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本日の二冊

小室氏が逮捕され、予想通りオバマが当選し・・・と、世は動いておりますが、こういった場面ではちょっと世と距離を置くのがDr.Luke流。

ファイル 597-1.jpgで、前々から挑戦している『三国志』の全貌を掴もうかと、『図説合戦地図で読む三国志の全貌』。あの『レッドクリフ』で登場人物のイメージができたので、ちょっと挫折気味だったのだが、再挑戦。北方謙三氏や古くは吉川栄治氏の『三国志』もあるのだが、横山光輝氏のコミック版(30巻!)で挫折した私としては、改めてまずは全貌をざっと、というわけ。地図が詳細で重宝する。

ファイル 597-2.jpgもう一冊は『週刊新潮』に連載されていた『謎手本忠臣蔵(上)』。もちろん『仮名手本忠臣蔵』を意識しているのだろうが、これまでの忠臣蔵のイメージは欺きだったとして、加藤氏独特の視点からこの事件を解いている。柳沢吉保による情報操作があったのらしいが・・・。情報戦とリアルな戦闘場面を描いた池宮障一郎氏の『四十七人の刺客』や、精緻な描写の社会派作家森村誠一氏の『大忠臣蔵』はかなり楽しめたが、本書はどうだろう。これまでのイメージを壊した上で、新たな再構築が必要かも知れない。これも楽しみな仕事ではある。男女関係などもそうだが、できあがったイメージが壊れ、新しい相手像を見い出すことは、人生におけるとても刺激的なスパイスなのだ^^

本日の一冊

ファイル 590-1.jpgアメリカの宗教右派』(中公新書)。アメリカの政治的流れに聖書解釈や神学が大きく関わっている事は最近とみに明確になってきたが、19-20世紀の政治とアメリカキリスト教の流れの関連性をきわめてコンパクトに分かり易くまとめている。

恐慌前、古典的自由主義を掲げ、小さな、干渉しない、放置主義的政府のあり方を志向した共和党の失政で世界恐慌を招き、民主党のルーズベルトが、積極的に経済に干渉するケンジアン政策によって恐慌を抜け、戦後、70年代後半からハイエクの新自由主義とフリードマンのマネタリストの実現であるレーガノミクスで再び共和党が盛り返し、その挙句が今回のクラッシュで、再び民主党が・・・と言った政治の波が30年周期で繰り返すと解説する。その間に、メインラインと福音主義、さらに原理主義やペンテコステ・カリスマ派、そしてメガチャーチの隆盛と後退が起きているわけで、その動きと政治・経済・社会の関わりを、多分ノンクリスチャンであろうが、正確に解き明かしている。

再建主義の富井さんが、政教分離は幻想であると述べているが、これはまさにそのとおりだろう。多かれ少なかれ、人の心に霊的要素がそもそも潜んでいるわけで、いわゆる哲学や思想なども霊的要素から離れて論じることはできない。むしろ今後、バビロン化が勧めば、霊的要因と経済がさらに密接に関係してくるだろう。近代国家・科学万能国家アメリカの深層に流れるものは、建国以来実は変わっていないし、当時のヨーロッパの霊的流れと無関係ではない。つまりNW誌が指摘するとおり、アメリカは基本的に保守的右寄り国家なのだ。オバマもこの辺を読み違えて、左に寄ると一挙にしっぺ返しを食らう可能性もあるわけだ。アイオーンの潮流が大きく変わりつつある今、次にどんな主義・思想が生まれるのだろうか。案外すでに起きた事の焼き直しであるかも知れないのだ。

見よ、これこそ新しい、と言ってみても/それもまた、永遠の昔からあり/この時代の前にもあった。

断想と本日の一冊

風呂上り、冷えたビールでホッとしております。本日、御茶ノ水にて仕事の帰り、またまたあのアーサー・ホーランド様と遭遇。ちらっとこちらにも視線を送ってきましたが、皮ジャンと鎖ジャラジャラではなく、今日は白と黒のド派手なチェックのジャケットをお召しでした(こちらも柄シャツでけっして堅気とは見えないのだが^^)。彼とは筋トレ、ニッポンキリスト教に対する姿勢など共感できる部分もけっこうあるのだが、私は墨は入れてませんし、単なる普通のオジサン。しかし前にも書いたが、彼も松沢牧師を亡くして、老後に向かってどう自分のキャラと人生を締めくくるか、けっこう大変だろうなぁと、いらぬお世話を再び・・・。

 * * *

妊婦が7箇所から受け入れを拒否され、死亡。まことに気の毒。最近では、特に産婦人科では、少しでも異常のある妊婦はすぐに他の病院に回す傾向が強い。私の義理のメイもこの2月に出産したのだが、前置胎盤のためあちこち回された。父親は開業医なのだが、科が違うとほとんど素人と同じ。前にこのBlogでも指摘した懸念が現実のものとなってきている。大衆は愚かなもの。誤診あるいは不可抗力によるミスで医師を逮捕までするならば、結局、医師側は「診療するにしかず」で、大衆自身のところに回りまわってくるもの。わが友人の女医(前に2ショット写真を紹介したが)もあやうく訴えられそうになったことがあり、もう患者を診るのは嫌だ、と(マジで)言っている。みのもんたと古館伊知郎、したり顔のあなたたちがニッポンを窮屈なものにしていることに早いところ気づけよ。

追記:モンスター・ペアレンツに、モンスター・ペイシャンツに、そろそろモンスター・ビリーヴァーズも出現しているわけで・・・。

 * * *

ファイル 581-1.jpg仕事もあと1ヶ月半と少々。そろそろニンジンをぶら下げる時期に入って参りました。で、本日の一冊は『新日本百名湯』(日本経済新聞社)。つい最近大沢温泉を堪能してきたが、年末の温泉をぶら下げて折り返し点を通過といったところ。が、こうしていろいろ思い巡らすのがまた楽しいのではある。まあ、温泉までにJazzのライブも何度か入っているのだが・・・(要するにぶら下げるニンジンの間隔を短めに設定するというわけ^^)。

 * * *

しかし、マーケットが波乱だ・・・。株は暴落、ドルとユーロも暴落、石油も暴落、ゴールドは上昇、東京の地価も暴落。イスラムマネーが買いに入るとの説もあるが、ニッポンもイスラム化されるか?しかし、はたしてマネーはどこへ向かう(今は安全なところへ、だが)?

本日の一冊

ファイル 549-1.jpgあの大作『ローマ人の物語』の著者塩野七生氏によるアウトライン的ローマ史語り本『ローマから日本が見える』。とても平易な文体で約800年間のローマ史を簡潔に描く。特にキャラクターに対する塩野氏の思い入れが熱く伝わる。彼女はリアルでどのような男女関係を経験したかは不明であるが、ローマ史の男たちには相当に入れ込んでいるようだ。特にスッラとカエサルに対しては、である。対してクレオパトラについてはあまり評価が高くない。彼女の主観によるフィルターが相当に入っているようにだが、まあ塩野氏は歴史学の素人だと自分でもおっしゃっているし、あくまでも作家の視点から書いているのだからヨシとしよう。

新しい発見としては、私たちクリスチャンからすると、ローマは悪の権化にして永遠の神の敵であるかのように刷り込まれており、さらに「パンとサーカス」といった標語で堕落の極みにあった悪の帝国と思っていたのだが、実はさにあらず。このような国家が1000年以上も続く事自体、絶えざる改革を断行した結実であり、それは人類の知力の結晶と言えるわけ。その頂点にカエサルが出現するが、現代ヨーロッパはカエサルが創ったとまで言えるのだ。敵を征服しても支配する事はなく、彼らをもローマ市民として対等に扱ったカエサルの「寛容(クレメンティア)」は、自身を死へと追い詰めるわけだが、自身の信条に忠実に死んだ彼の死を塩野氏はいとおしむ。

で、ローマの歴史から今のニッポンを見ると、真のリーダーがないままに、滅びへと向かっていると感じざるを得ない、愚衆政治。有能な独裁者は悪くない、と塩野氏は指摘する。

 日本人はともすれば「理想のリーダー」の条件として、人格の円満さや徳性などを求めますが、人格が高潔であることと目的を達成することは、直接には何の関係もない。たとえ人格に問題があろうと、国民を幸福にすると言う大目的を達成できたら、いいリーダーなのです。
 ・・・マキャベリが言ったとおり、「結果さえよければ、手段はつねに正当化される」のが政治であり、それを誰よりも知っていたのが彼ら(カエサルやアウグストゥス)だと思いますね。ところが残念な事に日本では、たとえ結果が出せなくとも、手段が正しければそれで許されてしまう雰囲気がいまだに強い。しかし、それはリーダーを甘やかすだけにしかならないのではないでしょうか。
 「天国へ行く最も有効な方法は、地獄へ行く道を熟知することである」(マキャベリ)。

なるほど、この辺りは私の価値観と同じ。愛に富んだ人格高潔な、しかしメスの切れない外科医と、財前五郎のような高慢で冷酷な、しかしメスの切れる外科医のどちらに執刀してもらうべきか、と前にも何度も問題提起している。政治についても、私は田中角栄を評価する。政治とは所詮ソーシャルエンジニアリング。麻生氏のように4人も女がいたとしても、それはそれで結構。むしろ政治家たる者、女性にモテないでどうするって。人格高潔でモテない男は牧師でもすればよいのだ。

ファイル 549-2.jpgローマ史が、塩野氏の目を通してアレンジされているが、実に生き生きと語られている。文庫本にもなっているようなので、これまで食指を伸ばすのを躊躇っていたあの大作16巻にも挑戦してみようか知らん。なお、本書は『痛快、ローマ学』(これも読んだが、本書の方が分かり易い)を全面改稿したものとのこと。

追記:クリスチャン・トゥデイにありますVIPクラブの広告塔佐々木満男国際弁護士による「あなたは国家を変革することができる!」はややユーフォリア的幻想で、『キングダムロスト』の悪夢を連想し怖いものを覚えますね。私はこういった霊的識別力を欠いたニッポンキリスト教が政権を取ったら、マジで日本を去ります(まあ、主はけっしてそれをなさらないと信じていますが^^)。

本日の二冊

ファイル 535-1.jpg早速クライミングのためのトレーニング法を調べ始めました。『CLIMBERS' BODY』(東京新聞出版局)。ざっと見たところ、これまでの外見をシェイプアップするトレーニングでは不十分なこと。いわゆるボディビルダーは外観がすべて。そのため、大胸筋、腹筋、僧帽筋、広背筋、上腕二頭三頭筋、大腿筋といった身体表面の目立つ筋群を重点的に鍛える。が、これらは速筋(白筋)群であって、瞬発性はあるが持久力がない。対してクライミングではひたすら持久戦。よって遅速筋(赤筋)を鍛える必要があるが、これはけっこう身体のディープな部分にあるコアな筋群なのだ。と言うわけで、少々トレーニング法にも変化が必要のようだ。また単に筋量を増加すると体重が増えて、手足にかかる負荷が増える。よって筋肉増強と持久力のトレードオフの関係になるわけだ。しかしかなり面白そう。

ファイル 535-2.jpg次はJAZZ。かなり理論的かつ歴史的かつ実践的著作。『東京大学のアルバート・アイラー-東大ジャズ講義録・歴史編』。高卒のミュージシャンが東大で行った講義録。単なる好みによる薀蓄披露ではなく、音楽理論や歴史に十分に通じたJAZZの解き明かし的著作。講義もモグリも忍び込んだほどの人気を博したそうだ。私も読むだけではなく、家にあるピアノをちょっと叩いているのだが、何しろ「ドドレレミミレ・・・」の世界であるからして・・・。それでもコードを覚えるとかなりイイ雰囲気で弾けるらしいので、今ガンバッっている。夏に泊めていただいた「栗の木の家」のT氏は、50を超えてからクラシックに挑戦されたそうだ。背筋をピンと伸ばして、作務衣姿で弾くお姿はかなりカッコよかった。まだまだ諦めませんぞ。

 * * *

週刊新潮』今週号の渡辺淳一氏の連載コラムに「親友はいますか?」との記事があった。彼の経験として、年齢と共にいわゆる親友が減ったそうだ。親友とは何か?・・・まあ、この定義は人それぞれであろうが、私もふと考えた。私は付き合いはけっこう広い。ニッポンキリスト教のギョウカイはもはや辟易だが、幼馴染から、大学関係や、禅関係や、トレーニング関係など、いろいろなギョウカイに付き合いがある。これからまたクライミングなどにも手を染めようと言うワケだ。

が、しかし親友は・・・?確かに信仰関係ではかなり深く交われる兄弟姉妹も与えられている。しかし親友ではないかな・・・。むしろ彼らは共通の価値観を共有し、主イエスと言う共通のお方に仕え、そのお方をシェアし合いつつ、地上の生をも共有する、むしろ同士といった感覚かも知れない。そこで表現されるDr.Lukeはそれなりの"Dr.Luke"なのだ(私は基本的にどこでも同じですから、別に作っているわけではないのだが)。・・・と言った論調で渡辺氏も論じている。

で、最後に「年齢を取るにつれて、男は孤独になるようである。・・・それだけ男は可哀相と、と言えばそのとおりだが、いやいやひとつだけ癒す方法がある。それは身近に親しい何でも話せる女性を持つこと。妻でも彼女でもいい、好きな女性に思いきり本音を告げて、こちらの気持ちを分かってもらう。それが男の最後の親友かも知れない」と。う~ん、これは先の五木寛之の「林住期」に通じ、私自身も別の"Dr.Luke"を見出すことができるわけで、またまた微妙に賛同しているDr.Lukeがいるわけであります。(また突っ込まれるか・・・)

追記1:親友の意義とは、ユングの言う私の内なるアニムスの投影による発見であり、影の自分、つまり生きられなかった"私"の補償的追体験でもあるかも知れない。

追記2:大石内蔵助の孤独、そしてわが主イエスの孤独を想うとき、地上の幕屋はやはり仮住まいなのだ。ある禅の高僧が98歳にて、もう浮世狂言はやめたと、食事を絶って眠るように大往生したが、地上の幕屋を去る日に想いを馳せる。

忠臣蔵人物列伝其の弐

ファイル 524-1.jpg

私が心惹かれる人物に萱野重実(通称:三平)がいる。彼は浅野切腹の報告を早馬で江戸から赤穂まで4日で伝えた。萱野家は元々は美濃国出身の旗本の大島氏に仕えていたが、父親の主人大島氏の推挙で浅野家に仕えるようになった。松の廊下(ではないと言われている)での刃傷により浅野切腹の後、三平は大島家に仕官するように父親に求められるも、二人の主人に兼ね使えることに対する葛藤と同士への配慮に堪えかねてついに切腹して果てる。享年28。彼は名のある俳人でもあり、辞世の句は

 晴れゆくや日頃心の花曇り -涓泉

森村誠一の『大忠臣蔵』ではお軽と恋に落ち(ルーツは『仮名手本忠臣蔵』らしい)、忠義と恋愛の狭間で苦悩するやさしき心根の人間三平像が描かれている。

彼の生涯を見る時、大石らに比較すれば決してカッコウがいいとは言えない。むしろ負け犬かも知れない。が、運命的な家系に生まれ、二君を得てしまった悲劇、さらに二つの価値観あるいは情に引き裂かれた人間的苦悩。これは私たちクリスチャンが地上において、日々経験する葛藤ではないだろうか。

主は「二君に兼ね仕えることはできない」とし、「わたしよりも父や母を愛する者はわたしにふさわしくない」とまで宣言される。二心は神に決して受け入れられない。人間中心(ヒューマニズム)が蔓延する軟弱な現代的キリスト教界からはまさにカルトだと糾弾されることであろう。しかし主ご自身のお言葉である。

ここにあるのは魂的な愛情や価値観を十字架で処理すると言う学課。死と復活を経ていないものは、人間的にはどのように美しくまた価値があろうとも、神の前では肉のものに過ぎないのだ。この点で主はけっして妥協されない。私たちにとって、十字架における御霊による御言葉のメスでの霊と魂の分離手術が必須なのだ。

現代の教界のあらゆる問題のルーツはこの分離手術が欠落している事である。表面的なあれこれの対処法、いわゆるノウハウ物などはまったく無意味である。その意味でこのギョウカイ、今後もキーワードは混乱、否、ますます増長することだろう。そして三平の運命を歩む者が多く出るだろう。

省みるに、私自身の内なる萱野三平。彼に心惹かれる理由は、実は彼に私自身を投影する故なのだ。ある意味、自己憐憫かも知れない。が、信仰にとって自己憐憫は癌のようなもの。日々、切り裂かれること-三平の悲劇から守られる道はこれのみだ。

 道ひとつ 二心の わがうちに 断ち切られまほし 萱野三平 -一石

追記:極楽の道はひとすぢ君ともに阿弥陀をそへて四十八人 -大石内蔵助

本日の一冊

ファイル 513-1.jpg元わが同僚の副島隆彦氏の『歴史に学ぶ知恵 時代を見通す力』(PHP)。ここでも副島氏については何度も紹介しているが、彼はニッポンがアメリカの属国であるとし、サブプラ問題よってドルが危機に陥る事を何年も前から予言していた。さらに預金封鎖もあり得ることを唱えている。彼は70年代後半にソ連の崩壊を予言したアノ小室直樹氏の弟子であり、共に尊皇攘夷を愛国者であるとする。

本書で彼は、日本人精神の系譜には南宋時代の文天祥の「正気の歌」にあると指摘する。ファイル 513-2.jpgこの歌が維新以降の日本の精神の礎となり、終戦まで脈々と生きていた。この歌が中世・近世・近現代の日本史を動かしたとする。一言で言えば「思想の大義に従って生きること」。もちろんそのためには死も覚悟する必要がある。かくしてこの精神は前に紹介した吉田松陰をして「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」と言わしめる。しかし開国以来、アメリカの対日戦略にとっては邪魔な思想体系であったわけだ。

かくして原爆を落とされて軍事的去勢を受けたニッポンはひたすら金(マネー)に踊らされる自由市場経済民主主義を金科玉条としてひた走ったわけだが、挙句の果てバブル崩壊で経済的去勢を受けて、今や何らの背骨もなく、クラゲの如く漂う国家と成り果てている。二代に渡って政権を投げ出す首相をいただく国家。学級委員長を選ぶような首班選挙戦。そこに登場する人物は「防衛オタク」に「漫画オタク」、さらには「色物」に、虎の威をいただく「坊ちゃん」。ただひとり渋い存在がおられるが、「党が党にる」お方。甲状腺ガンのオペの跡が痛々しい。

「金で女も人の心も買える」と豪語した豚が、自分の身体と同様に贅肉で膨らませたライブドアの参謀だった宮内氏は1年2月の実刑判決。この事件が背骨を抜かれたクラゲ国家の究極的象徴かも知れない。また事故米の拡散はあたかもサブプラ問題における債権の拡散と同じ。どこまで広がっているかの把握すらできない。三島由紀夫の予言どおり、極東に空虚な大国がフナフニャとして・・・。ニッポンキリスト教も信徒の数を増やすことがすべてとなり、クソミソ一緒。まことに山谷さんも指摘されるとおり(→少佐のBlog;私もコメントを入れています)。

副島氏は「正気の歌」における「義」とは何かを考え続けるとしている。それは日本人の「正義」とは違うし、「仁義」と言うとさらに分からなくとも・・・。古の孔子は「天」を深く信奉し、「天」との関わりで地上の徳をとらえていた。すなわち「義」とは「天との正しい関係」である。しかも「羊」と「我」が一つになることが「義」そのものである!地上の水平方向だけでは決して「義」は成就しない。「我」の上に「羊」があること-これが「義」の本質である。・・・と私は副島氏に御注進したいところではある。

「今」を読み解くために、日本の近現代について、ひとつの一貫した歴史観を与えてくれる書ではある。

本日の一冊

ファイル 503-1.jpg現代ニッポンの碩学渡辺昇一氏による『「パル判決書」の真実』(PHP研究所)。戦後のニッポンの命運を決定した東京裁判が、国際法から見ていかに茶番であったか、パル判事の判決文を詳細に読みこなしつつ解説する。パル判事については前にも触れた(→記事)。東京裁判が事後法による「勝者による裁き」だったことはよく言われているが、何と裁判の法源がマッカーサーの「チャーター」によるものだった。つまりマッカーサーによる即席の「極東軍事裁判所条例」に基づいていた。しかも後ほど(1951年)、マッカーサーは自ら公式の場で「したがって彼ら(日本人)が戦争に入った目的は、主として自衛のために余儀なくされたものである」と証言しているのだ!つまり国際法に根拠のない自作の「極東軍事裁判」の"判決"を、自ら否定しているのだ。自己欺瞞を抱えた国家アメリカの分裂した自我の症状である。

そもそもパルは勝者も裁かれるべきであるとして、例えば市民への原爆投下の責任を問うている。もちろんアメリカはホオカムリなわけだが。かくして唯一法源が明確である正統な判決はパル判決であるとする。つまり「すべての罪状は無罪」!ところがWGIP(War Guilty Information Program)によって、自虐的方向へとMCされている戦後ニッポン人は、正邪の識別力を放棄し、さらにはそのアイデンティティをも喪失して、クラゲの如く浮遊するだけだが、そのルーツが東京裁判であると渡辺氏は指摘する。するとニッポンキリスト教の病理もここにあるかも・・・。要するに私の言うアメリカによる<政治的去勢>→<軍事的去勢>→<経済的去勢>の結果である。

結論として、渡辺氏は、真にニッポンが自立国家となり得るためには、東京裁判史観からパル判決史観へと脱皮する必要があると指摘する。なるほど。歴史・政治オンチの私にも納得できる主張である。

ちなみにこのマッカーサー証言は小堀桂一郎氏の提供によるものだとのこと。小堀氏については前にも触れたが(→記事)、実は私が駒場時代にドイツ語を習った先生なのだ。いやあ、懐かしいお名前。現在までマッカーサー証言はマスコミでもほとんど扱われていないが、これは戦後20万人にのぼる人々が公職追放され、その後釜に座ったいわゆるサヨク連中がアメリカの逆鱗に触れることを恐れたため、と氏は指摘する。このニッポンもアメリカの病理が伝染した形で、自我の分裂状態にあるが、まさにサヨクの欺瞞はその表の病理であろう。(私の史観は精神病理史観であることを繰り返しになるが断っておく。)

嗚呼、かくして安倍氏も、福田氏も、日本男児の魂を喪失して、この体たらくなわけだ・・・。この国、やはり一度徹底的にダメになる必要があるでしょう。ニッポンキリスト教も一緒に・・・。

本日の二冊

ファイル 469-1.jpgファイル 469-2.jpg一冊目は前に紹介した『石の扉』や『操られた竜馬』の著者加治将一氏の続く作品『幕末維新の暗号』。皆さんは右の写真をご存知でしょうか?維新の有名キャラが一堂に会した謎の写真。これについては従来から真贋についても議論があるのですが、今回加治氏は丹念に一人ひとりを追っていく。そして見えてきたものはメーソンの影・・・。さてさて、しばらく楽しめます。ちなみに西郷隆盛はどこにいるか分かります?上野の西郷さんとずいぶん違うわけで・・・。

ファイル 469-3.jpg二冊目は元わが同僚の副島隆彦氏の思想劇画『仕組まれた昭和史-日中・太平洋戦争の真実-』。副島さんはここでも何度も紹介しているが、今回は日本の昭和史をロスチャイルドとロックフェラーの覇権争いのダイナミクスで描き出す。

政治の世界では、何事も偶然に起こるということはない。もし何かが起こったならば、それは前もって、そうなるように謀られていたのだ。-フランクリン・D・ルーズベルト

秘密主義というまさにその言葉は、自由で開かれた社会にとって、非常に不快なものです。そして、私たちは元来、歴史的にも「秘密結社」の「秘密の誓い」と「秘密の議事録」に反対した民族といえます。-J.F.ケネディ

個々の人生、諸々の社会現象、そして人類の歴史は人間の心から生み出される。そこに諸霊の関わりが生じている。しかし、同時に神の指紋、すなわち神の主権が印字されている。-Dr.Luke

で、明日はオープンキャンパスのため、これからレイトショーへ。

追記:前にミステリーサークルがネタばれして、ひとつ夢が消えたと書いたが、うれしいことに、夢がひとつ増えました。元NASA宇宙飛行士が、政府は宇宙人の存在を秘匿している、と証言したそうです。これはオモシロイ!
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080725-00000095-jij-int

本日の二冊

また八王子で歪んだ自己顕示欲による通り魔殺人。「親も話を聞いてくれないので、大きな事件を起こせば、自分の名前がマスコミに出るようになると思った」と。アキバ事件の後、この種の事件が続くから要注意と、ここでも、大学の講義でも警鐘を鳴らしてきたが、残念ながらその通りになった。今の世の中、屈折して汚れた病的エネルギーが抑圧されているのだ。どんな形で、いつ噴出すか、これは誰も予測できない。ニッポンキリスト教などもすでに臨界点を超えている。

 * * *

ファイル 464-1.jpg一冊目はベンジャミン・フルフォード氏の『騙されるニッポン』。大手マスコミがいかに真実を書かないか、その理由が分かる本。要するに出しても良い情報だけが操作されて私たちに提示されているわけだ。つまりフェイク。私は以前から現代は壮大なフェイクを見せられているかもしれない、と言ってきているが、まさにその通りであると分かる。フルフォード氏はフォーブス時代、年俸2,000万を保障されていたが、当局の意向に沿った提灯記事だけを良心に反して書いており、自分が腐っていくのが分かったそうだ。数年間の葛藤を経て、ついにフリーとなる。

この人の証しを読むと、実に実直な人であると分かる。彼自身も美人局による罠に落ちそうになった経験もあるようだ。色仕掛けと脅迫が、スパイの定石。実際、ニッポンの外務官僚や自衛隊員が中国のシカケによって何人も堕ちている。同時に命の危険にも絶えず直面しており、そのストレスは相当であろうと推測する。やや感情的に脆い部分があるのはそのためであろう。しかしサムライです。

ファイル 464-2.jpg二冊目は植草一秀氏の東京拘置所内での渾身の書き下ろし作『知られざる真実-拘留地にて-』。小泉政権下のニッポンの問題を実に詳細に指摘する。私が疑問に抱いていた事の真相が語られており、実に貴重な資料でもある。また同氏が痴漢とされた一部始終が書かれており、これを読むと同氏の誠実さが切々と伝わって来る。そして警察や検察の捜査と取調べがおかしいことが証拠と証言をもって裏付けられている。痴漢は当局の意図にそぐわない者のクレジットを落とし、かつ排除するのに実に絶好のシカケである。この本を読んで私的な植草氏シロ度が90%までに上がった。

しかし正直に言って、今、アメリカの深層で起きていることは実に怖いことなのです。ここでもずっと以前から指摘してきていますが、同国の二重構造にそろそろ気が付くべきでしょう。米国の本質は今後ますます露骨に現れて来るでしょう。同国によって、政治的去勢、軍事的去勢、経済的去勢、そして今、教育と情報システムの去勢を受けつつあるニッポン。クラゲのように時々の風の流れにフラフラ漂うだけの大衆。私はすでにこの国に対しては神の裁きの御手が置かれるフェイズに入っていると感じている。

道元の「有時」と華厳経

下に紹介した物理と仏教のサイトにあった、華厳経の現代訳を紹介しましょう。道元の『正法眼蔵』はここでも何度も紹介していますが、「有時の巻」にも相通じます。

微細なる世界は大きい世界であると知り、大きい世界は微細なる世界であると知り、
少しの世界は多くの世界であると知り、多くの世界は少しの世界であると知り、
広い世界は狭い世界であると知り、狭い世界は広い世界であると知り、
一つの世界は限りない世界であると知り、限りない世界は一つの世界であると知り、
限りない世界は一つの世界の中に入ることを知り、一つの世界は限りない世界の中に入ることを知り、・・・
限りなく長い時間はほんの一瞬であり、ほんの一瞬は限りなく長い時間であると知り、・・・
異なる時間の中に異ならない時間があることを知り、異ならない時間の中に異なる時間があることを知り、限りある時間は限り無い時間であると知り、
限り無い時間は限りある時間であると知り、無量の時間は一念であると知り、
一念は無量の時間であると知り、一切の時間は無時間に入ることを知り、無時間はあらゆる時間に入ることを知ろう・・・

要するに仏典とは元々、自然あるいは世界をどう認識し、どう関わるかを提示する。ある意味で認識論のひとつなのだ。その際私たちの心が映す映像(世界モデル)を正確に構成しないで、自分の欲や野心で歪むことにより、苦が生じると言うわけ。その世界が無知蒙昧。偽りの世界(→Mr.Sugarの記事参照)。道元も<今、この時>の瞬間に生きること、すなわち<前後裁断>を提唱している。物理的には<今、この時>はまさにディラックのδ関数であり、それに対する反応がインパルス応答(グリーン関数)であり、人生はこのたたみ込み(convolution)なのだ。

悩み多き人は、インパルス応答の時定数が長く、いわゆる「尾を引く」人であり、自由を得ている人は、この時定数が短く、前後が裁断されている。それは「後ろを省みず、前を慮らす」の生き方。そして私たちの神は、永遠の"AM"である。まさに永遠の現在なる方。この方のうちに安んずること、これが私たちの人生である。かつて山谷少佐が指摘されたように(→記事)、「禅の真理契機を完成するキリスト」なのだ。キリストこそまことの実存、ディラックのδ関数の実体であり、その方に対する応答の畳み込みこそが、私たちキリスト者の「生」と言える。

本日の一冊

ファイル 424-1.jpg三島由紀夫とアンドレ・マルロー』。う~ん、これは一気に読んでしまった。三島由紀夫アンドレ・マルロー。社会との関わりでは対比的なこの二人の取り合わせが面白いが、時代はニッポンとフランスで、ユングの言うシンクロニシティーが起きていたのかも知れない。とりあえずマルローについては自分で読んでいただくこととして、三島について―。

三島は「などてすめろぎは人間となりたまいし」と呻き、マルローはニーチェの「神は死んだ」世界にレジスタンスとして生きた。共に「神」を喪失していたのだった。三島についてはここでも何度も触れているが、それは私の内なる三島由紀夫が共鳴しているからだ、とこの本ではっきりと分かった。

このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなってその代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである。

この「無機的な経済大国」が私の言うニッポンである。

外国の金銭は人らを走らせ、もはや戦いを欲せざる者は卑劣をも愛し、
若人らは咽喉元をしめつけられつつ、怠惰と麻薬と闘争に
かつまた望みなき小志の道へ羊のごとく歩みを揃え
魂は悉く腐食せられ、清純は商われ、淫蕩は衰え、
ただ金よ金よと思いめぐらせば、人の値打ちは金よりも卑しくなりゆき、
大ビルは建てども大義は崩壊し、その窓窓は欲求不満の蛍光灯に照り輝き、
血潮はことごとく汚れて平和に澱み、
ほとばしる清き血潮は枯れ果てぬ
かかる日に、などて・・・

とつながる。まさに閉塞した今日の霊的真空地帯ニッポンの様である。

そして三島は「武士道といふは、死ぬことと見つけたり」の『葉隠れ』と『陽明学』に傾倒していく。著者は指摘する、「『葉隠れ』とは不思議な書物で、実践論として読むと、これほど具体的で面白いものはないのだが、ひとたび観念論で捉えると、極めてファナティックに見えてくる。戦前軍国教育に利用されたのも、その危険な陥穽を示している」と。三島はその知的世界において、『葉隠れ』を自らの「生」そのものとして読んだのだろう。それは「主体的死」は死ではなく、むしろ新生を意味するからだ。

彼の心底は「たしかにニ・ニ六事件の挫折によって何か偉大な神が死んだのだった」と、すでに11歳の時に感じている。同時に彼は何と空飛ぶ円盤に関心を深めるのだ。さらに霊的世界に没頭する。それもニ・ニ六事件の英霊に、である。その気持ちも大いに理解できる。彼にとってそれらは、ニッポンと対峙する苦痛から逃れ、一抹の心の安らぎを得る場だったのだ。

時代の欺瞞性を指摘する彼にとって、実は敗戦後の欺瞞に満ちたニッポンに生きた彼の「生」そのものも、「私の中の25年間を考えると、その空虚に今さらびっくりする。私はほとんど『生きた』とはいえない。鼻をつまみながら通りすぎたのだ」と独白する。さらに「それほど否定してきた戦後民主主義の時代25年間を、否定しながらそこから利益を得、のうのうと暮らして来たということは、私の久しい心の傷となっている」と、自らの「生」を自己欺瞞と断じる。

ファイル 424-2.jpgかくして『憂国』において、若き近衛歩兵武山信二中尉の切腹とその妻の殉死のエロス的耽溺美を描いた。それは、実は、彼自身であったのだ。彼がボディビルに入れ込んだのも、単に肉体性の追求ばかりではなく、実は自分を真の「神」なる存在へと供するためであった。その死をもって彼は自分の生を証明したのだ。

ファイル 424-3.jpg1970年、あの日の事は、虚無感に呻吟し、その窒息感の中でのたうちまわっていた中学3年の私にとって、実に新鮮な驚きだった。「こんな生き方があるんだ!」と。が、時を経て、まったく意図せざるも私は真の神を見つけ、この肉体をその方に供することができれば、何というエクスタシーであろうかと夢想している。しかし三島はこの方を見出し得なかった。私と三島はほとんど似ていて、しかし間一髪の違いで、私は、今、ここに、こうしている。

しかし実に惹かれるのだ、三島由紀夫的生き方。彼が古式に従って、綺麗に腹を切ることができたことに、少なからぬ嫉妬を覚えている。いつか、私も自らこの「主体的死」へと入りたい。

追記:思うに三島は「神」が人になったことで「生」の意味を喪失した。対して私は神が人になったことで「生」の意味を獲得した。それは実に僅差なのだ。

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