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セレブライブの代わりに

22日のLIVEは公開できませんでしたが、ちょうど同じテーマを扱ったメッセージがありましたので、紹介しておきます。私たちのマインドに構築された敵の要塞を落とす鍵は

わたしたちの戦いの武器は、肉のものではなく、神のためには要塞をも破壊するほどの力あるものである。わたしたちはさまざまな議論を破り、神の知恵に逆らって立てられたあらゆる障害物を打ちこわし、すべての思いをとりこにしてキリストに服従させ、そして、あなたがたが完全に服従した時、すべて不従順な者を処罰しようと、用意しているのである。-2Cor 10:4-5

アメリカの空気

ホワイトハウスの“Countering Violent Extremism”と題する会議の開催はモスレムによる祈りから開始されたと。

一方、聖書を信じることは解雇されるリスクがあると。

時代は神に拒絶された者と受け入れられた者の相克の時代。霊的領域におけるカインの霊とアベルの霊の相克がこの時空間に現出し、実体化されているのだ。地獄のポータル(門)があちこちで開いている。よく神の国を現出させるとはどのようなことか?と聞かれるが、今の逆の状況を見てみれば理解できると思う。私たちは天のポータル(門)として神の国を現出させる必要がある。

わたしはこの岩*1の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。-Matt 16:18

*1:これはペテロのことではない。ペテロのイエスを神の子とする告白だ(1John 5:5)。

どなたと同一視するか

十字架は全宇宙の歴史の転換点だ*1。旧創造を負われたイエスはそこで旧創造の不条理をすべて引き受け、苦しみの中で死なれた。その苦しみはわれわれが知る由もない。神の独り子だけが与り得る苦しみである。しかし、イエスは聖霊により復活した。このとき私たちも復活した。この復活の領域は新創造の領域であり、あらゆる旧創造の不条理から解かれている領域である。イエスが地上におられたとき、あの地において限定的に現された神の国が全地球において現出する。神の国は私たちのうちに聖霊によって生きている。

そこで病の癒しについても言えるが、自分をどなたと同一視するのかがポイント。自分の葛藤や苦しみや病や罪からの解放を求めて、苦しんでいる十字架の主と同一視するのか(=アダムとの同一視)、勝利にあって復活され、天に座しているお方と同一視するのか(=第二の人との同一視)。私たちはすでにその方と共に天に座しているのだ。

よく言われるキリスト教のセリフに「十字架に戻れ」とある。これがけっこう曲者なのだ。しばしば、そこで苦しまれているキリスト、すなわちアダムと同一視してしまう。実際は十字架は旧創造がすでに終わったことの保証であり、その後に復活があることを思いこさせる場なのだ。私たちは自我に死のうとする必要はない。すでに死んでいる!ポイントは復活したキリスト、その方と同一視するとき、まことに神の国のいのちと力を味わうことができるのだ。サタンも手の出せない領域。罪の赦し、病の癒し、貧困からの解放、豊かな人生を堪能できる。

愛する者よ。あなたが、たましいが繁栄しているようにすべての点でも繁栄し、また健康であるように祈ります。-3John 1:2

*1:もっと言えば、切断面と言える。

日々キリストにありて

ファイル 4761-1.jpg


ニール・アンダーソンによる黙想


 もし子があなたがたを自由にするのであれば、あなたがたは本当に自由となるのである(ヨハネ8:36)。

 信者の人生における束縛と自由のコントラストは、次のうまくいった相談者の男性からの手紙にきれいに描かれている。

 親愛なるニール
私の情緒的な問題はおそらく子供の頃に経験したホラー映画やオイジャ・ボードなどに起因していると思えます。映画「ドラキュラの血」を観た後、悪魔的力が襲ってきたことを覚えています。
私の父は癇癪持ちで、時に怒りを爆発させていました。私はその状況を生き延びるために、彼を怒らせたことの責任が自分にあると自分を責めていました。自分の気持ちを押し込めている状態が私の生き方になりました。大人になってからもすべてにおいて自分を責め、自分の欠点や不運を嘆きました。
 そしてキリストを私の個人的な主また救い主として受け入れました。私はその後の数年間は霊的に成長しましたが、完全なる平安を味わうことはなかったのです。常に神との関係に疑惑がまとわりついて、神が何か遠くて厳格な存在としてしか感じられなかったのです。祈りにも、聖書を読むにも、牧師のメッセージに注意を傾けるにも抵抗がありました。人生の目的について深刻な疑問があったのです。夜、叫んで目覚めるような悪夢を経験したりもしました。
あなたと一緒に祈った時に、私はようやくキリストにある自由を見出しました。今、聖書を読むとき、前とは違って理解することができます。より積極的な態度を築け、主との関係も完全に変わりました。それ以来、悪夢を見ることもありません。

 私はすべての霊的問題が悪霊の直接的働きによるとは言いません。しかし、あなたは世に働いている悪霊の力を軽視したり否定しているために束縛されているのかもしれません。キリストにあるあなたの嗣業は、御言葉に約束されている完全なる自由の基礎なのです。

 霊的ダチョウにならないように、敵の策略とあなたの真理に注意を払うように、今日、助けてください。

おことわり

本日のセレブのLIVEはきわめてプライベートなミニストリーの性質のため、公開は控えます。よろしくご了承ください。

ある親子の会話

父:「子よ、あなたは何が欲しいのか?何でも求めなさい」。

子:「御心のままに」。

父:「だから、欲しいものを言ってみよ」。

子:「私は自我を十字架で砕きます」。

父:「そうではなく、具体的に欲しいものを求めなさい」。

子:「私は自分を否みますから、私の信仰を認めてください」。

父:「あなたはわたしの子であり、わたしの持っているものはすでにすべてあなたのものなのだ」。

罪と病気

下のご意見から伺えるとおり、罪と病気の問題はきわめてセンシティブな部分がある。イエスは、ある盲人に対しては、本人の罪でも親の罪のためでもなく、神の栄光が現れるためと言われた。ベテスダの池の病人に対しては、これ以上罪を犯さないように、悪いことが起きないように、と言われた。

原則として言えることは、死はひとりの人の罪によってもたらされた(Rom 5:12)。すなわち病気もアダムの罪による。イエスは十字架で人類の罪と病を負われ、否、罪とされ(2Cor 5:21)、病を知られた(Isa 53:3)。そしてその打ち傷により、私たちの罪は赦され、病は癒された(Isa 53:5)。私たちはアダムにあって生まれ、生きてきたが、ある時、イエスと共に十字架でアダムにある自分が死に、キリストにある自分が復活したと知った。さらに私たちは新しい創造とされた。問題は、この身体がまだ旧創造に属していること。その中には罪(Sin)が住んでいること。ゆえにこの身体は病気を抱えるし、罪も犯す。そこで問題は、私たちにとっては、あなたの罪はすべて赦されていると宣言することは容易だが、あなたの病気はすべて癒されていると宣言することは困難なのだ。何故?後者は目に見えることだから。

Bill Johnsonが受けている非難に(彼に対する批判や非難は相当のものがある。一部のニッポンキリスト教徒からの私への非難に匹敵するかもだ・・・)、彼自身メガネを必要としているし、息子も補聴器を必要とする難聴ではないか、とするものがある。彼もそれは真実に認めている。なぜ、他人は癒せるのに、自分と息子は癒せないのか?回答は、不明、だ。私たちには分からない。英国のKingdom Faithでも、わが師であるJohn Mckayはガンで死亡した。Colin Urquhartは胃ガンになったが、10年経っても健在だ。なぜ?・・・分からない*1

目に見える現象としては、癒されない人もいるし、綺麗に癒される人もいる。しかし、極私的には、病気の人に対しては手をおいて祈ることを淡々と続けたいと願っている。それは機会がよくても悪くても御言葉を語り続けることと同じ。御言葉を聴いた人がすべて救われるわけでもないが、聖書には淡々と種まきをせよ、とあるからだ。私たちには誰が癒される/癒されないは不明であるし、誰が救われるか/救われないかも不明だ。主は多分言われていると思う:主権者はわたしであるから、あなたが知るべきことではないと*2。ただ御心はすべての人が救われ、癒されることであることは否定できないと思う。

*1:ひとつヒントになる聖句がある。創世記28:16(Gen 28:16)でヤコブは、神の家ベテル、天の門に神がいるとは気がつかなかったとある。神は常に共におられるのに、私たちは気がつかない、当然神の声(レーマ)を聴くことができない。あらゆる場面におられる神(I AM)に気が付くかどうか、これは大きな差を生み出す。信仰は自力で絞り出すものではない。神の声レーマを聞くことから生まれるのだ。
*2:私は医学の介入を否定するものではないので、注意されたい。人間の裁量権に任されている部分は相当にあると考えている。神学用語を弄すれば、「一般恩恵」として。

病気は神の賜物だから感謝して受け取りなさい

と教える人々がいるとのこと。ある集会の証の本に、「病気の癒しを祈ってはならない、悪霊が働くから」と書いてあるのを見て目が点になったことがある。この人たちは異言も悪霊によるとしているらしい・・・・。要するに病気の中で自分の十字架を負って主の造り変えの御業を受けることが大切ということのようだ。彼ら的にはこれがいわゆる聖化の過程なのだ。うーっむ。

つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。-Acts 10:38

悪魔に苦しめられて人たちをすべていやされた!これは悪霊に憑かれた人のこと?ここの「いやされた」は"iaomai"、Strongによれば"heal, make whole"とある。健やかにされることだ。イエスはあるときに方針を変えられたのだろうか?ヘブル書には、昨日も、今日も、永遠に変わらない、とある。

わたしは自分にかけて誓う。わたしの口から恵みの言葉が出されたならばその言葉は決して取り消されない。-Isa 45:23

いじめっ子にいじめられて人格が錬られることを恵みとすることはあり得ないように(ニール・アンダーソンの黙想参照)、私たちは不当ないじめっ子には立ち向かうべきなのだ。

ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。-James 4:7

いじめられっ子メンタリティーからマインドのトランスフォーメーションにより解放される必要があるのだ。これは病気だけではない。人間関係の束縛、貧困、逆に富の誇り、世のプライドなども同じ。あらゆる妨げから自由にされて神の国の豊かさを享受するためだ。

追記:次のような証もある。死を間近にした少女が天使のタッチを受けて癒されたと。映像も・・・。


追記の追記:ある読者の方からこの記事について次のような指摘を受けましたので、ご意見として掲載させていただきます。個人的な情報は抜いております。

さて、本日の病気に関する記事について、気になることを書かせてください。
病気に対しても受動的であることは避けねばなりませんが、現在病気をかかえておられる方が、あまねく受動性による不信仰の結果だと受け取りかねないような論旨になっている気がします。

いじめの話ですが、現場で多くのいじめを見聞きし、それに対応してきた者としては、いささか違和感を覚えます。
現在のいじめは非常に複雑で、簡単に立ち向かえるようなものではないし、それを病気と重ねて論じるのも、重なる部分はほとんどありません。
また、いじめの経験を通して、加害者も被害者も傍観者も、またそれに関わる第三者も、成長することはたくさんあります。まさに人格が練られるわけです。
私も子どもたちがいじめいじめられる姿を見ながら、いろんなことを教えられてきました。
まさに深刻ないじめの渦中にいる子どもをお持ちのご家族は、記事を読まれるだけで、どのような手段や方法をもって、いじめっ子が不当ないじめに立ち向かえるのかという絶望感を覚えられる気がします。

どうも癒しとかいじめの問題はかなりセンシティブなトピックであることは否定できないようです。私の論はきわめて単純化しておりますので、ご了承ください。

受動性の罠

下のコメント欄にCissacさんが書いておられるが、「自我を砕く」とか、「主を見上げる」とか、「みこころのままに」とかいった標語は一見敬虔に見える。が、これらはきわめて曖昧なのだ。自我を砕くってどういうこと?多分、話している本人も分かっていはない。「みこころのままに」とかになると、しばしば自己責任を回避するために言われる。受動性の罠。主イエスの言葉はこうだ:

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。
またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。-John 14:12-13

主は癒しを行われる際必ず「あなたはわたしに何をしてほしいのか」とたずねられた。主よ、お分かりでしょうに!とは言うべきではない。主が回答を求めておられるのだ。はっきりと、これこれをして欲しいです!と申し上げたら良い。が、これができないのだ。魂が問題に絡め取られてがんじがらめになっている人や、何度も神に求めたのにそうならないと神に失望している人などは特にだ。声が出せない。祈りが出ない。思いが束縛されている兆候だ。

私たちは求めることが怖くなることがある。なぜか、神が回答してくださらないことをあらかじめ想定して、自分が傷つくことを避けようとしているからだ。期待しなければ、傷つかない。こういったメンタリティーの人は多いし、私自身もそのような要素を感知している。そこで十字架によって自分を否む必要があるのだ。すなわち御言葉の約束に従って大胆に求めること!これが自分の十字架を負うことだ。それは自己を完全に神に委ねること。are you with me? やせ我慢して、武士は食わねどの態度を取ることではない。わたしに何がしてほしいのか?求めよ、求めよ、求めよ 今日でも主はそう迫っておられる。

"The Language of Heaven"

どうもこのrevelationは最近の流れのようだ・・・

霊の世界と物質の世界

再建主義の富井氏が実に興味深い記事を書いている:

tomii 2015/02/20(金)16:51

御言葉にしか頼れない

クリスチャン、とくにわれわれは、教えによって、心が聖められているので、悪霊が住みやすい状態になっている。

いろいろと雑念があって、物欲とかが強い人はまだ心の中にゴミがたくさん残っているから悪霊も住みにくい。

しかし、クリスチャンはいったん掃除して、整理整頓されている。
つまり、考え方が整理され、しかも「神の国のために戦うぞ」という戦闘態勢にあり、「それ用に」できあがっている。

だから、主人が変わると、新しい主人が利用しやすい空間になっている。
それは、戦車のようだ。

敵の戦車を奪って中に入ろうとしたが、いろんなものが雑然と置かれていて動きにくいし、自分用に改造されていて使いにくいとなれば、その中に入ることをためらう。

しかし、整然と整備され、きわめて簡単な操作で動くとなれば、敵も奪いがいがある。

だから、神学的な知識があり、世界が透けて見えれば見えるほど悪霊が入りやすい状態になる。

イエスが述べたように、「掃除がされていたので住み着いた」とある。

「しかも、仲間の7つの悪霊を連れてきた」と。

「最初の状態よりも悪くなった」と。

だから、神学的な知識を得て、理解力がアップしたら、その知識を用いて「理性的に」対処しないと悪霊にやられる。

私は、この体験を積んでいるから、みなさんにご忠告申し上げる。

私は、ほぼ発狂するところまで行ったことがある。

ソ連においてである。

まだ神様に頼るということを知らないころだ。

ガタガタ歯がなった。

「精神病になるなあ」と無性に悔しかった。

ぎりぎりのところで神は救ってくださった。

そのほか、「イエスの御名により命じる。悪霊よ、われより出で去れよ!」と祈ったときに、「ちくしょう!」という声が聞こえたことがある。

それはものすごい敵意に満ちた地獄の声であった。

ある教会に所属していたころ、朝の祈祷会によく来る老齢の教会員がいた。

彼は、職場で知り合った若い女性を教会に誘って礼拝に出た。

そのとたんに、その女性が精神病を発病してしまった。

霊媒体質の人は、霊が入りやすい。他人よりもちょっとしたきっかけで入る。

とくに女性は、子供を産む働きを与えられているので、体の構造だけではなく、精神的にも「受け」やすい。

霊的な世界に触れると、その影響を受けやすい。

経験上、男性の場合、人の顔の表情、目の動きなどに女性ほど敏感ではない。

塾や予備校の講師を長年務めていて、女子生徒のほうがこちらの気持ちの変化に敏感である。

表情だけで察知する。

男子は、ぼんやりしている。そういうことに興味がないようだ。

女性は、それだけ「受ける」情報に敏感で、察知する能力が高い。

「この人どこかおかしい。」「すがすがしい」「気持ち悪いものを感じる」というような言葉が比較的多い。

霊媒師に女性が多いのは「受ける」能力が高いからである。

しかも一般に、男性よりもまじめであり、心が宗教的である。

礼拝のような霊的な体験をすると、それがきっかけでいつも狙っていた変な霊がチャンスとばかりに入るのであろう。

霊を受けやすく、霊的な世界の知識が増した人は、正しい知識によって正しく対処しないと悪霊に翻弄されることになるので注意が必要だ。

正しい知識に基づく正しい対処の方法とは、「一喜一憂しない。パニックにならないで、聖書に基づいて理性的に問題を取り扱う」ということ。

悪霊は過去の体験、トラウマを餌として利用する。

恐怖を与えようとする。

引きずりまわしたいと思っている。

そうされないためには、「御言葉の約束に頼る」ということである。

「自分の考えではなく、御言葉に頼る」。

心配事があれば、「感謝をもって捧げる祈りと願いによってあなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」。

「そうすれば、人事を超えた神の平安があなたをキリストにあって守ってくださる」。

超自然的な守りを受けるには、「感謝をもって祈りと願いをささげること」である。

そして、何かの目標を作って、その実現のために仕事に没頭する。

余暇ができると、サタンが入る隙ができやすい。

常に「一歩上の目標を持つ」。

達成した段階で満足するのではなく、その上にチャレンジする。

過去の出来事が頻繁に思い出されるのは、悪霊に利用されているからである。

「すべてを善に変えてくださる」神に頼って、忘れることである。

(2)

悪霊は「常に」隙を狙っているので、われわれも「常に」警戒するべきだ。

自分の心を正しく管理できるようになれば、安定する。

しかし、その技術を身に着けるまでは動揺することがある。

なぜならば、神が用いようとする人は、「人間的な自信を奪われる」からだ。

頼るものがなくなる。

人間関係、学力、仕事の能力、家族、仲間、友人、国家、その他が崩壊する。

神が選んでいない人にこれらのことが起きると、絶望しかない。

しかし、神に選ばれている人は、聖書の御言葉に頼るようになる。

この「頼っていたものが崩れる」という訓練を経過しないようならば、その人は本当の意味においてクリスチャンにはなっていない。

神に依存することを学ぶならば、悪霊はそう簡単には入れなくなる。

人間的な信頼は、サタンの餌であり、われわれにとっては隙である。

ここからどんどんとサタンは入ってきてわれわれの内部を破壊し、ぐちゃぐちゃにする。

御言葉にしか頼れないのである。

ここで重要なことは、私たち霊が再生され、聖霊が内住しているクリスチャンには悪霊が憑く、つまりpossessionすることはない。possessionとは所有権を悪霊が有する状態で、意志までコントロールされてしまう。しかしクリスチャンも悪霊の影響、oppressionは受ける。それは思い(mind)を通して圧迫される状態。不安、緊張、思い煩い、強迫観念、妬み、嫉妬・・・。これにより感情は犯され、当然、意志も影響される。富井氏は自分の意志で「イエスの名により悪霊よ、出よ」と命じているので、possessionされていたわけではない。

女性が霊の影響を受けやすいという指摘も面白い。女性はもともと受動的容器の性質があるからであろう。受動性は実に危険な兆候なのだ

ともあれ、御言葉のみに頼ること。これはまことに同意。というより、御言葉に啓示された世界がリアリティなのだ。目に見えるいわゆる"現実"はリアリティではない。目に見えない実体を信仰によって把握し、語り出すとき、それは御言葉のリアリティをこの物理的時空間に現出させる。そもそも霊の再生、神の内住などはスーパーナチュラルな現象。ニコデモが人はどうして歳を取ってからもう一度生まれることができようかと言ったとおりだ(John 3:4)。さらに新創造!?新しい生命体?ニュー・クリエーション!?

かくして私たちはいわゆる目の前の何かを楽しむこと、これはこれまで私が十分に味わってきたことだが、にとどまらないきわめてディープな世界を知るべきなのだ。それは神の深み創造主の深み!まず自分がそれを知らないことを知ることからその冒険は始まる。

私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。
・・・
まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」
神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。-1Cor 2:7-10

続・語り出された言葉の力

イエスは嵐に向かって「静まれ!」と命じた。唖の霊に対しても同じ。さらには死んでいるラザロに向かって「出て来なさい!」と命じた。これが理解できなかった。言葉は所詮空気の振動であろうに。空気の疎密波が何ゆえに嵐を静めたり、病気を癒すことができるのか?

最近、ようやくこの謎が解けた。つまり、言葉は肉体の声帯から発せられるが、それを意志したのは魂(soul)、特にその思い(mind)。さらに人は心に信じていることを語るゆえに、マインドにそうさせたのは信仰であり、霊(spirit)なのだ。そして信仰とは実体(Heb 11:1)。目に見えるものは目に見えないものからフレームされる(Heb 11:3)。かくして音波としての言葉ではなく、それが発せられている霊が、霊的世界に実体として、いわば波動を生むのだ。これがこの時空間に現出する。

私は精神医学あるいは心理学の立場から魂(知・情・意)を理解していたが、魂は実はもっと深い世界とつながっている。鈴木大拙の『禅と精神分析』の中に柳生但馬守の逸話が紹介されている。ある春うららの日、お小姓を連れて桜を眺めていたところ、ふと背後に殺気を感じた。振り返ってみると、お小姓が控えているだけだ。はて、あの殺気は何だったのだろうか・・・。但馬守は疑問が消えず、ずっと考え込んでいた。心配したお小姓が尋ねると、「先ほど殺気を感じたのだが、正体がわからんのじゃ」と。するとお小姓は真っ青になって、「申し訳ございません。殿が桜に見入っているとき、さすがの剣の達人でも、今、切り込んだらよけられまい、と思ったのです・・・・」と。これを聞いて得心した但馬守は満面の笑みを浮かべたと・・・。

こういった分野をパラサイコロジーと呼ぶが、現在、表のサイコロジーではタブーの領域。旧ソ連では超能力者による軍事目的の実験もされていたようだ。ところがイエス自身も律法学者たちが心の中で思ったことを霊で見抜くのだ(Mark 2:8)。つまり霊は思いに感応する。もっと言えば、思ったことは信仰の実体と等しいのだ。女を情欲をもって(=思う)見ることは姦淫の行為に等しいとイエスは言った。霊的世界では「思うこと」と時空間に現出する「現象あるいは事象」は同じものなのだ。だからバベルの塔を建てようとした人類の思いを妨げることはできないと神は言われた(Gen 11:6)。

かくして思い(mind)は霊のアッシャー(案内係)となる。思いがブロックされていると霊もブロックされる。御言葉を語り出すとき、霊から発せられないと力(dunamis)はない。霊から発せられた言葉には力があるのだ。それは大声を出すとかの問題ではない。神がこの時空間に介入されることを願っておられるのは明らかだが、私たちの思いがそれを妨げている。このゆえに、神の業が現出するためには思いがトランスフォームされる必要があるのだ。思いが霊に服し、あるいは思いの霊が浸透するとき、信仰の霊によって把握された実体は思いを通して語り出される(2Cor 4:13)。するとそれが時空間に現出するのだ。

主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の霊を吹き入れられた。人はこうして生きる魂となった。-Gen 2:7

魂と霊の相互作用は、ここに始まったが、堕落の結果、魂だけを肥大化させ、特に思い(知性)が霊を抑圧してしまったのだ。ニンゲンの悩みの原因はすべてこの思いによる。私たちの思いの中にキリストの思い(1Cor 2:16)が反映されるとき、天的思考(Kingdom Thinking)が行われ、それは神の思いそのものであり、また神の信仰を孵化する。これが私たちの霊において私の信仰となり、信じたことを語り出すとき、神の信仰による実体をもたらすのだ。それは神の言葉と等しい。ゆえにcreative miracleも十分に起こり得る。なぜならイエスはそれをしているからであり、私たちも同じ業をなし得るのだ。WOW!!!私たちの霊と魂(特に思い)のポテンシャルはこれまでの私の理解をはるかに超える領域に広がっているようだ。

主はこう言われる。創造者、主、すべてを形づくり、確かにされる方。その御名は主。
「わたしを呼べ。わたしはあなたに答え、あなたの知らない隠された大いなることを告げ知らせる。-Jer 33:2-3

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