本日の一冊:ジョン・バニヤンによる祈りの力
実はこれ99年に購入していた。『天路歴程』で有名なジョン・バニヤンの祈りに関する書。彼は1628年、貧しい家庭に生まれ、教育もなく育ったが、1653年、妻を通して信仰を持ち、独立教会でメッセージを始めた。ところが無資格であるとして役人から説教を禁じられた。が、彼は語り続けた。そこで投獄12年。その牢獄の中で書かれた書。当時、スチュワート王朝の指示により、英国の教会はすべて統一され、祈りも祈祷書に従うなど、形式化された。その流れに抵抗したのだ。今日でもニッポンキリスト教では形式主義である部分が相当にあるが、祈りもメッセージは本来、自由だ。ジョンは、人や制度にではなく、神に従え、と繰り返す。資格は神から来るのだ(2Cor 3:5-6)。
祈りはたましいを注ぎ出すことです。自分のありのままをさらけだすこと、神に向かって心を開ききること、願いとためいきとうめきをもって、たましいを注ぎだすことが祈りにはあります。
下にある元悪魔崇拝者の証言によれば、彼らは悪魔と会話しつつ、のろいを祈る。まず霊的領域が動けば、地上にそのとおりになると明確に語っている。つまり霊の領域のサブスタンスが物理的時空間に現出(frame化)するのだ(Heb 11:1-3)。30日で人を殺すことができるとまで言っている。悪魔崇拝者たちは絶えず祈っているのだ。霊的領域を支配しようとしている。しかし主の十字架と血、そしてクリスチャンの祈りのあるところでは結界が張られていて、業ができないとも言っている。
今日、近代高等批評とか、自由主義神学などで霊的要素が排除され、信仰が干からびつつある中で、祈りの力を見出すクリスチャンがどれだけ起こされるかが鍵だ。祈りは霊的領域に波紋を生み、神の御心の中にサブスタンスを形成し、敵を縛り上げ、霊といのちとを解き放つ。これがわれわれ新約の祭司の務めなのだ。地上の五感の領域は所詮物理的時空間の現象だ。われわれが霊的領域にどれだけアクセスし、その領域を取ることができるか、これが地上の有様を決定する。
追記:ジョン・バニヤンは、なんと、60歳で召されている。うーーむ。やはり男子はいかに死ぬべきかをつねに考えるべきなのだ。論語にいわく、「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」と。大石内蔵助に対する憧憬も深まるところだ。あるいは三島。ちなみに、今回お世話になる出版社の理事の方がマーカーで原稿を塗りつぶすほどに深く読み込んでくださった。奥さんがカトで、常々キリスト教に失望していたのだとか。で、私という人間を鋭く見抜かれてしまったのだ。そのときの会話-私が矢沢にほれているというと、なんと、三島にもでしょう・・・と。背筋がぞくぞくするほどに感動した。