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Category: 信仰

安息の神をエミュレートする

私たちは神々だ、と今回のメッセで語った。多分にキリスト教神学のオツムにとっては挑発的だろうと思う。このメッセを聞いて、私の言質を取ったとし、批判や非難、さらに中傷を始めるむきもあろうと思う。が、私は聖書の言葉をそのまま語っているだけだ。今更ながらニッポンキリスト教を相手にするつもりはないが、心ある人々のために一言。

そこで、イエスは言われた。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。・・・」-John 10:34-35

神をエミュレートする者となりなさい。-Eph 5:1

私にとって、生きるとはキリストであり・・・。-Phil 1:21

エクレシアはキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の充満です。-Eph 1:21

See? 私たちはキリストのいのちの霊を吹き込まれた新しい創造、新生命体、ニュークリーチャー。それはキリストの充満であるエクレシア。よく読んでほしい<エクレシア=キリストの充満>。<エクレシア=召し出された者たち>、<召し出された者たち=われわれ>。ならば、<われわれ=キリストの充満>。われわれとは誰か? キリストの充満である!

エペソ5:1もよく「神に倣う者となれ」と訳される。神をマネする? できるわけなかろう!それはサルがニンゲンのマネをするようなもの、いのちのレベルが異なるのだ。キリスト教徒が神のマネをする。これこそ滑稽であろう。この単語は"mimétés"、語源は"mimeomai"。その意味は"imitate"あるいは"emulate"。ここでは前者よりも後者がよい。神をエミュレートせよ、と言うわけ。

神はアダム系の私たちをキリストと共に終わらせ、復活させた。聖霊によるいのちを吹き込まれた。私たちの霊は神から生まれた神属の霊。それは罪を決して犯さない。かくして私たちは新創造とされた。はあ? 自分は自分で何も変わっていないですが・・・。こう言う人は騙されている、自分の感覚によって。感覚ではなく御言葉に書いてあることが真理。

メッセでも語ったが、これはちょうど、Windows用のPCにおいてMacのiOSを走らせるようなもの。これをエミュレーション(Emulation)と言う。ハードウエアはWindowsだが、中身はMac。まさにWindowsマシンがMacを体現している。これと同じことが私たちにおいて起きているのだ。われわれのボディと魂(Soul)はアダム系にあって生まれた。その存在に神はキリストの復活のいのちを吹き込まれ、私たちの中でキリストを生かす。キリストをエミュレートするのだ。そのキリストのうちには父が生きており、ジーザスは人であったが、父なる神の言葉を語り、父なる神のわざをなされた。ジーザスご自身が父なる神をエミュレートしたのだ。ゆえに、わたしを見た者は父を見たと宣言された。

神が肉において現出されること―これが「godlinessの奥義(1Tim 3:16)」。ジーザスはそれをデモンストレーションされた。同じことが私たちにもできると言われる。

わたしを信じる者はわたしと同じわざをなし、それよりも大いなるわざをする。わたしが父の元に行くからである。-John 14:2

神は人間性において表現される。なぜ? 人は神の形に創造されたゆえに。人はその実質として内に神を生かす、あるいは神をインストールされるべき存在。そして人間性において神がエミュレーションされるのだ。もっと言えば、ジーザスは父のコピー、エクレシアはジーザスのコピーである。こうして神は人間性において自己増殖されるのだ。言ってみれば、世の者ではないジーザスがわれわれのうちにインプラントされ、われわれも世の者ではない存在とされた。すなわちエイリアンとしてこの地球上において自己増殖する。こうしてサタンが不法占拠しているこの地上において神の国を増殖、繁栄させるのだ。しかもこうある:

神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっていたのです。-Heb 4:3

ここも天地の基が置かれたとき、それはすなわち受胎したときであり、その時にすべては完成していた。これが時空間の時系列に現出しているだけ。その完成されたみわざに休むこと。これがフェイスである。罪の赦し、病の癒し、必要の満たし、そして勝利など、すべては安息にある。だから安息の神をエミュレートせよと奨められているのだ。

ジーザスはこのミケランジェロの絵の指先のギャップを埋めてくれたのだ!

TODAY'S CELEBRATION 【Jun 12, 2016】

ルーク唐沢

タイトル安息の神をエミュレートする

聖書個所:ヘブル4:3;ヘブル3:14;エペソ5:1;ピリピ1:21など

6月19日のセレブ

 ・場所:エスカル会館2F会議室
 ・時間:1300-1700

WebKingdom Fellowship

YouTubeDr.Luke's Kingdom Fellowship Channel

ApplePodcast:Kingdom Fellowship Celebration

セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショッピングにてどうぞ。

全国有名書店で発売中

イエスの誕生と死、そして復活が意味するものは何か?最初の人類アダムとエバの“失楽園”、ノアの箱舟、モーセによるエジプト脱出・・・数々の映画のテーマにもなる聖書の奇跡とイエスの生涯に新しい光をあてる。それらは現代人のわれわれとどんな関係があるのか?神は今もなお生きて働かれるのか?それを経験する鍵は?人類のロングセラー「聖書」の世界をよりあざやかにリアルなものとする挑戦的な書。

●面白い口コミがありました:聖書は既読ですが、モーゼが杖をついたら海が二つに割れたり、イエスが一つのパンで何百人の人を養ったりと、神話的な話として読んでいました。この本を読んでからは、神話や伝説ではなく、リアリティとして感じられるようになりました。
Amazonにて:Dr.ルーク先生には、勇気や元気を貰えます! お話を聞いたり、ご本を読むうちに「キリストの本質」が学べます。何年教会へ通っても理解出来なかったことが、数か月で分かる感じがしました。キリストは死んだ「宗教」ではない、フェイスそのものです。人生観が変わります。

十字架は究極の脱力

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うーん、気持ちがイイ。力を抜いて千メートルほど。その後、露天のジャグジーで。とにかく気持ちがイイ。いつも思うのだ、なぜ泳げない人はおぼれるのだろう? ぼくには溺れる方が不思議。

フェイスも同じ。十字架は死と復活のサブスタンス。罪と死の法則からいのちの御霊の法則への転換。自我を砕きぃ~とか叫ぶクルシチャンたちは力が入っており、もがく、すると沈む。叫べば叫ぶほどドツボにはまる。

水と同じで、力を抜けば浮かぶ。その法則に乗るコツを得た人には、逆に沈むのが難しい。あえて沈めば25Mくらいは潜水できるが、それは不自然で苦しい。 死は究極の脱力。脱力すればあとは自動でいのちの御霊の法則が働く。死が働くとき脱力、それは安息。それはフワッと天へと引き上げてくれる。

十字架って、重荷でもないし、もがきでもないし、苦しさを我慢することでもないし、自我を砕きぃ~とかヒステリックに叫ぶことでもないし、ましてや病気や 貧困を耐え忍ぶことでもない。十字架はすべての病を癒し、われわれを豊かにしてくれる。しかもそれは軽い。なぜ? 究極の脱力だから。

キリスト教のマトリックスから解かれよ。フェイスの法則は霊的サイエインス。脱力すること、こんな安楽な道はないのだ! 老子の言う無為自然の道。まことにジーザスこそ道だ。

Directed Rest―積極的安息

静まって、わたしこそ神であることを知れ。-詩編

Directed Rest。ブレインと聖書の啓示。聖書はサイエンスの先を行ってるのだ。

老子も言う:
塞其兌、閉其門、終身不勤。開其兌、濟其事、終身不救。
見小曰明、守柔曰強。用其光、復歸其明、無遺身殃。是謂襲常。

<その兌(あな)を塞(ふさ)ぎ、その門を閉ざせば、終身勤(つか)れず。その兌を開き、その事を済(な)せば、終身救われず。小を見るを明と曰い、柔を守るを強と曰う。その光を用いて、その明に復帰すれば、身の殃(わざわい)を遺す無し。これを常に襲(よ)ると謂う。>

【大意】人間が受けるもろもろの誘惑は身体の穴からもたらされる。その五感をふさげば(積極的情報遮断)、心は消耗せず、目に見えない明(真理)によって歩めば身に災いを招くこともない。これが常(普遍)の道に従うことだ。

まことに現代は一方ではストレスによる緊張を求められ、その反動で穴の欲望を垂れ流しにする時代。緊張を緩和するための垂れ流しによって、人の精神はぐだぐだに弛緩し、新鮮な感動も感激も喪失するのだ。真に安息した者は自由に活動するエネルギーに満たされる。ディレクテド・レスト―いい言葉だ。

聖書はサイエンスの先を行っている。

Mary Hopkin―Turn,Turn,Turn

何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
生まれる時、死ぬ時/植える時、植えたものを抜く時
殺す時、癒す時/破壊する時、建てる時
泣く時、笑う時/嘆く時、踊る時
石を放つ時、石を集める時/抱擁の時、抱擁を遠ざける時
求める時、失う時/保つ時、放つ時
裂く時、縫う時/黙する時、語る時
愛する時、憎む時/戦いの時、平和の時。
人が労苦してみたところで何になろう。
わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。
神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。―伝道の書(ソロモン)

Dr.Lukeのワンショット―フェイスはレスト

リバタリアン主義の躍進!?

 20160607-2.jpg

この記事は要注目だ。

-ヒラリー氏・トランプ氏不人気、リバタリアン党に注目

リバタリアン主義はラッシュドゥーニーの再建主義の影響を受けている。小さな政府と税負担を軽くし、自己責任論を強調、時にはミリシアもあり得る。レーガンもその影響を受けていたが、そのリバタリアン党が脚光を浴びつつあるようだ。今は、なんとなく消去法的な印象であるが、これまでの民主党も共和党もウンザリしているところがホンネであろう。1%が国家の70%の富を独占する社会って、どうみても正常ではない。

その再建主義の富井氏がこう言われている:

tomi 2016/06/06(月) 13:14

日本人が一発屋を目指すプレ・ミレに惹かれることはない

1.
・・・
日本人は、目標を達成するために努力を惜しまない民族である。
こつこつやるから、最終的に世界で日本製品が独り勝ちしてきた。

2.
・・・
結局、こつこつ努力して力をつけた人が勝つのだ。
他人の収穫を当てにするような人は、最終的に負ける。
品性が卑しくなるので、まともな人が寄ってこない。
こういう人は、人生の敗北者である。
こういう人の集まる国や文化は、いつまでも第三世界から脱出できない。

3.
ポスト・ミレは「努力による文化建設」を目指すが、プレ・ミレは、「他人の果実を得ることによる文化建設」を目指す。
ポスト・ミレは、「紀元70年に、世界はイエス・キリストの御国になった。だから、クリスチャンが努力すれば、必ず世界は徐々にクリスチャンのものになる」と信じる。
プレ・ミレは、「世界は悪魔のものだ。だから、イエス・キリストの再臨に頼るしかない。今の世界で努力しても無駄だ」と信じる。
どちらの思想で子供を教育したいと思うだろうか。
どのまともな親が、自分の子供に「地道な努力を嫌い、他人の恩恵にすがる」人間になってほしいと思うだろうか?
ポスト・ミレは、こつこつ努力する日本人に合っている。
日本人が、一発屋を目指すプレ・ミレに惹かれることはない。

彼が言うように、AD70年にイエスが再臨し、黙示録の19章までは成就したのであれば、黙示録はAD70年以前に書かれている必要がある。これについてはすでに論駁しているが()、どうも私の印象では、富井氏のスピリットは敬意を表するに値するが、彼が経験した"ディスペンセイション主義"がそもそもおかしいのではないかと思うのだ。主は死と復活を通して天地のすべての権威を得たのだ。が、現在はサタンが世を不法にも支配していることは事実(1John 5:19)。そこで、主はその地を奪還せよ、統治せよ、全地に福音を述べ伝えよ、と命じられた。

今は来たるべき千年期の前味わい。なぜなら、私たちの体が依然として旧い創造であり、それは神の国に入ることできないからだ(1Cor 15:50)。現経綸では私たちの霊が神の国のリアリティーに触れ、私たちの魂と体を通して、神の国のサブスタンスがこの物理的領域に現出する。こうして地を得ていくのだ。すでに既出であるが、富井氏と小生の旧約と新約の理解をシェマティックにまとめておく。

20160607-3.jpgなお、申命記8章32節(Deut 8:32)に「神々の数に従って地を割り当て、主(YHWH)にはヤコブが割り当てられた」とある。これは地が神々(Elohim)に分配されたわけ(先に紹介した"THE UNSEEN REALM"の論題)。この地をYHWHへと奪還すること、そして救いを受ける異邦人の数が満ちるとき(Luke 21:24)、主は再臨される。その後に、ミレニアムが到来するのだ。ゆえに私たちには神の国を増殖することにより、再臨を早める義務がある(2Pet 3:2)。

そしてそもそも努力なる単語はフェイスと反するではないか。

人間を豊かにするのは主の祝福である。人間が苦労しても何も加えることはできない。-Prov 10:22

フェイスはスーパーナチュラルのパワー(デュナミス)を解放する。すべては内にいますキリストの恵みによるのだ。

神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。-1Cor 15:10

どうも再建主義は五感の領域のことと霊的領域のことを混同している感がするのだが・・・。ああ、またあまり指摘するとアナテマされるので、この辺でsealed 繰り返すが、富井氏の姿勢は大いにリスペクトしていること再確認しておきたい。

本日の一冊-THE UNSEEN REALM

20160607-1.jpg

立派なPH.D.保有者の書いた本書。聖書は人生論とか、道徳論とか、宗教の本ではない。それは霊的領域のリアリティーを明らかにする。霊的サイエンスなのだ。時代はスーパーナチュラルへの開眼、つまりフェイスの覚醒! Amazonで注文した。ちょっと楽しみだ。

I Exalt Youを二つのバージョンで・・・

ひざまづきたくなる・・・・

Dr.Lukeのワンショット―十字架って何でしょう?

宗教マトリックスからの解放、もうクルシチャンやるのは十分ですよね♪

米国Jesus CultureVs.英国Kingdom Faith

Kim Walker Smithは実にCool。サウンドもヴォイスもキレがよく、音がよく抜けている。対してKingdom Faithでは個人の名前を前面に出しての活動はしていない。要するにいわゆるプロではないのだ。ただし、バックでペットを吹くラウル・ド・オリベイラはかつてドリカムとツアーを組んでいた。彼らもステージの前にはみんなで手をつないて祈るのだ。

Dr.Lukeの一言映画評―『復活』

ハリウッドにジーザスをテーマにした作品が多々あるも、この視点からの描かれたものはないかもだ。復活が意味すること。人は死者の復活というこれまでのパラダイム(マインドの構築した世界観)に反する事態に対して、いかなる反応をするのか。すでにジーザスは復活した。この事実を妄想とするのか、偽りとするのか、それとも自分のパラダイムを否定して事実とするのか。要するに福音とは、自己を否むこと、自分の十字架が要求されるのだ。

しかし、復活は単に事象としての奇跡で終わらない。ただ単に「われはキリストの死と復活を信ず」と唱えても、それは宗教に過ぎない。が、神はキリストの死と復活により新しい創造を生成した。神は新人類、すなわち新生命体(ニュークリーチャー)を生み出したのだ。そのわき腹から流れた血と水、そして聖霊によって新しく生み出された存在、つまりエクレシア。エクレシアとはキリストの充満(Eph 1:23)。邦訳によくある「キリストが満ちておられる”ところ”」ではない。キリストご自身の充満!それはキリストのいのち(Zoe)そのもの、新生命体だ。

キリストは復活された週の最初の日の晩に弟子たちに現れ、ご自身の息を吹きかけて言われた。聖霊を受けよ、と。それは復活のいのちそのもの。アダムは神の息を吹き込まれて生ける魂とされたが、弟子たち、つまりエクレシアは第二の人類の初穂であるキリストの息を吹き込まれ、そのいのちの充満とされたのだ。これがニュークリーチャー。われわれも時空間(五感の領域)を超えて、キリストと共なる死と復活にあずかり、その新しい生命に参加させられている。十字架は単に歴史事実だけではない。神はすべてのみわざを永遠のNOWにおいてなされる。なんというミラクル!ハレルヤ!

わたしたちはバプテスマによってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。-Rom 6:4

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