Information

3_White_logo_on_color1_256.jpg

ブログ・スクリプトをWord Pressにチェンジしました。明日(2017年3月10日)以降、このページは更新しません。新しいブログに移行します。

-DR.LUKE'S iDLE UTTERANCE(http://www.dr-luke.com/wp/)

なお、フレームは以前と同じです。

-http://blog.dr-luke.com

また過去ログはこちらで一覧可能です。

-Dr.Luke's Spiritual Insight(本ブログ)

-過去ブログ2

-過去ブログ1

 

Entry

Tag: サブスタンス

神学は人間学だ

と、フォイエルバッハが言っているとのこと(Salt氏による)。いわゆる"Word of Faith"という教えがある。私などもこれに分類されるだろうが、要するに言葉には力があって、信仰によって語り出された言葉には癒し、創造するパワーがあると言うのだ。神ご自身がご自分の信仰(サブスタンス)を語り出すことによって創造のみわざをなされた。

ここに紹介するビデオクリップは、一方はWoFの代表、彼によると眼球のなかった子供が新しい眼球を得たとか、遺伝子までも変化したとかの証がある。前に紹介した国連で証言した死から蘇った牧師も、心臓疾患の遺伝子が取り除かれたと証言している。一方はWoFは偽りであり、カルトの教え、ニューエイジの悪影響を受けていると主張する。彼はビデオを見るとわかるが、足が不自由なのだ。極私的には、彼も癒しを求めて神に叫ぶことを勧めたいが、最初から拒絶している以上、神も何も成し得ない。すべては信仰によるからだ。

さて、皆さんはどう判断されるでしょうか?

-Guillermo Maldonado | How to Receive Your Miracle

-Are You a Victim or a Victor? - A Call for Discernment - Justin Peters Ministries

 かくのごとく、神学は一人ひとりの経験による部分がきわめて大きい。特に癒しの問題については、一部の人々からはエキセントリックな反応を生む傾向が強い。いわく、「癒されない人は信仰がないと言うのか!」など・・・。誰もそんなことは言っていないし、神の言葉は明らかに癒しを宣言しているのだ。ただ言えることは、問題は神にあるのではない、受け取るこちら側の心の状態にあるのだが・・・。すべての人を偽りとしても神を真実とせよ、とあるとおりだ。

ボディの鍛錬も

いくらかは益になる、とパウロは言っている。・・・というわけで、午後はGYMにて。しかし、熟年者ばっかりだ。団塊の世代。現在四人にひとりが65歳以上。これが45%にまで上昇する。要するにふたりにひとりが65歳以上の国になるわけ・・・。で、政府の借金は1,100兆円。一部にはテトラッドとユダヤ教の祭りとの一致が起きるこの秋あたりから経済クラッシュが起こるとの予測もあるが、まことに主よ、そろろそこの時代を結束してくださいとマジで感じている昨今ではある。

それにしても、12月以来、スピリチュアル・ジャーニーを経てきたのだが、その旅路でまとめたのが今回出版する本だ。その中でも、メッセでも語っているが、信仰とは霊的領域のサブスタンスをこの物理的世界に出現させる機能(=実体化)である。と、なんとW.ニーもまったく同じことを明確に語っていた。

Likewise, faith substantiates the various substances of the spiritual world....Such, then, is the function of faith. 

この彼の言葉は今回はじめて読んだのだが、自分が見たものが大丈夫なものであると保証をもらった感じ。ジョージ・ミューラーも同じことを語っているし・・・。というわけで、私のスピリチュアル・ジャーニーはあたかも天路歴程のようではあった。しかし、あの時に見たものが成就するようになると、これはかなりヤバイのだ・・・。すでにその一部は、あたかも手付金のように、成就しつつあるのだ。

霊のことは霊によってのみ理解、経験し得る(1Cor 2:13)。いわゆる御言葉を五感によるこの世界でのみ取り扱うのは、もちろんそれは個人の自由ではあるが、自己満足に過ぎないと感じている。あちらの世界がこちらの世界に介入しているのだから。神の国はリアルに現存するのだ!

 

詩篇139編16節

先に引用したこの節、日本語ではこうある:

あなたの目は、まだできあがらないわたしのからだを見られた。わたしのためにつくられたわがよわいの日のまだ一日もなかったとき、その日はことごとくあなたの書にしるされた。-Ps 139:16

ここの「からだ」と訳された単語は「サブスタンス(substance)」、つまり実質、本質、実体だ。別に肉体だけを指すのではない。私という存在そのものを言っている。世界は神のレーマによりフレーム化されている(Heb 11:3)。神がご自身の信仰を語り出すことにより、創造のみわざがなされた。この原則はすべてに通じる。なぜなら信仰によらないことはすべて罪だから(Rom 14:23)。そしてこれは私たちに対する神の処方でもある。この詩篇によると、神は私たちをもご自身の信仰の中に置かれているのだ。まだ完成されていないサブスタンスをすでにご覧になり、その書の中に書き記されたのだ!ハレルヤ!

私たちはよく自分は信仰が弱いとか、小さいとか、いろいろ自分を見て主張する。これ自体が実はプライドの裏返しなのだ。私たちは神の信仰によって生かされている。その神の信仰がこの時空間の時系列の中でひとつひとつ成就していく(立証)。だから主は言われた、「神信仰を持て」と(Mark 11:22)。ここはすでに指摘しているが、神信じなさい、ではない!神信仰を持て、だ。WOW!まことにヘブル11章にあるとおり。

さて、信仰とは望んでいる事柄のサブスタンスであり、まだ見ていないものの立証である。-Heb 11:1(私訳)

私たちは全宇宙を創造された神の信仰のうちに置かれ、その信仰によって生かされている。どっぷりと神の中に浸かり込んで、その中で自由に生きることが許されているのだ!そして私たちが信仰を得たならば、あとなすべきは、語ること。言葉を発すること。そうすれば、私たちは自分の望むものを得るのだ。

「私は信じた。それゆえに語った。」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語るのです。-2Cor 4:13

私たちはその同じ信仰の霊を持っている!

神の御心(マインド)の充満に生きる

新著(正式に出版決定)でも強調したが、人類は旧人類(アダム族)と新人類(キリスト族)しかない。後者は新創造、ニュー・クリーチャーだ。十字架以前には存在していなかった人類。神はキリストの傷から流れた血と水によって新しい創造物を生み出されたのだ。

よくキリストのうちに生きるにはどうすればよいかとか、自分はすぐにアダムに戻ってしまうとか、キリストのうちにとどまる秘訣は?とか言い出す人がいる。これらの人たちは自分の経験や感情を基準にしているためだ。私たちはすでに新しく生まれたキリスト族、すでにキリストにうちに置かれてしまっている!ピリオド。これが真理。でも、自分はよく癇癪を起こしたり・・・やめ!あなたは人間でなくなることができるだろうか?自分は油断していると猿に戻ってしまうけど、どうしたら人間に戻れるだろう・・・。これは笑い話だ。

キリストのうちに置かれたことは、キリストのアイデンティティーと所有と属性などがすべて私のものとなることを意味する。キリストは神のサブスタンスの現出。神たる方の満ち満ちている存在、神の充満。そのうちに置かれたのだ!これは私が何をするとか、しないとか、一切関係ない。プールに入れば、水の充満に浸かるのだ。何をしようとも、しなくても。12月以降、手で神を感じるようになった。それはプールの中で手を伸ばせば水を感じるのと同じだ。私たちは神の中に生きているのだから(Acts 17:28)。

私たちは個々の事柄で神の御心から外れているか、いないか、よく心配する傾向がある。体操の平均台の上を歩むようにビビリつつ生きているクルシチャンも多い。私たちはキリストのうちに置かれているとは、すなわち神の大局的な御心の中にいることなのだ。もっと言えば、神の御心から出ることはできないのだ!すでにすべては完成されている。神はこの時間と空間に縛られていない。霊的世界は永遠の現在。ゆえに私たちの人生もすべては終わっている。これがキリストのマインドだ(1Cor 2:16)。

あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。-Ps 139:16

クリスチャンがもっとおおらかに、父なる神の愛にあって、ゆったりと、まったりと、しかし悠々と、豊かに生きるようになれば、人々の心に渇きを起こさせることができる。福音は人に渇きを起こすことだとW.ニーは言っている。真に神の豊かさを味わうならば、人々は私たちを見るとき、渇くのだ。渇きを覚えるに至れば、あとは簡単。伝道は決して折伏することでもなく、相手を論破することでもない。

もともと聖書はヤバイ書なのだ。生まれつきの人のマインドには決して入らない世界を提示している(1Cor 2:14)。クリスチャンもマインドが五感に縛られ、この世界においてのみ御言葉を解釈するから、あれこれとややこしくなる。私たちのマインドを超えた世界がこの物理的時空間に介入していることをまず知る必要がある。聖書は道徳の書でも、倫理の書でも、人生哲学の書でも、教育の書でも、生き方の書でも、ない!イエスは言われた。

しかし、わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。-Matt 12:28

永遠の現在に存在する神の国が、この時空間に介入しているのだ。もっと言えば、天が地に侵食している。これが福音だ!葬儀の際、やはり40年来の友人がこういった。「霊の世界ってあるの?」。「ありますよ」。「じゃ、クリスチャンってシックス・センスの世界に生きているわけ?」、「そのとおり!」。相手を納得させる必要などはない、もともと納得などできない世界を告げ知らせているのだ!

サブスタンスを得る

先に紹介したW.ニーの『Powerful According To GOD』にこのような一節がある。祈りとは約束のないところから始まり、約束を得る。これが信仰の瞬間。その後は祈りではなく賛美に変わる。すると時が来ると現物を得ると。こう書いている:

The first part is praying from no faith to faith; the second part is prasing from faith to actual possesion.

まことにヘブル11章1節のとおりだ。

Now faith is the substance of things hoped for, the evidence of things not seen.-Heb 11:1

メッセでも語ったが、私たちの祈りは神の前にひとつも落ちることがない。それらはすべて父の心の中に何らかの印象を刻む。サブスタンスを共に錬る、あるいは彫り上げるのだ。そして神と私たちの霊がそれをピタッと共有できたとき、「得た」とわかる。I know that I know. これをニーはこう書いている:

Christians need to know how to receive in the spirit; otherwise they have neither faith nor sipiritual insight.

すべては霊から始まるのだ。地のものをいじくるのは、効果がないとは言わないが、労多くして益はないし、下手をするとサタンに翻弄されて消耗させられるだけ。まずは霊的領域のサブスタンスを得ること。これが得られればすべては成就する。まことに、信じる者にはなんでも可能である(Mark 9:23)。

 

本日の一冊:ジョン・バニヤンによる祈りの力

実はこれ99年に購入していた。『天路歴程』で有名なジョン・バニヤンの祈りに関する書。彼は1628年、貧しい家庭に生まれ、教育もなく育ったが、1653年、妻を通して信仰を持ち、独立教会でメッセージを始めた。ところが無資格であるとして役人から説教を禁じられた。が、彼は語り続けた。そこで投獄12年。その牢獄の中で書かれた書。当時、スチュワート王朝の指示により、英国の教会はすべて統一され、祈りも祈祷書に従うなど、形式化された。その流れに抵抗したのだ。今日でもニッポンキリスト教では形式主義である部分が相当にあるが、祈りもメッセージは本来、自由だ。ジョンは、人や制度にではなく、神に従え、と繰り返す。資格は神から来るのだ(2Cor 3:5-6)。

祈りはたましいを注ぎ出すことです。自分のありのままをさらけだすこと、神に向かって心を開ききること、願いとためいきとうめきをもって、たましいを注ぎだすことが祈りにはあります。

下にある元悪魔崇拝者の証言によれば、彼らは悪魔と会話しつつ、のろいを祈る。まず霊的領域が動けば、地上にそのとおりになると明確に語っている。つまり霊の領域のサブスタンスが物理的時空間に現出(frame化)するのだ(Heb 11:1-3)。30日で人を殺すことができるとまで言っている。悪魔崇拝者たちは絶えず祈っているのだ。霊的領域を支配しようとしている。しかし主の十字架と血、そしてクリスチャンの祈りのあるところでは結界が張られていて、業ができないとも言っている。

今日、近代高等批評とか、自由主義神学などで霊的要素が排除され、信仰が干からびつつある中で、祈りの力を見出すクリスチャンがどれだけ起こされるかが鍵だ。祈りは霊的領域に波紋を生み、神の御心の中にサブスタンスを形成し、敵を縛り上げ、霊といのちとを解き放つ。これがわれわれ新約の祭司の務めなのだ。地上の五感の領域は所詮物理的時空間の現象だ。われわれが霊的領域にどれだけアクセスし、その領域を取ることができるか、これが地上の有様を決定する。

追記:ジョン・バニヤンは、なんと、60歳で召されている。うーーむ。やはり男子はいかに死ぬべきかをつねに考えるべきなのだ。論語にいわく、「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」と。大石内蔵助に対する憧憬も深まるところだ。あるいは三島。ちなみに、今回お世話になる出版社の理事の方がマーカーで原稿を塗りつぶすほどに深く読み込んでくださった。奥さんがカトで、常々キリスト教に失望していたのだとか。で、私という人間を鋭く見抜かれてしまったのだ。そのときの会話-私が矢沢にほれているというと、なんと、三島にもでしょう・・・と。背筋がぞくぞくするほどに感動した。

宗教Vs.いのち

日本語キャプションがあるので、紹介しておきます。われわれの信仰とは宗教やシステムではなく、いのちにある。神の実質(サブスタンス)に満たされること。私と同じことを語る人々がいることに励ましを受ける。

-宗教の霊からの解放

彼はもともとモスレム。しかしシステムと戦うな、とにかくサブスタンスに満ちること、という点には教えられた。確かに宗教システムと戦ってもいのちは何も出てこない。最近は十字架教とも言えるが、アンチのスタンスは同じ土俵に乗っているからなのだ。私たちの焦点は、水の中の魚が水の存在を意識しないように、きわめてし自然に神のサブスタンスのうちに生きること。そこに気がつく人々がこれから大いに出現するだろう。

追記:これもかなり興味深い。先にも書いたが、敵の策はクリスチャンをして五感の世界に閉じ込め、その中だけの経験に安住させることだ。この人物は霊の世界の方がよりリアルであり、すべてはそこから始まると証言している。霊の世界のサブスタンスを祈りによって支配すること。これがクリスチャンの重要な任務なのだ。

-悪魔の手口を暴く(元悪魔崇拝者の証言)

 

神の意志と私の意志

しばしばキリスト教徒はこの二つを対立関係においてしまう。いわく、バプテスマのヨハネは、自分は衰え、あの方は栄えると言った。よって私たちは衰えるのだと。またゲッセマネの園で主が祈られたように、私の意志ではなく、あなたの意志がなるように、と。これが自我を十字架で否むことだと。これらははっきり言って宗教だ。ヨハネは旧約の終わり、ゲッセマネにおいては主は自分の役割をすでに知っておられたのだ。

これらのクルシチャンは父を知らない。下にリンクした孤児の霊のなせるワザなのだ。孤児は絶えず父の認知を求め、あれこれと気を回して、歓心を買おうとする。自分の業やあり方によって受け入れられようとする。かくして十字架で自己を否むと称して、自己疎外に陥り、ついには消耗するのだ。なんの喜びも得られないままに。父は私たちに何を求めるのか?と言われる。私たちは率直に自分がほしいものを求めるのだ、イエスの名によって。何でも与えられると主は約束された。それは私たちの喜びが満ちるためだ!私たちが喜ぶことは父の栄光なのだ。これが真の父と子の関係である。

私の意志を申し上げるとき、父の心の中にそれは置かれ、また父は私たちの最善を与えようと意志される。この私の意志と父の意志が絶妙に組み込まれて、サブスタンスが形成される。私が真に欲しいモノがわかり、父と私たちがそのサブスタンスを共有するとき、私たちは「得た」と分かるのだ。これが信仰の瞬間だ。するとあとは時間の流れの中でそれは実体化される。神の方法とタイミングに従って。私たちはその実体化の時を楽しみにしつつ待つのだ。忍耐をもって、と言うと、これまた宗教の霊に憑かれた人は歯を食いしばるイメージを持つが、これも違う。私たちは確実に願ったものを得ることが出来る。ゆえに心待ちにその時を待つのだ。大いなる期待をもって。もう、すでに得たから、得るのだ。すでに得たのだから、歯を食いしばる必要はない。父は富んだお方、寛容であり、慈愛に満ち、与えることを喜ばれるお方。なぜ、その方に対して、歯を食いしばる必要があろうか。

神は私の意志を最大限尊重される。次の約束は真実である。

何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。-Phil 4:6

どうか、わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに-Eph 3:20

サブスタンスを操作する醍醐味

 

 

 

2日ほど諏訪に戻っていた。実家の片付けと整備を行うため。横浜のマンションは抵当権も外れたので永住するつもりだが、こちらだけではややさみしい。なんとか別荘として使いたいというわけだ。若き頃は室生犀星状態だった私も、この年になると故郷がけっこう沁みるものだ*1。おいおい整えていこう。

で、来年はまた御柱祭。諏訪大社にはもうひとつ御頭祭なるものがある。神官が子供を神に捧げる直前、鹿が代わりに現れて、子供は助かるのだ。そう、アブラハムのイサク奉献にそっくり。その行事が行われる山も守屋山(モリヤ山)。諏訪大社は古事記で、出雲からタケミカズチに追われたタテミナカタの神が逃げてきた場とされているが、実はミシャクチ(あるいはミシャクジ)信仰が土着らしい。それもへブル語で読むと面白い。ミ・イサク・チと読めるのだ。ミは「から」、チは接頭辞で、イサクからの神、つまりイサク神信仰だ。諏訪原人にはトンデモだと一笑にふされるのだが・・・。

*  *  *

クリスチャンの醍醐味に最近目覚めつつある。それは祈りによりサブスタンスを操作すること。人類は電波をマクスウェルの法則に従って自由に制御できる。電波は見えないし、触れないし、五感では感知できないが、音、映像、熱、光・・・と姿を変えて、この時空間に現出する。これをframe化という(Heb 11:3)。同じように霊的世界の法則をつかむと、そのサブスタンスを操作できるようになる。たとえばイエスはラザロの死を聞いたとき、彼は眠っているだけだと言われた。が、弟子の指摘を受けると、いや、死んだのだと言われ、あえて4日待って起こしに行った。彼の霊の中ではすでにラザロは蘇っていたのだ。イエスはそのサブスタンスを明確に掴み、見ていた。イエスにとっては霊的サブスタンスの方が物理的死よりもリアルだったのだ。かくしてイエスは死を支配、統治した。

クリスチャンの任務はいのちにあるキリストと共なる統治(Dominion)である(Rom 5:17)。そもそも、地とあらゆる生物を治めよ、と神は言われた(Gen 1:28)。地とは物質的世界のこと。われわれはこの物質的世界を支配できるのだ。イエスは男だけで五千人を五つのパンと二匹の魚で心ゆくまで満腹させた。嵐と波を叱り、静められた。水の上を歩いた。すべて彼はこの物理法則を超える世界を証明したのだ。天が裂かれ、神の国がこの物理的時空間に介入していることをデモンストレーションしたのだ。信じる者はイエスと同じ業、否、それ以上の業ができるとイエスは言われた(John 14:12)。これ、もちろん私たちがいくら踏ん張っても無理。鍵は何か。

神のレーマには不可能なことは何もない。-Luke 1:37(原語)

信仰はレーマを聞くことから生まれる(Rom 10:17)。敵の策略はクリスチャンをしてこの霊的次元に関して無関心あるいは無力さに閉じ込めることだ。電波を制御するマクスウェルの法則を知らなければ、テレビもケイタイも実現しない。つまり電波が実体化されないのだ。同じようにクリスチャンの目から霊的法則を封じ込めれば、霊のサブスタンスは実体化されない。つまり天の御心が地にならないのだ!かくしてクリスチャンをして五感の世界に限局化させておくこと、これが敵のもっとも有効な策なのだ。目先の楽しみや自己実現の追求に落ちるとき、クリスチャンは敵にとって無力化される。

もし私たちが霊的サブスタンスの扱い方を100%把握し、習熟したら、完全にイエスと同じことができるのだ。地上で父の御心を100%実現できる!これに目覚めることをサタンはもっとも恐れている。われわれはすでに天に座し(Eph 1:20)、王とされているのだ(Rev 1:6)。われわれの本質は新創造新しい生命体なのだ(2Cor 5:17)。このアイデンティティーに気づくとき、私たちの生き方は根底からひっくり返される!

*1:なんというか、時間がまったり流れ、空気がゆるい。自然も豊かで、かなりいい地であると最近はとみに感じている。

サブスタンスの所在

いつものDr.Kさんがヘブル11:1について論じておられる。小生の論も取り上げてくださっているので、こちらでもちょっと触れておこう。

ーーー以下、コメント欄の再掲ーーー

小生の論を取り上げて下さり恐縮です。ヘブル11:1の"substance"は邦語ではたいてい「確信」としています。この訳はひじょうに主観的と言えます。「得た」と霊が直覚するとき、魂は「確信」するわけです。

個人訳の新和訳は「実体化」です。「実体化」は霊の機能である直覚(intuition)を指していると思います。

「実体」はまさに霊的領域の存在そのものを言うわけで、小生の論は、この存在を、後半の「証明」とか「立証」の部分で、五感で実体化できる物理的時空間に現出させること、と解した次第です。エターナル訳では「ばくろする」となっています。

ヘブル3:14(Heb 3:14)でも、「最初の確信」と訳されていますが、これは内にいますキリストのことですから、「実体」が適切でしょう。「確信」なるものは時として揺らぎますから。かといって自分の努力で絞り出すようなものではないわけです。

ではこのサブスタンスはどこに存在するのだろうか、という点ですが、神の御心あるいは神の信仰(Mark 11:22)の領域と感じております。マルコは「神を信じなさい」は不適です。創造が神の信仰を語り出すことによりなされたように、その神の信仰を持てというのですから、すごいです。

私たちの願いが神の御心に沿うならば、何でもかなえていただけるわけです(1John 5:14)。私たちの祈りは神の御心あるいは信仰の領域に、自分の願うサブスタンスを作り出すわけです。ちょうど子供が親に何かをねだる時、親の心の中でそれを与えようとする想念ができるような感じですね。時がくれば、実際に与えるわけです。これが「立証」、すなわちサブスタンスの現出です。アブラハムのソドムに対するとりなしの祈りなどは、まさに神の心にサブスタンスを生み出したわけです。あるいは神の心にあるサブスタンスをアブラハムが代弁したというべきか・・・。

いずれにしろ、この論点は深いし、本質的です。一歩誤ると自力信心に落ちて、クルシチャンが出来上がりますが。神はかなえてくれない~と。とにかく日本語で考えると罠にはまりますね。

追記:

>このサブスタンスも霊の機能のどこかにあるのではないか。(MKさん)

そうですね、サブスタンスを共有できたとき、「得た」と分かるのかもしれません。祈りで神に求めるとき、神の信仰の領域にサブスタンスが形成され、それはまた神によって修正されたりしつつ、私たちの霊の領域、あるいは信の領域にも形成される。それが見事に一致したとき、願いがかなうという経験になるのでしょう。

神は決して一方的にいわゆる御心を押し付けませんし、私たちの願いや意志を最大限尊重してもくださる。彫刻をするときに二人が共同しつつ、刻み上げるといったイメージでしょうか?

 

Pagination

Utility

CALENDAR

10 2018.11 12
S M T W T F S
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -

MOON AGE

WORLD CLOCK

COUNTER

    Access.....
    Yesterday......
    Today............

RANKING

    ブログランキング・にほんブログ村へ

KF_SITE

FOR MEMBERS

APPLE iTUNES STORE PODCAST

YOUTUBE ARCHIVE

OLD iDLE UTTERANCE

OUR WORSHIP

TWITTER UPDATE

INSTAGRAM UPDATE

PRAY FOR ISRAEL

QRcode

BIBLE SEARCH

ENTRY SEARCH

Recent Trackback

Re:真の礼拝とは-Colin Urquhart
2018/04/30 from 承認待ち