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Category: 信仰

Rooftops―Kim Walker Smith

これ、なかなか気に入った。英国のKingdom Faith Chruchでは個人が名前を前面に出して活動することはない。あくまでワーシップ・チームとしてだ。この辺はややコマーシャリズムの強いアメリカならではかもしれない。しかし、イイですね。"I AM YOUR'S"と・・・。

彼らはJesus Cultureとして活動しているが、彼らの母体であるBethel ChurchのBill Johnsonなどもカルト扱いされ、JCも異端・カルトと非難されている。まあ、これだけ目立つと、嫉妬や妬みの対象ともされることは運命かもだが、やはりイイものはイイのだ。

老子第五十三章

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使我介然有知、行於大道、唯施是畏。大道甚夷、而民好徑。朝甚除、田甚蕪、倉甚虚。服文綵、帶利劔、厭飮食、財貨有餘。是謂盗夸。非道也哉。-老子第五十三章

我をして介然として知有らしめば、大道を行くに、ただ施(ななめ)なるをこれ畏れん。大道は甚だ夷(たい)らかなるも、而も民は径(こみち)を好む。朝 は甚だ除(きよ)められ、田は甚だ蕪(あ)れ、倉は甚だ虚しきに、文綵(ぶんさい)を服し、利剣を帯び、飲食に厭(あ)き、財貨は余り有り。これを盗の夸 (おご)りと謂う。道に非ざるかな。

大道を行けば安らかに生きることができるのに、民は小賢しい脇道を行きたがるもの。こうして世は道を外れ、卑しくなるのだ・・・が、大意。

そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ/汚れた者がその道を通ることはない。主御自身がその民に先立って歩まれ/愚か者がそこに迷い入ることはない。-イザヤ書

老子の説く道(タオ)の実体(サブスタンス)はジーザス。

わたしは道である。羊はわたしを通して出入りし、牧草にありつく。-ヨハネ福音書

 

TODAY'S CELEBRATION 【Jun 04, 2016】

ルーク唐沢

タイトル新しい言葉を語れ

聖書個所:詩編1:2-3;申命記30:19;マルコ16:17など

6月12日のセレブ

 ・場所:エスカル会館2F会議室
 ・時間:1300-1700

WebKingdom Fellowship

YouTubeDr.Luke's Kingdom Fellowship Channel

ApplePodcast:Kingdom Fellowship Celebration

セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショッピングにてどうぞ。

全国有名書店で発売中

 また在庫が切れた模様。入荷まで3-5週間要するようです。

イエスの誕生と死、そして復活が意味するものは何か?最初の人類アダムとエバの“失楽園”、ノアの箱舟、モーセによるエジプト脱出・・・数々の映画のテーマにもなる聖書の奇跡とイエスの生涯に新しい光をあてる。それらは現代人のわれわれとどんな関係があるのか?神は今もなお生きて働かれるのか?それを経験する鍵は?人類のロングセラー「聖書」の世界をよりあざやかにリアルなものとする挑戦的な書。

●面白い口コミがありました:聖書は既読ですが、モーゼが杖をついたら海が二つに割れたり、イエスが一つのパンで何百人の人を養ったりと、神話的な話として読んでいました。この本を読んでからは、神話や伝説ではなく、リアリティとして感じられるようになりました。
●読書メーター感想:読んでも意味がわからなかった聖書がなんとなくわかった。聖書の読み方が変わった。

Our Worship―Let the Kingdom Come

Blog Archivesのお知らせ

このブログの記事でフェイス関係のものをアーカイブにしてまとめるページを設けました。適宜、こちらに保存していくつもりです。ご利用ください。

-BLOG ARCHIVES LISTS

 

アディクションからの解放はGODにアディクトすること

 

 

以下、私の説だが-

 

 

 

人はみな生まれたくて生まれたわけではなく、死にたくて死ぬわけではない。この自分の意志によらない二点をとにかくサバイバルするのが人間の実存的状況。エデンの園から追放されて以来、人はみなここに落ちた。が、そこにエデンの園の至福状態に復帰したいサブコンシャスの欲求を有しているのだ。いわゆる子宮復帰願望。

 

 

 

これを満たす切ない行動がいわゆるアディクション。子供の指しゃぶりから始まって、清原や飛鳥の覚せい剤、さらに、タバコもみな同じ。カネや地位や名誉への執着も同じ病理。が、それらは最後に人を裏切る。この世の神の支配だから。真の至福はそこには決してない! 創造主に戻ることこそがエデンの園への復帰なのだ。

マインドのデトックス

FBでも紹介したが、Dr.Caroline Leaf。ブレインの専門家。聖書はサイエンスの先を行っているのだ。

ポストミレvs.プレミレ

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今晩もまたニコラス・ケイジの『レフト・ビハインド』が放映されるようだ(⇒http://www.wowow.co.jp/pg_info/detail/108083/index.php?m=01)。 まあ、ノンクリスチャンの方にとってはトンデモ系妄想物語と思われると推察するところではあるが・・・。この作品はT・ラヘイらによる、ディスペンセイ ション主義に基づくシナリオ。つまりジーザスは千年期前に再臨され、エクレシアはさらにその前に上げられる、いわゆる前艱難期(ダニエルの最後の7年)携 挙説に立つ。これをプレ・ミレニアムと言う。

これに対して、すでに今は千年期であり、すべての国民が弟子とされた暁に、つまり地上にジーザスの国が司法的にも社会的にも経済的にも、自然法に基づくの ではなくモーセ律法によって確立した後にジーザスは再臨される、とする立場がある。これをポスト・ミレニアムと言う。アメリカでリバタリアン主義に影響を 与えているラッシュドゥーニーの再建主義が有名。

この二つの立場は黙示録をいかに解釈するかの差による。プレミレではフーチャリスト、つまり未来を予言してい るとし、ポストミレではプレテリスト、つまりすでに成就しているとする。なお、プレテリストにもパーシャル(今は千年期とする)とフル(今は新天新地とす る)があるが。とにかくマタイ24章やルカ21章の終末の様はAD70年のエルサレムの陥落を予言したものであると言うわけ。つまり黙示録の終末はすでに 終わっていると・・・。

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さて、ここで問題となるのが、黙示録の成立時期だ。ポストミレによれば、それはAD70年以前に書かれていなくてはならない。が、通常はヨハネの晩年、 AD90年代に書かれたとされている。ポストミレでは黙示録の"666"をネロと同定し(これは私も同意)、ネロが同書17章の6番目の皇帝であるとす る。よってヨハネが黙示録を書いていた時の皇帝であると言うわけ。つまり黙示録はAD60年代に成立したと。しかし、ここにトリックがあるのだ。カギはギ リシャ語の"επεσαν"の意味にあるのだが・・・、ここではこれまで。興味のある方はこちらをどうぞ!

・666の正体は?(⇒http://www.dr-luke.com/diarypro/archives/3033.html
・ポスト・ミレか、プレ・ミレか?(⇒http://www.dr-luke.com/diarypro/archives/4396.html

なお、携挙の時期については保留。小生も、希望的立場としては前艱難期を期待するところではあるが・・・。

カネに憑かれし者の末路

YAZAWAの発言って、何気に聖書とかぶる部分が多い。カネ自体に意味はないが、便利なものであると。ソロモンも言っている、

食事は笑いのためになされ、酒は命を楽しませる。金銭はすべての事に応じる」と。が、カネに憑かれるようになると人は卑しくなる。-Eccl 10:19

カネは結局、使 い方。ジーザスは言った、不正のカネを用いても友人を作れ、と。生き金にすること。舛添氏にしても、不起訴になった甘利氏にしても、かつて の10億を不正に貯めてた金丸氏にしても、自分の欲のために貯めるから卑しくなる。私もこれまでそんな卑しい人々をけっこう見てきた。

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かつてジョージ・ミューラーは何らの人間的組織も頼らず、フェイスのみによって、生涯に150万ポンドを動かした。19世紀の1ポンドを現在価値に置き換えると3万円ほど! 彼は自分のためにはまったく残さなかった。

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この二人の顔を比べてみてほしい。聖書ではカネはマモンと呼ばれ、霊的パワーを有するのだ。ついでに、YAZAWA。実にイイ顔している・・・。男は最後は顔で勝負だね!

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世の神に魂を売ることの結果

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この記事は実に面白い。魂を悪魔に売り渡した人物がいかなる状態になり得るのか。絵に書いたような末路を辿りつつある感じだ。

-「いつか要一は…」 疑惑だらけの舛添都知事の亡き姉の予言

それにしても東大法学部でNo.1、学生からも人気があり、あの900番教室を満杯にした伝説のスター助教授がこのような運命をたどるとは・・・。

更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」-Luke 4:5-7

JAVAとフェイス―ニュークリーチャーはいかに生成されたか

プログラミングの話が出たついでに、ちょっと昔の記事を紹介:

JAVAと信仰

●最近流行のプログラム言語にJAVA というものがあります。インターネットと相性がよくて、タイトル・ページの"KINGDOM FELLOWSHIP"と"DR.LUKE'S MINISTRIES"のロゴがキラキラと輝くのはJAVAアプレットによります(現在は変更)。JAVAはC言語を発展させて構造化を徹底させたいわゆるオブジェクト指向言語です。この言語の特徴が何だかとても聖書的なんですね。

●JAVAでプログラムを書くときには、すでに用意されているライブラリーの中にあるクラスファイルというものを利用します。これは例えばウインドウを開きたいときなど、誰でもが共通に使う部分はその用途ごとにクラス分けして、ちょうど半オーダーメイドの洋服の型紙みたないものが用意されているわけです。この型紙に自分のオリジナルな機能を付け加えて自分の目的にあったプログラムを書くわけです。このクラスに自分の機能を付け加えることを継承と言います。そしてできたクラスだけではまだプログラムそのものではなく、これを実体化してオブジェクト(実行ファイル)ができるのです。

●私たちはアダムにあって誕生しました。私たちが継承した罪(Sin)はアダムにあって人類に入り込んだのです。この罪(Sin)はいわばクラス(型)みたいなもので、これが実体化されて個々の罪の行為(sins)が生まれます。神の目から見てアダムの腰の中にいた私たちも、アダムが罪を犯したとき罪を犯したのです。え、私はその時にはまだ生まれてなかった!とは言わないで下さいね。神の目においてはアダムはすべてを含んでいたのであり、アダムの罪はその後の全人類の罪のいわばクラス(型)なのです。このアダムにあって入り込んだ罪のクラスが人類の歴史の中で実体化されて個々の具体的な罪々が行なわれるのです。問題は私たちがすでにアダムのクラスに含まれていることであり、あらゆる罪はその実体化なのです。

●そこで神の救いはアダムにある私たちをまず終わらせることから始まります。つまりアダム・クラスを削除するのです。そして私たちをキリスト・クラスに復活させるわけです。こうして死と復活をとおして、私たちはクラス(血統)の入れ替えがなされます。こうしてニュークリーチャーが生成されました。このときキリストにある私たちには神の義が継承されるのです。これは誕生のクラス(系列)の問題なのです。ひとりの違反により全人類が罪人になったように、ひとりの義の行為により私たちは義とされるのです(ローマ書5章を参照のこと)。これを「同一視の原理」あるいは「包括の原理」と言います。神の目から見て、私たちはキリスト・クラスに属しており、キリスト・タイプ(型)の義が私たちの人生において具体的な形で義の行為として実体化されるのです。要するに信仰はすでに得ているクラス(霊的事実・真理)を実体化することです(ヘブル11:1)。よってアダムのクラスに属する人が努力してなすことではありません。神の国に入ることは、自分が生まれたクラスがどこであるか、つまり誕生の問題なのです(ヨハネ3:5,6)。このことを真に見ればクルシチャン(苦しちゃん)状態から解放されるでしょう!

●JAVAと信仰・・・思わぬところで思わぬ関係があると思いませんか?

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アイドルの危険性―霊的空虚を埋める存在

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女子大生アイドルがめった刺しされる事件が起きた。尋常ではない恨みを感知する。すでに霊的なものであると思われる。今週のメッセでも語ったことであるが、詩編139編にこうある:

神よ、わたしを究め/わたしの心を知ってください。わたしを試し、悩みを知ってください。御覧ください/わたしの内に迷いの道があるかどうかを。どうか、わたしを/とこしえの道に導いてください。-Ps 139:23-24

この「迷いの道」、新改訳では「傷ついた道」と訳されている原語は"otseb"、原義はアイドル、つまり偶像。さらにこの語源は"ehtseb"、その意味は地の器だ。要するに地の器を偶像にすること。われわれが受ける傷や労苦はみなここから生まれる。ある人を尊敬し(これはよい)、さらに崇拝する。すると相手に対する期待値が高まり、相手に投影する。そこで自分の期待とわずかでもそぐわないとき、裏切られたと感じる。これが傷だ。今回のアイドルのめった刺し事件もここから起きている。また会社や組織のために忠誠を尽くす。そのために家族や自分を切り売りしてまで組織に魂を売る。これが傷を生む。そもそも労苦自体が傷となるのだ。

主の祝福が人を豊かにする。主は人に何も労苦を加えない。-Prov 10:22

この世はすべからくバビロンのシステムである。人間は罪のために神から切り離されて以来、自分の労苦でいのちの糧を得て、自分でこの人生のサバイバルする努力を求められるようになった。神によって地が呪われ、労働も喜びの営みではなく、自分を切り売りする労苦となったのだ。嫉妬に狂ったカインがアベルを殺して後、エデンの東に逃げ、彼の子孫は家畜を飼う者、音楽を奏する者、青銅や鉄を鍛える者となった(Gen 4:20-22)。現代文明である食料、娯楽、技術の祖である。サタンはそこに自分の組織を打ち立てた。これがこの世(Cosmos)と呼ばれる体系。その中核がマネーだ。マネーを制する者はこの世を制する。これが現代の人類の普遍かつ不変のパラダイム(と、思わされているだけ)。が、これはマトリックスだ。何度も指摘するがマネーは元々幻想。それはない!

このようなシステムにおいては、人は力のある者を頼りとし、媚びる。今、WOWOWで放映中の山崎豊子の『沈まぬ太陽』において、親友であった恩地と行天の人生は分かれていく、一方は自分の心に真実、他方は自分の心と友を裏切ってまで上司に魂を売る。名画『ベン・ハー』のジュダとメッサラの運命と共通する要素がある。これらの現象はすべて偶像がなし得るもの。霊的に死んでいるとはいえ、人には何かを礼拝したい、そしてその存在に自分を委ねたいという根源的欲求が存在する。だから宗教が次々に登場する。一説では日本の宗教法人の会員数は1億を超えるとか!? しかし、この世の神は人を持ち上げて、最後には人を落とす。神の形に創造された人を貶めることは究極的に神を貶めることだからだ。まことに悪魔はジーザスにすら、私を礼拝すれば、世のすべての栄華を与えると唆したのだ

この世はすべてフェイク。それは浮世狂言。踊る者と踊らされる者、それぞれの役割を忠実に果たすことにより、この世のシステムは万端難なく回っていく。それに異議を唱える者は危険分子とみなされる。その中で人々は自分を委ねることのできる究極の存在を探して彷徨っている。否、その意識はないかもしれないが、そのサブコンシャスのレベルにおいては常にそれを求めているのだ。ここから種々の宗教、そしてカルトが生まれる。カルトの意味は元々は「礼拝」である。まことにその道から離れ、永遠の道に入る者は幸いである。

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