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Category: 信仰

内的レボリューション-境界線からの解放

2016年、動乱の年との幻を得たことは昨年書いた。まことに火山、マーケット、地政学的状況、あらゆる領域において揺るがされている。

まことに、万軍の主はこう言われる。わたしは、間もなくもう一度天と地を、海と陸地を揺り動かす。-Hag 2:6

各人は自分の内的パラダイム、あるいは世界観に従って生きている。が、それは五感の情報に基づいて、自分のマインドが作り出したものにすぎない。各人が持っている"リアリティー"なるものは、ブレインが生み出したもの。つまり幻想、フェイクなのだ。思想や哲学はもとより、サイエンスにしても、それは自然の像にすぎない。絵かきは絵画なる媒体によって自然を記述するが、サイエンスでは数式によって表現する。表現メディアの相違にすぎない。ヴィットゲンシュタインは、言語は世界の像だといったが、そのとおり。数学も言語なのだ。

かくして善悪を知る知識の木の実を食べて以来、これまで人類が自らの五感とマインドを駆使して構築してきた世界のパラダイム、映像が、今日次々に崩壊しているのだ。多くの人びとが揺るがされるであろう。何を当てにして生きて良いのか混乱するだろう。自分の依って立つ存在がメルトダウンする時代。いかにこの時代をサバイバルするのか?明確に言うが、スーパーナチュラルな生き方がマストの時代なのだ。五感やマインドによる生き方はもはや無理なのだ。スーパーナチュラルな生き方ってなに?・・・もちろんフェイスだ。あえて言うが、日本語の信仰ではない。日本語の世界観、パラダイムがフェイスを阻害する。日本語で考えるな、理解するな、わかったツモリになるな。

フェイス、つまりピスティスに覚醒せよ、そしてそれを使え!使徒信条を告白していれば大丈夫的な人々は振い落とされるだろう。数年前から言っているとおり、ふるい分けの時代なのだ。フェイスってなに?

フェイス(定冠詞なし)とは望むことのサブスタンス、見えない事柄の立証である。-Heb 11:1

聖書はちゃんと定義してくれている!勝手な"信仰"の道を歩む者は失望するだろう。言っておくが、それはフェイスではないから!フェイスによる世界観、パラダイムを再構築される必要があるのだ。それは内的なレボリューション。すべての事柄は心から生まれる。

Keep thy heart with all diligence; for out of it are the issues of life. -Prov 4:23

この"issue"と訳されたヘブル語の意味は出口とか境界線の意味。私たちが世界観を構築する作業は境界線を設けることによる。もっとも基本となるのは自己と他者の境界線。内的パラダイムもこの境界線に基づいているのだが、これを引き直す必要があるのだ。否、フェイスにおいては境界線などはない!フェイスはすべてを一瞬で、つまり時空を超えて把握する。霊的領域のサブスタンスを瞬時に見るのだ。あなたが自分で境界線を引けば、あなたの経験をその領域に閉じ込めるだけ。それ以上には飛躍できない。フェイスは境界線を引く必要などはない!なぜ?それは神の領域の現象だから!繰り返すが、

フェイスに覚醒せよ、そしてそれを使え!

注:人はなぜ境界線を設けるのか。それは自己防衛のため。自分が期待し得る領域にあらかじめ線引きして(保守的な予算を立てるようなもの)、失望を感じたくないから、あるいは傷を受けないためだ。要するに恐れの霊、臆病の霊のなせるわざなのだ。フェイスに境界線はない!けだし、信じる者にはすべてが可能である!

チャレンジ

あなたがたの中に、病んでいる者があるか。その人は、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリブ油を注いで祈ってもらうがよい。
信仰による祈は、病んでいる人を救い、そして、主はその人を立ちあがらせて下さる。かつ、その人が罪を犯していたなら、それもゆるされる。
だから、互に罪を告白し合い、また、いやされるようにお互のために祈りなさい。義人の祈は、大いに力があり、効果のあるものである。-James 5:14-16

この聖句、果たして医学やサイエンスが十分に発展していなかった当時ゆえのことだろうか?すると神のことばは時代によって適用するべき部分とそうでない部分があることになるわけ?

あなたは聖書がそのまま神の霊感によって書かれた永遠の神のことばであると信じるか?

 

 

TODAY'S CELEBRATION 【Feb 07, 2016】

UPしました。

-Kingdom Fellowship Podcast

タイトルフェイスのアクティベーション

聖書箇所:エペソ2:1;ヨハネ3:5-6;ローマ6:5;2コリント5:17など

2月14日のセレブ

 ・場所:エスカル会館2F会議室
 ・時間:1300-1700

WebKingdom Fellowship

YouTubeDr.Luke's KF_Channel

セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショッピングにてどうぞ。

全国有名書店で発売中

 
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イエスの誕生と死、そして復活が意味するものは何か?最初の人類アダムとエバの“失楽園”、ノアの箱舟、モーセによるエジプト脱出・・・数々の映画のテーマにもなる聖書の奇跡とイエスの生涯に新しい光をあてる。それらは現代人のわれわれとどんな関係があるのか?神は今もなお生きて働かれるのか?それを経験する鍵は?人類のロングセラー「聖書」の世界をよりあざやかにリアルなものとする挑戦的な書。

●11月に一般の100書店に配本され、2月に別の100書店に配本されます(⇒書店リスト)。また紀伊国屋では1年間常備されます。書店に直接注文していただけますと在庫を増やしてくれますので、よろしくです。こちらの注文表をお持ちください。なお、銀座教文館、ことば社、バイブルハウス青山などもいれているようです。

●面白い口コミがありました:聖書は既読ですが、モーゼが杖をついたら海が二つに割れたり、イエスが一つのパンで何百人の人を養ったりと、神話的な話として読んでいました。この本を読んでからは、神話や伝説ではなく、リアリティとして感じられるようになりました。

パウロの肉体のトゲ-マインドのアンロック

パウロは第三の天に引き上げられた。そこで見た幻を誇らないために、肉体にトゲが与えられた*1。彼は三度も祈ったが、あなたの弱さにわたしの恵は十分であるとの声を聞いた。そこでよくこの箇所をして、パウロですら祈ってもその病が癒されなかったのだから、神は病気をあえて癒されないことがあるのだ、とするむきがある。そこで私は提案したい。このトゲを罪に置き換えたらいかがであろうか?高ぶらないように私の肉体に罪が与えられた。三度も祈ったが、あなたの弱さにわたしの恵は十分であるとして、神はその罪を赦されなかった。罪によって彼の肉を誇らせないためである・・・

だれもが、はあ?であろう。そもそも肉体のとげって病気?私たちのマインドは何気に聖書に書いていないことを刷り込まれている。たとえば、イエスの誕生の際、3人の博士が捧げ物をしたと。質問。聖書のどこに3人の博士たちと書いてあるだろうか?さらに、イエスは貧困で育ったと大抵のキリスト教徒は思っている。質問。この博士たちが捧げた品物を考えてみよ。ゴールドに没薬に乳香。いずれも高級品。彼らは手でもって歩いてきたのだろうか?違うであろう。彼らはらくだに宝箱を乗せてきたのだ。ゴールドはどれほどの量であったろうか?100グラム?イエスは一枚織りの下着を着用していた。なぜ、ローマ兵はそれを破らなかったのか*2。上着は破って分けたのだが・・・。われわれのマインドにキリスト教が刷り込んだものはフェイクであると、ちょっと自分の立派なオツムを使えば分かること。

聖書は聖書で解くこと。トゲはしばしば敵の意味である(Num 33:55)。パウロはそれは私を打つサタンの使いであると明言している。病気が使者?このように何気に刷り込まれた価値観やイメージなどがマインドを専有していると大胆な癒しの祈りが成し得ない。わずかな不信仰のパン種が膨らんでしまうのだ。マインドがアンロックされ、これらのフェイクから解かれること。フェイスの覚醒のための第一関門である。

私たちは彼の打たれた傷によりゆるされ、かついやされた!

*1:原文の"sarx"はローマ書などで"flesh"と訳される単語、必ずしも肉体を指すだけではない。

*2:だいたいだれが人の着ていた下着(われわれのイメージとは異なるが)をくじ引きをしてまで欲しがるだろうか?

「フェイスで生きる」は理想論?-脱キリスト教のすすめ

今朝のジョッギング中、池の水鳥が一斉に飛び立った。えっと思うまもなく、ズドンと地震が。横浜で震度4。直下型だ。彼らは感知するのだ。彼らにはそのような能力、パワーがある。知性はないだろうが、本能が機能しているのだ。動物はその本能によって生きている。それが人間の能力をはるかに超えることは衆知のことであろう。精神分析の岸田秀氏は、人間は本能が壊れたため、知性によって幻想の中に生きるはめになったと言っているが、まことにそれはそのとおり。現実から遊離している。たとえば動物の生殖行動はあくまでも子孫維持のためだが、人間は必ずしもそうではない。だから人間の性行動は多かれ少なかれ倒錯しているのだ。

では、クリスチャンは何によって生きるわけ?義人はフェイスで生きる、聖書に明確に書いてある。しかし、しかし、キリスト教徒の多くは、実はこう思っている。それは理想論。現実はそんなに甘くない。見てみよ、世は混乱、キリスト教界もスキャンダルだらけ、信じたってガンで死ぬ人もいっぱいいるではないか。所詮、カネがなかったら生きられない。フェイスで腹が満たされるのか。いい加減、現実を直視してみろよ。Dr.Lukeは最近、おかしくないか?

実は、こういった声があることは私の霊が感知している。彼らは自分で勝手に作り上げた「フェイスで生きる」の幻想を追っかけているに過ぎない。この業界を覆っている霊はこのようなものである。しかし、そういうあなたは何によって生きているのだろうか?才能?カネ?会社?地位?学歴?人間関係?社会保障?・・・人はそれぞれに何かによって生きているのだ。それが当たり前になりすぎて、自分では意識できないほどに。あなたは無意識的に何かによって生きているのだ!が、ときにそれが崩される瞬間が来る。その時、人は動揺し、混乱し、恐れと不安に見舞われる。もし、キリストにのみよるのであれば、それはけっして揺るがされない。

それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。-Matt 7:24-25

この岩とは、いわずもがな、キリストである(1Cor 10:4)。かつて『真理はあなたを自由にする』において、「フェイスはI AMの実体化だ」と書いた。まことにそのとおり。イエスはご自分を「エゴ・エイミー」、すなわち「わたしはある」と言われた。そう、I AMだと言われたのだ。御子は神のサブスタンスの現出(Heb 1:3)。その方をsubstanciation、実体化すること。これがフェイス。霊的法則(フェイスの法則)は物理的法則を超える。重力の法則に飛行の法則が打ち勝つように、フェイスの法則は物理的法則を支配する。ないものがあるようになる。神はないものをあると呼ばれるお方。その神のフェイスをわれわれにも持てと言われるのだ(Mark 11:22)。神はフェイスを語り出して創造のみわざをされた。原則は同じ。われわれもフェイスを語り出すのだ。

神のバイブレーションは全地に満ちている(Ps 19:4)。そのバイブレーションと私たちの霊を共鳴させること。これがフェイス。そのバイブレーションが私たちのマインドに言語化あるいは映像化されるとき、それを語り出す。するとそれが現出するのだ。おいおい、Dr.Lukeはニューエイジかグノーシスにはまっているのではないか?と言われるむきがあることももちろん承知。が、イエスはそのようにしてみわざをしたであろう。Are you with me? キリスト教徒はオツムだけの、肉汁の抜けた筋張ったステーキを食わされている。ニューエイジの方がよほど霊的法則を知っている。繰り返すが、ヘブル11章1節のフェイスには定冠詞がない!彼らはそのシックスセンスであるフェイスを、間違った方向ではあるが、使っているのだ。ゆえに、ナントカ神学とかカントカ主義などよりも、元ニューエイジや悪魔礼拝をしていた人々の証は霊的世界に関して実に学びとなるのだ。

キリスト教なる宗教から解放されよ!

啐啄同時-フェイス・オーラに生きること

これ、禅の言葉。卵から雛が孵るとき、殻を内側から突く雛と、外から突く親のタイミングが一致するとき、無事に雛が現れることだ。機を得て両者相応じる得難い好機のこと。『碧巌録』にある鏡清禅師の逸話。

すでに何度も書いている末期ガンのご婦人も私が語ったから癒されたのではない。認知症のご婦人は私ではなく、その親族の姉妹が祝福を語っていた。いわゆる"癒しの器"と称する人々をありがたがるニッポンキリスト教の傾向はもうそろそろ卒業しろよと言いたいが、人は金の仔牛を求めてしまうものなのだ。

末期ガンの姉妹はすでにフェイスによって抗がん剤をご自分でやめていた。こんなので体力を消耗して寝たきりになるより、残された時間をすべて主のために捧げたいと。たとえ自分は死んでも良いと・・・。まことに主の御手の中に自分を投げ出されていたのだ。ペテロのようにコンフォートゾーンから波の上に一歩足を踏み出していた。主は彼女のその行いを伴ったフェイスをすでに受け入れて下さっていたのだ。そこに私が関わっただけ。認知症のご婦人は私自身はまったく関わっていない。

イエスご自身も故郷では不信仰のゆえにほとんどみわざを成し得なかったとある(Matt 13:58)。鍵は何か?もちろんフェイスだ。イエスの元にフェイスによって来た者はみな癒された。時に主は、相手の不信仰にも関わらず癒すと言われることがある。それはまことに神の一方的憐れみとパワーの証、ご自身の証である。しかし、一般的には互いにフェイス空間、あるいはフェイス・オーラの中におれば、なお一層容易に神のわざは現れる。

フェイスってなに?終わりの時代、今、ここで改めてそれを再確認する必要があろう。

イッツ・フィニッシュト!

十字架におけるイエスの最期の言葉だ。「完了した!」(John 19:30)。何が? 罪の赦し、アーメン。これは自分がクリスチャンと思っている人はみな割と簡単に言える。病の癒し・・・・うん? えっ、でもガンで亡くなる人もいるし・・・。アーメンとクリアカットに言えないむきがけっこう多い。貧しさからの解放・・・はあ、繁栄の神学ね、あれは異端だよ。特にニッポンキリスト教では現状を見るに、とてもではないがアーメンとは言えない人がほとんどであろう。

では、彼らに聞いてみる。あなたは聖書66巻が神の霊感によって書かれたことを信じていますか?まあ、リベラルはともかく、いやしくも福音派を自称する人々であれば、看板の手前にしろアーメンと言わざるを得ないであろう。

彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。
われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。-Isa 53:3-6

イエスは私たちの罪と病を負われたと明確に書いてある。それだけではなく、イエスは病を知っていた?彼には罪がなかったのに?しかし彼は罪とされた(2Cor 5:21)。イエスはその肉体に罪と病を負われ、否、罪と病そのものとされて裁かれた。それによりわれわれはゆるされかついやされた。いや、この病とは霊的なことを言うのであって、必ずしも肉体の病を言うのではない。と、言われるむきがあることも承知。しかし、それはあなたの解釈にすぎない。あなたの認知のフィルターだ。書いてあることは書いてあるとおりに、だ。いや、それは聖書をそのまま受け入れる原理主義カルトだ。まあ、このようにしていくらでも御言葉を毀損することはできるのだ。

鍵は何か?あなたのフェイス、すなわち御言葉に対する応答に従って、あなたはこれらの霊的サブスタンスを享受し得る。ここで現代人の私たちにとっては、罪の赦しを語ることは病の癒しを語るよりも容易なのだ。なぜ?前者は目に見えないが、後者は目に見えるから。共に十字架において完了した事実、霊的サブスタンス、リアリティーなのだが、それをこの五感の世界に現出させることにおいて相違がある。だから病の癒しを語ることは臆してしまう。私自身そうだった。一応博士号を持つものとして物質至上主義的というか、サイエンスかぶれというか、そんなマインドに閉じ込められていた。

神は私を癒してくださるかどうか、ではない!すでに癒している!フェイスは永遠のNOW。あなたはすでに癒されているのだ。それをこの五感の領域、物理的時空間に現出させることがフェイスのパワー。では、もし癒されなかったら?・・・必ずこの疑問が出る。が、あえて言うと、すべての人を偽りとしても神を真実とせよ(Rom 3:4)!神のわざと意志に問題があるのではない。私たちのフェイスの有無が問われるのだ。フェイスは辛子種一粒で十分。サイズや強さの問題ではない。あるかないか。私たちには神の国の鍵(複数形)が与えられている。

わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。-Matt 16:19

この新改訳の時制は正確だ。天においてすでに成就している事柄(サブスタンス)を地で執行すること。これが私たちのフェイスのパワーだ。よくニッポンキリスト教で言われる言葉がある。通り良き管となると。何を通すわけ?天のサブスタンスである。その方法は?

「私は信じた。それゆえに語った。」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語るのです。-2Cor 4:13

神の霊のバイブレーションと共振した私たちの霊はフェイスを生む。そのフェイスを語り出すこと。

わたしは唇の実りを創造し、与えよう。平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。わたしは彼をいやす、と主は言われる。-Isa 57:19

これが神の約束であり、地における天のサブスタンスの成就である。ついでに繁栄についてはこう書いてある。

あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためである。-2Cor 8:9

このコンテキストは物質的富を取り扱うこと。考えてみよ、主の誕生の際に贈られたゴールドはいかほどのものであったか。主は一枚織りの下着を着ておられた。これは高級品だ。だからローマ兵は破ることをせず、くじ引きをしたのだ!再度、というか、何度も繰り返す。

宗教の霊から解かれよ!

フェイスと医学

今週のメッセを聞かれた方から抗議をいただいた。Dr.Lukeは医学博士のくせして医学を否定するのか、とのご趣旨だ。どうもこの癒しの問題については、こういったエキセントリックな反応が出る傾向があるようだ。私は今回の著書『神の新創造-聖書が啓示する自然法則を超えるマインドのパワー』でも書いている。フェイスと医学は対立するものではないと。医学はだれもがその恩恵にあずかれる一般恩恵。フェイスは特別恩恵であると。癒しのフェイスがないのであれば、いくらでも医学の恩恵に与ればよろしい。

・・・と、言うと、またキリスト教徒のプライドを刺激するのだ。あなたは私に信仰がないというのか!と。そのとおり。ない。だから癒されない。ならば医学的治療を受ければよろしい。別にそれは罪でも何でもない。一般恩恵であると何度も繰り返している。ただし、カネと時間と労力、時には苦痛を代価として求められるが・・・。

どうも、下にも書いたが、信仰という概念の罠に落ちている。<医者にかかる=不信仰=罪>と自分で勝手に考えているようなのだ。ローマ書14章をよくよく読んで欲しい。

しかし、疑いながら食べる者は、信仰によらないから、罪に定められる。すべて信仰によらないことは、罪である。

パウロは明確に言っている、何を食べても良いと。しかし、疑いながら食べれば罪だと。Are you with me? あなた自身が<医者にかかる=不信仰=罪>と信じているから、医者にかかることが良心に咎めるのだ。パウロも私もなんら咎めていない!しばしばこういった主張をする人々は自分の"信仰"にプライドがあるのだ。癒しのフェイスがないことを認められない。そして自分の"ものさし"で自分を裁いている。要するに、鏡を見て、憤っているのだ。

繰り返すが、フェイスは条件ではない。フェイスは願うことのサブスタンス、目に見えないことの立証(Heb 11:1)。それは自分から絞り出すものでもない。自分の何かと勘違いているゆえに、ないと言われると憤慨する。フェイスは生来の私たちにはもとよりない。それはシックスセンス、外来的に聖霊により与えられるもの。自分にはないことを認め、単純に求めればよい。求める者にヘビやサソリを与える親があろうか、と父なる神は言われるのだ。その意味で求めないから与えられないのだ(James 4:2)。プライドのゆえに・・・。

私は癒しのフェイスはまったくなかった。だから親しい友人を何人もガンで失った。癒しに関してはプライドも持ちようがなかった。だから求めた。すると与えられた。単純だ。現代において癒しがあるかないか、すべての人が癒されるのか、病気は神が人格の陶冶のために送られるのか・・・。そんな面倒なことを考える合間に、求めよ!だれだって癒されたいであろう。健康でいたいであろう。長生きしたいであろう。フェイスは願うことのサブスタンス、目に見えないその立証なのだから。まことに神の国は幼子のものである!

追記:これもある種の人々を刺激するであろうが、あえて。要するに二心だから与えられないのだ(James 1:6-8)。

フェイスとは?-キリスト教からの解放

義人は信仰によって生きる。今週のメッセでは、これをあえて、義人はフェイスによって生きるとした。信仰と言うと、ニッポン人は日本語の意味において理解したツモリになる。が、フェイスとすると、一瞬、うん?、となる。ギリシャ語のピスティスになるともっと???だろう。日本語として理解してしまうことは、実は、大いなる方向違いを引き起こす。私は信じたのに癒されなかった!と憤慨する向きがけっこうある。意外にも、Salt氏すらもそのように抗議してきた。あなたの「信仰」はフェイス、つまりピスティスではないのだ。それは思い込み、希望、願い、に過ぎない。ある人の言葉が至言:神が反応されるのは私たちのニーズに対してではなく、フェイスに対してである。

フェイスがなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神があることと、ご自分を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。-Heb 11:6

「神がある」とは"I AM"だ。神はありてある、だ。フェイスに対して神は応える。これは厳然たる事実。ここで重要なことがある。

あなたは、神はただひとりであると信じているのか。それは結構である。悪霊どもでさえ、信じておののいている。-James 2:19

神を信じれば救われる、よくキリスト教では言われる。この「信じる」と同じ単語"pisteuō"がここで使われている。悪霊も信じている!?Are you with me? フェイスとは霊的領域のサブスタンスと見えないそれらの立証(Heb 11:1)。このフェイスには定冠詞がない。つまり物理的時空間の五感の外の霊的領域の一般的センサーなのだ。そのフェイスをどのように用いるか。悪霊どもは神をフェイスにより知っている。が、十字架のサブスタンスと一体化されていない。われわれは十字架の死と復活に一体化され、新しい創造、ニュー・クリーチャーとされている!この霊的リアリティーが私たちの救いなのだ。つまり使徒信条をいくら唱えても、キリスト教神学をどんなにお勉強しても、それは単なるキリスト教徒を作るだけ。ニュー・クリーチャーの誕生、つまり生命現象を起こすことはできない。だからイエスはニコデモに言われた:

イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。・・・イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。-John 3:3-6

新しく生まれる、あるいは新しい創造とは、ヤクザが心を改めて新しい人生を始めるといったレベルのことではない。それは所詮五感の領域の現象に過ぎない。○○学会でも○○の科学でもいくらでもあること。新しい生命体になることなのだ!血肉は決して神の国に入ることはできない(1Cor 15:50)。神の国に入るのは神と同じ属性を有する存在。私たちは神の霊を分かち与えられた存在(1John 4:13)。つまり私たちの霊は神類なのだ!それがネオ・ホモサピエンス、ニュー・クリーチャー。この血肉はあくまでも旧創造のもの。しかし私たちの本質である霊は神類。神が私たちの肉をとおして現出する場、これがエクレシアだ。なんとか教団やかんとか同盟などの人間のわざではない!エクレシアは奥義(1Tim 3:16)、ミステリーなのだ!生まれつきのマインドでは決して理解できないこと(1Cor 2:14)。

フェイスはシックスセンス。霊的領域と永遠の世界にタッチする能力。あなたはシックスセンスであるフェイスを用いてどのような霊的サブスタンスを得るだろうか?これがあなたの、そして私の永遠の運命を決定するのだ。それは生命現象だ。繰り返すが、キリスト教なる宗教から解かれよ!

義人はフェイスで生きる

宗教から解かれよ!

TODAY'S CELEBRATION 【Jan 31, 2016】

UPしました。

-Kingdom Fellowship Podcast

タイトル義人はフェイスで生きる

聖書箇所:1ヨハネ4:13;ローマ1:17など

2月7日のセレブ

 ・場所:エスカル会館2F会議室
 ・時間:1300-1700

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イエスの誕生と死、そして復活が意味するものは何か?最初の人類アダムとエバの“失楽園”、ノアの箱舟、モーセによるエジプト脱出・・・数々の映画のテーマにもなる聖書の奇跡とイエスの生涯に新しい光をあてる。それらは現代人のわれわれとどんな関係があるのか?神は今もなお生きて働かれるのか?それを経験する鍵は?人類のロングセラー「聖書」の世界をよりあざやかにリアルなものとする挑戦的な書。

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●面白い口コミがありました:聖書は既読ですが、モーゼが杖をついたら海が二つに割れたり、イエスが一つのパンで何百人の人を養ったりと、神話的な話として読んでいました。この本を読んでからは、神話や伝説ではなく、リアリティとして感じられるようになりました。

ことばとフェイス

語り出された言葉、レーマはフェイスそのもの。フェイスは私が努力して信じます、信じます、とやることではない。神の声を聞いたら、それが即フェイス。内なる霊に共鳴する神の霊のバイブレーションが魂のマインドにおいて言語化あるいは映像化される。すると心にそれが焼き付けられる。その時点で、体に症状があろうと、目の前にまだカネがなかろうと、問題がそのままであろうと、すでに得たと分かる。すると不思議なほどに笑いがこみ上げるのだ。

繰り返すが、ちょうど宝くじの当選券を持っているようなもの。霊的領域のサブスタンスは真理(Truth)、この五感の世界の現象は事実(Facts)。私たちは事実を取り扱うのではない。真理を、今、ここに、下ろすのだ。どうやって?語り出すこと。ことばにはリアリティーを作り出すパワーがある。ポジティブなものであれ、ネガティブなものであれ。take dominion! ねじ伏せても事実を真理に従わせること。

先に紹介した末期ガンのご婦人は、その後糖尿病も、白内障も癒されてしまった。それに関与した私自身がほんとかな?と感じているほど、あっけに取られているのがホンネ。特養に入っておられた車椅子の認知症のご婦人が立ち上がり、家族の名前と顔が分かるようになったばかりか、不義理を謝ったと、そして他の入所者のお世話まで始めたと・・・アンビリーバボ。共に断食祈祷や徹夜祈祷をしたわけでもない。何気に語っただけ。

神のバイブレーションに共振して私たちの口から語り出されたことばは神のことばそのもの。人なるイエスは同じメカニズムでわざをなされた。彼の語ったことばは父のロゴス、彼のわざは父のわざ。ゆえに私たちもイエスと全く同じわざ、さらにそれ以上のわざをなし得るのだ。根拠は、イエスが父の元に行かれるから。私たちが霊的に形成されているとか、難行苦行しているとか、素晴らしい人格を持っているとか、一切関係ない!それはイエスのあり方に基づくこと。この意味ですべてはスーパーナチュラル。しかもそれはフェイスに生きるわれわれにとってはナチュラル。癒しも奇跡も全ては当たり前のことなのだ。

鍵は、フェイスの覚醒。私たちは自分が「信仰」と思っていたことが実はフェイスではないことに気がつく時が来る。フェイスって何?この疑問に立ち至った人は、実は幸い。今、ここで、永遠のNOWが切り込んでくる経験。フェイス!WOW!

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