖霊論にはやや抵抗を覚える次第。父が天の座にいて、その右にイエスがおられ、地上には聖霊がいると。これは三神論だ。聖霊が来られるとき

イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。-John 14:23

聖霊は決して自分から語るのではなく、イエスの言葉を聞くままに語り、イエスに栄光をもたらす霊なのだ。つまりイエスの名と聖霊はひとつになってイエスを証される。ベニー・ヒン、いろいろ批判されているが、彼はクリスチャンの兄弟であると私は感じるところだ。

信によって

ギリシャ語の"pistis"を「信仰」と訳するのは不適であると先に指摘した。「信じて仰ぐ」のではない。それは私の業になってしまう。個人訳の「新和訳」を見ると、こうあった:

さて、信とは、望まれている事柄の実体化であり、未だ見ていない事柄を確認することである*1。・・・信によって、わたし達は、この世が神の御言葉(レーマ)によって造られている・・・-Heb 11:1;3

信。これは適切だ。ガラテヤも

もはや、わたしが生きているのではない。キリストがわたしの内に生きておられるのである。わたしが今、肉にあって生きているこの太命(ゾーエ)を、わたしは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をお与えくださった神の御子信によって生きているのである。-Gal 2:20

pistis、信は自分から生まれるものではない。神の霊が内に息吹いて下さるのだ。信仰ではなく、ただ信。それは恵み、ギフトだ。

追記:なぜか、花粉症がほとんど出てない。実はこう祈っていた。主イエスの名によりIgE抗体よ、花粉に反応するな。ヒスタミン分泌されるな。免疫系よ、過敏に反応するな、と。一応、私は医学博士なのだが・・・。

*1:「確認する」は、エターナルライフ版のように、「あばく」とか「現出させる」の方がベターと思う。

日々キリストにありて

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ニール・アンダーソンによる黙想


 主よ。あなたの道を私に知らせ、あなたの小道を私に教えてください(詩篇25:4)。

 今日と明日のデボーションでは、決断に迫られるときに、あなたが尋ねまた祈るであろう10点の質問について交わりたいと思います。最初の五つは一般的なもの。それは常に基準となるべき倫理的な論点と神聖な知恵についてです。
1.あなたはそれについて祈りましたか?祈りは決して神に対して私たちの性急な決断を判定してもらうべく二の次の置かれるものではありません。それは第一義的なものです。私たちのプランを神に祝福していただくためのものではなく、神のプランを尋ね求めるべきものです。
2.それは神の言葉と整合していますか?私たちの文化においては、神の言葉を知らないことは決して言い訳になりません。なぜなら情報は十分だからです。各家庭にコンコーダンス、聖書辞典、項目別聖書、良いコメンタリー、脚注のある学習用聖書などは少なくとも一冊はあるでしょう。ほとんどの牧師がある論点について交わっているでしょう。そうでなければ、その牧師は問題です!
3.それは実行可能であり、かつ素晴らしいクリスチャンの証になるでしょうか?私のオフィスにひとりの神学生が立ち寄り、自分が得ていた仕事について交わりました。それは経済的必要に関することであり、彼はそれまである商売の手法を保留していたのです。私はその商売の手法を使ったとき、キリストの良い証となるかどうか聞きました。結局、彼はそれをしませんでした。
4.主が栄光化されるでしょうか?それを実行して、それが主の栄光となるでしょうか?それをすることにより、私の身体で神を栄光化するでしょうか?人の栄光を求めているのか、神の栄光を求めているのか?人から賞賛を受けたいのか、主をお喜ばせしたいのでしょうか?
5.責任を持つことができるしょうか?神は私たちの無責任は良しとされません。神は私たちが罪や無責任な選択の結果を得ることを許されます。しかし、私たちが小さなことに忠実であるならば、大きなことを任せて下さるのです。神のタイミングより先に行かないように。それは責任が自分の頭を超えてしまうことを意味します。自分の人生とメッセージを成長させれば、神はあなたのミニストリーを拡大して下さいます。

 親愛なる主よ、これらの質問を正当に正しく見つめ、いかなる代価を払うとも、私の人生に対するあなたの意志に妥協することがないように助けて下さい。

TODAY'S CELEBRATION 【Mar 08, 2015】

UPしました。

●タイトル:信仰の実体をゲットする
●聖書箇所:ヘブル11:1-3;2コリント4:13;イザヤ57:19;創世記2:19など

●3月15日のセレブは
 
 ・時間:1300-1700
 ・場所:エスカル会館2F会議室

私たちの役目-天のポータル

すでに述べているが、私たちは神の家(ベテル)、天の門(ポータル)。天と地がはしごで結ばれ、天使が上り下りするポイント。面白いことに再建主義の富井氏も同じことを。

エデンの園は、エデン山の中腹にあった。

至聖所である頂上から流れる川が、エデンの園に流れ、そこから地の四方を潤した。

エデンの園は、天と地を結ぶ聖所であった。

これは、もともとアダムが、天と地を結ぶ祭司の役割を与えられて作られたことを示している。

しかし、堕落したために、その役割を果たせなくなり、追い出された。

神は代わりにキリストを地上に送り、聖所において天と地をとりなす働きをさせられた。

キリストがエデンの園に入られたように、われわれもキリストにあってエデンの園に入った。

だから、われわれ契約の民は、天と地を結びつける働きをしなければならない。

再建主義の二度の「再臨」とかは理解できないが、これなどはまことに同意する次第。ポスト・ミレとプレ・ミレの致命的な違いがあるが、彼とは一度交わってみたいと願っているのだ。彼の盟友のK氏は私も存じ上げているところなのだ。

信仰による人生-神のレバレッジ効果

今回、私たちの古いメンバーのある姉妹とそのご主人の証しをじっくりと伺った。いや、正直、驚くと同時に励まされた。いわく、ご主人は上司と喧嘩して会社をやめて、雨漏りのする4畳半ひと間で5年間暮らした。ある日、バイブルクラスに出たご主人は信仰の決心され、バプテスマを受けた。その日、帰宅してみると、ある外資系会社から、あなたを買いたいと申し出の手紙が届いていた。プラント建設のスキルを買ってくれたのだ。かくして資金を得て会社を設立、その仕事で大成功し、ドイツにビルを建て、恩返しをしたと・・・。

その後も大企業との競合においても主の御手の介入により次々にイランなどの大規模プラントを落札。丸紅のお偉いさんが訪ねてきたとき、夫婦二人の家内工業だと知って驚いたとのエピソードもあるほど。その他にも姉妹は死をも考えたほどの絶望的な病気を信仰によって癒され、現在を得ている。今や都内をはじめ、横浜近郊や軽井沢にも大豪邸を所有し、何気に壁に飾ってある絵画はマンションが買える値段だとか・・・。

プラントと言えば、数百(千?)億のケタであろうし、私たちとはまさにケタが違う。これを夫婦ふたりで起こした会社で動かしている。しかも素晴らしいことは、これが自分たちの努力によるというより、すべて祈りに答えて下さる主の御手によることだと喜んでいる点。まさに

あなたは心のうちで、「この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ。」と言わないように気をつけなさい。あなたの神、主を心に据えなさい。主があなたに富を築き上げる力を与えられるのは、あなたの先祖たちに誓った契約を今日のとおりに果たされるためである。-Deut 8:17-18

主が働かれるとき、その祝福はこのようなレベルにまで至るのだ。たった夫婦ふたりで生まれた会社であるが、テコの原理が働くのだ。これをレバレッジ効果という。神がレバレッジ(テコ)になって下さるとき、このような人生が展開する。まことに神のfavourに与る特権は素晴らしい。まずは魂が満たされること。そのためにはマインドが真理に一致する必要がある。

愛する者よ。あなたが、たましいに繁栄を得ているようにすべての点でも繁栄を得、また健康であるように祈ります。-3John 1:2

追記:今年は、あれ?花粉症がほとんど出ない。花粉は多いとニュースで言ってるのだが。例年だと、今日の朝であれば、顔がグシャグシャになるほど。目玉をほじくり出して冷水に漬けたいと思うのだ。風に当たると身構えて息を止めるほどに花粉恐怖症だった。それが、え、え、え?もしかして・・・。

マインドと物質界

今晩、オウム事件の特番があった。当時、バブルのカネまみれに疑問を抱いた若者がオウムに惹かれた理由の一つに、霊的な要素あるいは超能力的な要素をオウムが持っていたことを指摘していた。彼らは目に見える事象に倦んでいたのだ。ところがいわゆるキリスト教は彼らに処方箋を提示し得なかった。これは今も同じ。「清く・貧しく・美しく」的で、無力にも神のデュナミスを証していない。聖書を道徳や倫理、あるいは教育や社会規範の書物としてしまっている。キリスト教が神の言葉のデゥナミスを束縛しているのだ。もっと言えば、キリスト教は人々のマインドを解き放つどころか、逆に拘束する。

さて、量子力学の世界では人間の意識が量子の状態に影響すると言われている。そもそも観測することは光を当てることによるが、光量子を電子に当てれば、電子は状態を変えてしまう。つまり位置と運動量を共に確定することはできないのだ。これをさらに進めて、意識作用自体が量子の状態に影響を及ぼすとする説が存在する。例えばこちらを

これを聖書信仰的立場から解すれば、ヘブル11章3節にあるとおり、目に見えるものは目に見えないものがフレーム化したものであるのだから、私たちのマインドが信仰によって目に見えない領域に影響を与える場合に、十分にありえることと思われるのだ。

信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られた(framed)ことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。-Heb 11:3

ポイントは、理性によって悟るのでははない。信仰によって悟るのだ。実はこの「信仰」という訳語も曲者である。信じて仰ぐ?はっきり言って意味不明だ。原語は"pistis"。この作用は1節に定義されている。

pistisは希求する事柄の実体(hupostasis)、目に見えないものの証明(elegchos)である。-Heb 11:1(岩波訳)

この目に見えない世界の実体を把握することは霊による。決してマインドにはよらない。が、マインドが制限されているとその実体を掴み損ねるのだ。例えば、病気は人格を練るために神が与えるものだとマインドがコンフォームされている人は、決して癒しの実体を得ることはできない。魂(soul)のマインドが霊の機能を抑圧してしまう。しばしば問題を抱え続ける人は、魂、特にマインドが束縛されている。だからそもそも神に求めることができない。キリストが十字架において成し遂げられた実体を得ることができない。かくしてこの時空間の中において延々と悶え続ける事になる。

Bill Johnsonをはじめとして、いろいろな人々がなかったものが存在するに至る現象を証している。切除された乳房が再生されたり、切断した指が生えてきたりと・・・。これらの現象はこれまでの私たちの世の形にコンフォームされたマインドの理解をはるかに超える。ゆえに大いなる議論や論争を生むのだ。それはイエスの御業を見た人々の間ですでになされたことであった。イエスは言われた、「信じる者には何でも可能である」と!信じるとはマインドが念仏を唱えるように、「われは○○を信ず!」と繰り返すことではない。望んでいる見えない実体を得ることだ。その信仰の瞬間、「得た!」と分かるのだ。それはマインドの理屈を超えている。"I know that I know that I know!"。

神の形に造られた人間のポテンシャルは相当のものがあるのだ。それは世の形にコンフォームされたマインドが、啓示された御言葉の形にトランスフォームされる時に発揮される。すなわちそれはキリストのマインドなのだ。私たちはすでにキリストのマインドを持っている!(1Cor 2:16;邦訳ではキリストの心とあるが、これは誤訳。)あらゆる状況や事象をキリストのマインドで見るとき、絶望とか失望とかはあり得ないのだ。

ニュー・クリエーション

神は人を内側も外側もご自身に似せて創造された。この時点で、人は神のような存在だった*1。そして地と天を統治することを委託され、すべての生物に名をつける権威を与えられた。

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。

神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。-Gen 1:26;2:19

この名をつけることは、実は人にとってのリアリティを創り出すことに他ならない。例えば、「ライオン」と命名された動物はコレコレの特徴があり、アレコレの行動をし、コウコウであると。これが私たちのマインドのうちに構築された「ライオン」のリアリティである。あるいは「ガン」。DNAが損傷され、異常なタンパク質が勝手に増殖し、生体を死に至らしめる。ステージ4ともなるとほとんど助からない、治療法は・・・云々。こうして私たちのマインドにとっての「ガン」というリアリティが構築され、いざガンと診断されると、このリアリティがマインドに展開され、その中に自分を閉じ込め、最悪死を覚悟する。つまりその名前がつけられたリアリティを信じて、「ライオンは怖い」、「ガンは致命的病だ」とマインドは受け入れてしまう。よって信じた通りになってしまう。

かくのごとく、名前を付ける行為は神から委ねられた権威であるが、これが善悪を知る木の実を食べた人類にとっては自縄自縛の結果を生むことになった。人は現象や事象に名前をつけて、フレームにはめ込まないと不安を抱くのだ。○○主義とか、××派とか・・・。こうしてマインドの中でリアリティを作り出し、それに基づいて意思決定をし、言動を決める。たとえそれが真実ではなかったとしても、その人にとってはあくまでもリアリティなのだ。ところがイエスにとってのリアリティはわれわれのそれとは相当に異なっている。たとえば、五千人を五つのパンと二匹の魚で飽かせた事件。弟子たちはそんなパンと魚の数ではとても無理と焦った。が、イエスは悠々としていた。彼の信仰にとってはそれで十分だったのだ。あるいは嵐の中の船でも悠々と寝ていた。弟子たちは焦りまくったが、イエスにとっては一言で解決する事態に過ぎなかった。

イエスにとっての目に見えるリアリティはその信仰によっていくらでも変え得るものであった。彼はつねに霊的領域における真理を見ていたからだ。目に見えるものは目に見えないものが実体(フレーム)化されるものだからだ(Heb 11:3)。その目に見えない領域に働くのが信仰なのだ(Heb 11:1)。かくしてイエスのマインドは常に親密なる父なる神との関係によって、その能力が介入することを知っていた。かくして地上に御心がなることを実証したのだ(Rom 12:2)。ゆえにイエスを見た者は父を見たのだ(John 14:9)。私たちの病気や問題を神がどう見ておられるかは、イエスの言動を見れば十分に理解できるのだ。

地上において神の国を現出させるためには、イエスの言動でわかるとおり、マインドのトランスフォーメーション、すなわちイエスのマインド(1Cor 2:16)がわれわれのマインドを占めることと、信仰によって権威をもって語り出すことがポイントになる(2Cor 4:13)。語り出された言葉には神の国の力があるのだ。アダムが喪失した権威と能力をイエスはその血によって贖い取られた。イエスの血の値段がどの程度のものか考えて欲しい(1Peter 1:19)。その血によって贖われた権威と能力がどれほどのものか!私たちは新しい創造物として、十字架の前には存在しなかった種なのだ(Gal 6:15)。うちにキリストを死から蘇らせた聖霊、さらに父と子の内住を得ている存在(Rom 8:11;John 14:23)。その内にいます神が語り出せば、ないものがあるようになる(Rom 4:17)。私たちが何かに名をつけることによりリアリティを作り出すことは、その影なのだ。

御心が天になるとおり、地にもなるように。この祈りはまさしく、アダムが喪失した統治を、今、ここで、現出させることに他ならない。ただし、再建主義との違いは前に指摘したので、繰り返さなさい。キリストにある私たちはニュー・クリエーションであり、イエスの血の代価によって得られたその権威と能力を有している。だからパウロはコリントで肉的な騒乱にある兄弟姉妹に対して

相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。-1Cor 3:3

と叱責する。邦語訳では「単なる人として」のニュアンスであるが、原文にはそのような修飾はない。「人として歩んでいる」となっている。え?ということは、本来人ではないことになる!?そう、私たちは新しい創造物なのだ。イエスの血と脇腹の水により、御霊から生み出された、それまでは存在していなかった創造物。その有する権威と能力はこれまで私の理解をはるかにはるかに超えるもののようだ。WOW!

*1:サタンはこの事実に不足があるかのようにエバを誘惑した。またモーセはパロに対して神(Elohim)とされている(Exo 7:1)。

FUJI TODAY

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救いの根拠はどこに?

私たちもKingdom of Godが地上に現れることを祈っている。それは御霊に満たされた人々が神の国のデュナミスを流すとき、神の力が証され、その臨在に満ちるとき、人々の心が変えられ、おのずと社会も変わる、というあり方だ。神の国はいのちと統治であり、私たちの内側に種として撒かれ、成長しつつある。それは人手によらない。そして神の領域は

 ・The Kingdom:Government(統治)
 ・The Power :Ability(力)
 ・The Glory :Atmosphere(臨在)

からなる。そのKingdomは、超自然的・揺るがない・力にある・今、ここで、経験できるのだ。これが私たちの祈りなのだ。ちなみに富井氏はこう言われている。なぜか、違和感を覚えるのは、私たちの救いはイエスによるのであり、再建主義によるのではないと感じられるからなのだ。

tomi 2015/03/02(月) 00:37

最終的な霊的な攻撃を仕掛ける必要がある

次第に自分の中で、次の対立構造があるのではないかと確信が強くなってきました。

真の統一イスラエルである日本  対  偽イスラエルであるロスチャイルドのイスラエル

tomi 2015/03/02(月) 01:46

再建主義以外にわれわれには解決はない

グローバリストや新自由主義は国や家族を解体する。
http://wondrousjapanforever.blog.fc2.com/blog-entry-202.html

しかし、同時に国や家庭を大切に、という。

グローバリストの統一協会は、家庭の大切さを訴える運動をする。

解体して再編。これ、イルミナティのスローガン「創造的破壊」。

民主党のマークは、日の丸を分断して、再結合。その中心に「白抜きの目」がある。

これは、イルミナティの「万物を見通す目」である。

このことを何年か前に指摘したが、板垣英憲氏も同じことを著書でいっている。

つまり、イルミナティのやっていることはこういうことだ。

1.既存の秩序を破壊する。

2.サタンが一枚かんだ形で再編する。

神の創造世界の破壊と、サタンによる再統一。

これによって、世界をサタン化しようとしている。

そういう意味で統一協会との関係が疑われる安倍さんを完全には信用できない。

ただ、信用できないということで、安倍おろしをしても、中国が入ってくるだけ。

中国もイルミナティだからどうしようもない。

われわれは、聖書法による再編を望む。

神の言葉によって国も家族も定義しなおすべき。

そういう意味で、この世界に、2つのライバルしかないことがわかる。

再建主義 対 イルミナティ

既存の福音派は統一協会に丸めこまれて、宗教合同に向かっている。

2.

再建主義は、聖書信仰であるから、三位一神教である。

三位一体の神は、3人の神が契約によって1人になっている。

だから、多様性も統一性も等しく究極である。

国境を保ち、家族を保ち、多様性を尊重するが、しかし、統一性も尊重する。

国どおしが助け合い、家族どおしが助け合い、個人どおしが助け合い、共同体を形成する。

この聖書的な「一と多」の原理を社会に適用しなければならない。

イルミナティは、ユニテリアンであり、一位一神教である。

だから、国境や家族は溶解して、一つの単一体になる。

ホモ・セクシャルやポルノによる家庭崩壊がはびこっているのは、家庭を溶かして、彼らが思い描く姿に作り変えるためだ。

移民によって国境が崩壊しているのは、国を溶かして、彼らが思い描く姿に作り変えるためだ。

解決は聖書にしかない。

だから、再建主義以外に、われわれには解決はない。

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