Information

3_White_logo_on_color1_256.jpg

ブログ・スクリプトをWord Pressにチェンジしました。明日(2017年3月10日)以降、このページは更新しません。新しいブログに移行します。

-DR.LUKE'S iDLE UTTERANCE(http://www.dr-luke.com/wp/)

なお、フレームは以前と同じです。

-http://blog.dr-luke.com

また過去ログはこちらで一覧可能です。

-Dr.Luke's Spiritual Insight(本ブログ)

-過去ブログ2

-過去ブログ1

 

Entry

Tag: ニッポンキリスト教

思想や正義の病理の究極

 

Asama.jpg

思想や正義という病理。この事件は中三にTVで目撃した。実に怖い。一人ひとりはかなりインテリ、正義感が強く、社会の不正を黙視できない。それが高じて(これも下のR=klogSの法則による)、自己批判・総括と称する互いの粛清、結果虐殺された者14名。

-あさま山荘立て籠もり犯が真相を告白…連合赤軍事件45年目の新証言、BS朝日で9日放送

これは何も社会だけではない。神学なるものもかなり怖い。キリスト教の歴史も血塗られている。たとえば神学者が崇めるカルバン。彼の病理はサディストであると私は指摘しているが、彼の行状についてはこの記事を参照してほしい(⇒http://www.dr-luke.com/diarypro/archives/914.html)。彼は発作が起きると、自分の批判者をあえてとろ火で処刑した。一部抜粋しておく。

----------------
カルヴァンの花崗岩のような性格、鉄のような頑迷さにつきあたるのである。この偉大な狂信者にとっては、一生を通じて和解ほど無縁なものはなかった。彼は中道ということを知らなかった。彼が知っていたのはただひとつの真理、彼自身の真理だけだった。彼にとっては、すべてか、無か、完全な権力か完全な放棄か、であった。

自分自身に憑かれたカルヴァンは、誰かが自分の意見と違う意見を表明したりすると、そのつど、はげしい怒りにおそわれた。ひとに反駁されると、カルヴァンは一種の神経症の発作をひきおこし、肉体の内部ふかくで精神的な興奮が転移すると、胃がむかついてきて胆汁を吐き出すのだった。相手がその反論をどんなに客観的に、どんなに学問的に展開して見せてもむだだった。相手が大胆にも自分と違った考え方をしたいうただその事実だけで、カルヴァンは彼を自分の不倶戴天の敵であるばかりか、世界の敵、神の敵とした。
----------------

ニッポンキリスト教においても異端カルト糾弾の火の手が上がった時期があった。私などは時が時であれば、すでにとろ火で処刑されていたことであろう(まあ、その間は六本木で遊んでいたのだが・・・)。このような場合、放置すれば相手が自分の異常さを証明する。この業界の闇と病は極めて深いものがある。キリスト教赤軍派のようなものだ。

ちなみに、私自身は一切この業界とは無関係、あちこちの大センセイの顔色伺いも不要、ナントカ教団や、カントカ同盟なんぞとも関係がない。かつて首都圏の顔たるボス牧師に義理を通さずに聖会を開いてとんでもないことになった事件があったそうな。どこぞの業界とソックリではないか。

まことに「君子危うきに・・・」ではある。私が今、こうしてYouTubeやPodcastで自由な発信をしていられるのも今の時代であるからなのだ。

聖書は専門書と読む必要がある―裸の王様は裸だ―

IMG_9490.JPG

本日はちょっと江ノ島に初詣に行って参りました。もちろんお参りはしてませんが。いや、本日も富士山が美しかった。

私が霊、魂―知性・感情・意志、そして心などの使い分けにこだわるのは、聖書がその使い分けを厳密にしているからに他ならない。それまでまったく無縁であったニッポンキリスト教とある時から否応なく接触させられて、まず驚いたのは、これらの用語の定義をきちんと与えないまま、恣意的かつ個別的に使用している事。

だから「心の貧しい者は幸いだ」とかを当たり前に理解したつもりになっている。その人にあなたの理解を小一時間伺いたいと言いたくなるのだが。だって、そもそも聖書にそんなことは書いてないのだから! で、ご本人は「自分たちは御言葉に忠実に歩む~」とかのたまっているから、こちらとしては目が点になるわけ。このような事態は自然科学では決してあり得ない。

例えば、重量と質量の違い。素人さんはほとんどその違いを理解することはできないと思うが、「万有引力は重量の積に比例し・・・」とかやると、その人のニュートン力学の理解がまったくナンセンスであることが露呈してしまう。それから先は議論の相手にもされないであろう。医学でも同じだ。用語はきちんと理解して使うもの。その理解はその領域のサイエンティストであれば、すべて一様に共有されるべきものなのだ。すべてのスタートはそこからだ。

しかし、これでニッポンキリスト教なるわけのわからん宗教が構築されてきた理由が理解できた。同じ単語を使っていても、それぞれの理解ー論理学では外延と内包というが―がまったく異なるわけ。それでどっちが正しい・間違ってるとケンケンガクガク。ああ、救われないわ、これじゃ・・・。(まあ、明治以降、聖書は文学者や人文学者あるいは哲学者や思想家たちのおもちゃにされてきた事情があるからね。)

聖書を文学や道徳・倫理や、人生論あるいは神学論として扱ってはならない。いや確かにそのような方面からも読めることは詠めるが、それは数式を理解できない連中が「相対性理論は楽しいことは時間が早く過ぎるが、つまらん時間は長く感じることだ」とか勝手なことをのたまうのと同じ。相対性理論を理解するのは線形代数、特に1次変換が最低限理解できないとイロハにもならない。数学は自然界を記述する言語なのだ。

同じように聖書の単語もすべては聖書自身が定義する専門用語である。例えば、何度も言っているが「信仰」という単語。これを日本語で理解してフェイス(ピスティス)が分かったつもりなっているから、真のフェイスが分からない。その定義はヘブル11章1節に明確に与えられているのにも関わらず(あ、この訳がまた困った訳なわけで)、それぞれの「信仰」があるから、互いに尊重し合えとか言い出す始末。「フェイスはひとつだ」と書いてあるではないか!これが「御言葉に忠実に歩む」人たち、ニッポンキリスト教の現状。

聖書は人間を製造した存在による人間の取扱説明書。人間の構成と病理、そしてその処方を明確に記してある。だから、霊的医学書として読むべきなのだ。ゆえに私は「霊-精神身体医学」を提唱している。それぞれの肝臓の解剖の理解を尊重し合って、それぞれの術式でオペされたら患者はどうなるか?ちなみにあの佐藤優氏も言っている:神学はもっとも低級な学問であり、声がでかいヤツが勝つのだ、と。まことに言えている。

S学会の方々に「日蓮は人間に過ぎない、イエス様こそがホントの神様だ」とか頭に血が上って逆折伏をかける人や、初詣のこの時期に神社の前でスピーカーから暗い声で「あなたの拝んでる神さまは偽物です」とかやってる連中、さらには「元旦にはホントの神さまに初詣してください、教会はあなたを待ってます」とか・・・。なんという興ざめなこと。このセンス自体が人々を遠ざける原因だと理解でないのかな? まあ、クリスマスにラブホが満杯になるこの国もほにゃららではあるが、12月25日なんて元々ニムロデの誕生日だろうに。バビロン宗教のルーツなんだから何でもありで、ご勝手にどうぞだ(あ、病気は蔓延させないでね)。

ほんとこの業界、このままだと一般社会からはまともに相手にされないことになると思う、否、すでになってるでしょ! まことに絶滅危惧種化している。世の人は遠回しにこのニッポンキリスト教なる業界を眺めてそれなりの判断をしているのだから。

今、求められるのはフェイスの覚醒!!!フェイスのパワーに気がつくならば、一挙に状況は変わるのだから。

ちなみに、私も徐々にニッポンキリスト教のDr.内海聡氏化しつつあるかもね(笑) (☜いや、すでにだ、との声が) でもね、誰かが裸の王様を裸だと指摘しないと、お笑いのまま終わりますから。

 

規格化されないこと

 

ruler.jpg

ニッポンキリスト教と関わって一番不思議だったことは、日曜礼拝なるもの。何でも午前10時からのが正式とか言われるむきもあるそうだ。あの式次第があって、「使徒信条」告白から始まって、賛美歌(聖歌)何番、立ったり座ったり、祈りも当番があって、決まりきったセリフで、頌栄とか交読とかやって、献金袋が回ってきて、最後に牧師の祝祷とかで、アーメンと。ああ、ようやくお務めオワリと

私も一応祝祷のセリフは覚えさせられて、やったこともありますが、正直、なんじゃコレと・・・。私のメッセを聞かれる方がよく言われることは、ユニークだとか、型破りだとか、独特だとか、個性的だとか・・・。規格化された世界から見るとそう見えるのでしょう。この業界、「かっみっさまわ~」というあのイントネーションまでもみな同じだからね。臭いはその部屋にいる人には分からないが、外部者にはすぐわかる。家庭の臭いなども。

ニッポンが戦後、ここまで来られたのは工業製品の規格化によることは事実。私がドク論の指導を受けた増山元三郎先生はフィッシャーのお弟子さんで、ニッポンの統計学の父だが、まさに品質管理を導入された方。が、その先生が『コンピューターの部品になりたくない学生諸君へ』(みすず書房)という本を書いているのだ! 社会システムに組み込まれて1枚の歯車として生きるなんて、食うためにただ時間と労力をカネと交換しているだけでしょう。要するに自分という存在を売っているわけ。まことに主は言われた―

だから何を食べ、何を着ようかと、自分の体のことで思い煩うな。空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。天の父がよくしてくださらないことがあろうか。―マタイ福音書

御言葉をカナメとして、いろいろな物差しを持つこと―これ、人生を楽しむコツ。

注:増山先生は実に博学多彩、東大物理の出身だが、あらゆる分野に通じ、英語、フランス語、ロシア語に堪能で、論文も3か国語で書かれた。その本の中で、いわゆるアシュケナジー・ユダヤ人についても触れておられる。つまりハザール人説だ。宇野正美氏が紹介した第13氏族説は別に新しいことではない。ただ、アシュケナジー(偽ユダヤ人)とスファラディ(本物)って二分することはできなでいあろう。まさに神のみぞ知る。今のイスラエルがロスチャの陰謀で生まれて、聖書預言の成就ではないとするクリたちもいるが、私はあの地は神の地であり、あの国にはアブラハムの子孫が守られている信じている次第。アイ・ブレス・ジェルサレム!

邦訳聖書の問題点

これはまことに同意だ。邦訳はあまりにもテキトー、訳者のフィルターの色が付きすぎ。ちなみに私は翻訳本はまず読まない。原書主義。そもそも数学や物理のように専門用語として訳する必要があるのだ。これでニッポンキリスト教のマトリックスができて、クルシチャンが大量生産されるわけ。で、フラストレーションためた連中が狂い出すと。なお、私はプレミレですが・・・。ちなみに写本の問題はおいて、岩波訳は良い。リベラルの人たちの手によるが、専門用語をキチンと定義して用いている。

---------------
tomi 2016/11/05(土) 01:03

日本語訳聖書で手放しで推薦できるものはない

>日本語訳聖書はどれを読めばよいのでしょうか。

メールありがとうございました。

聖書は写本において2種類あります。

1.ビザンチン写本

大多数のキリスト教会において1900年間使用されてきたものです。

2.アレキサンドリア型写本

ウェストコットとホートという学者がそれまで古文書館において眠っていたアレキサンドリア型写本がビザンチンよりも古いと言い出して、現在のほとんどの翻訳聖書に使用されるようになりました。

しかし、ウェストコットとホートはいずれもオカルト秘密結社に属する悪魔崇拝者でした。

しかも最近の研究では、アレキサンドリアよりもビザンチンのほうが古いという説もあります。

アレキサンドリア由来の翻訳聖書NASB、NIVなどには、無数の省略(つまりビザンチン由来の翻訳聖書にある文言の欠落)があったり、オカルト用語が含まれていたりと、信頼に足るとは言えません。

現在、日本語においてビザンチン写本に基づく聖書は永井訳などわずかであり、そのわずかな翻訳聖書も、永井訳は日本語が読みにくいこと、その他はディスペンセーショナリズムなどの異質な神学の影響があり、手放しでお勧めできるものは存在しません。

ただ、ビザンチンとアレキサンドリアの差はマイナーなものであり、メジャーな差は僅少であるため、日本語訳としては私は新改訳聖書を利用していますし、注意書き付きでお勧めもしております。

英語でお勧めできるのは、ジュネーブ聖書です。これは、宗教改革者たちが使用してきたもので、最良の翻訳聖書です。キング・ジェームズ訳はフリーメイソンであった監訳者フランシス・ベーコンの影響があり十分にはお勧めできません。
---------

聖霊派の聖霊知らず

 

昨年、ベニー・ヒンが自分の聖霊論が誤りであると悔い改めたことはすでに書いている(⇒http://www.dr-luke.com/diarypro/archives/4794.html)。私は『リバイバル新聞』に記事を書くことになって、それまでまったく無縁であったニッポンキリスト教と関わらされた。で、目が点になる経験をたくさんさせられた(感謝なことです)。

そのひとつが、「聖霊様、聖霊様、聖霊様」とやる人たちの存在。これは実に意外というか、違和感を覚えた。私にとっては霊的経験はすべて「キリストにあって(In Christ)」であり、呼び求めるべき御名は「ジーザス」のみ。ワーシップもジーザスにフォーカスせよ、と英国のColin Urquhartに指導された。私たちが「ジーザス」を褒めていることに対して、一人の人だけを崇めるのは危険だとおっしゃった人もいたくらいだ。やれやれ・・・。どうも、この「聖霊様」はチョウ・ヨンギ辺りにルーツがありそうだが、ある種の臭いを感じるのだ。キムチ臭というか・・・。

「天に父がいて、隣にジーザス、地上には聖霊様、すでにジーザスの時代は終わり、今は聖霊の時代とか」-これは三神論だとかねてより指摘している。聖霊はジーザスの言葉とわざを証する霊、ジーザスは父のうちにおり、父はジーザスのうちにおり、聖霊により父と子が私たちのうちに住まわれる。ジーザスは父をエミュレートし、聖霊はジーザスをエミュレートする。聖霊はジーザスのメモリーを私たちのうちに実体化してくださる。わたしたちはアダムにあった自分のメモリーによってアイデンティティーを確立するのではなく、新創造として聖霊によるジーザスのメモリーによって生きるのだ。この辺はアンドリュー・マーレーが『キリストの御霊』で説いているが、最近の業界出版界の劣化現象により(それは読者のレベルの反映であるが)、絶版らしい。

当時、『リバ新』に掲載した私の記事に対して、編集部にえらい剣幕で抗議の電話が来たり、一部で不買運動が起きたりもした。私は論説委員を下ろされ、私の著書『真理はあなたを自由にする』は絶版となった。この本は聖霊派には実に不評であったようだ。当時から私は「聖霊様」がおかしいと指摘していたが、ようやくベニー・ヒンが悔い改めて業界の空気も変わってきたようだ(これもなんとも情けないことだが、そもそも自分で聖書をキチンと読んでくださいな・・・)。「聖霊様チャント」を唱えているうちにおかしな霊を招き寄せ、どうみても野鳥の羽であろう「天使の羽」とかで舞い上がる向きもあるわけ。せめてキチンと出るところに出て鑑定してくださいな。舞い散る「金粉」とかもね・・・。それから証ししましょう。そうでないと、神の栄光どころか、主の御名を貶めることになるでしょう。世の人はもっと冷静ですから!

というわけで、ちょっと苦言を呈しましたが、後はこちらをどうぞ。

・御霊と人の関わりについて-油注ぎと油塗り(⇒http://www.kingdomfellowship.com/Topics/Anointing.html
・ 油注ぎと油塗りについて(⇒http://www.kingdomfellowship.com/Ministry/q&a/Q&A_3.html
・ニッポンキリスト教の七不思議-加えて八不思議になりした-(⇒http://www.kingdomfellowship.com/Ministry/q&a/7wonders.html

追記:この機会に-私はいろいろな雑誌や新聞に記事を書いたりしておりますが、ニッポンキリスト教のいかなる教団・教派・組織・学校・メディア、さらにナントカ派やカントカ主義とは一切関わりがありません。あちこちの先生たちに義理もなければ、気を遣う必要もありません。よって言いたいことは言わせていただくのスタンスであります。そこんとこ、ヨロシクcool

ニッポンキリスト教とクルシチャンの生まれるワケ

私もメッセでつねに指摘しているが、邦語訳は写本以前に訳語があまりにもテキトー過ぎる。これでニッポンキリスト教とクルシチャンが生まれる。再建主義の富井氏の指摘。まことに同意だ。
http://www.millnm.net/cgi-bin/wwwboard.cgi


-------------------------
tomii 2016/08/16(火) 04:31

聖書に手を加えてはならない!

1.
ルカ4・4は、新改訳では次のようになっている。

イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではない』と書いてある。」

しかし、キング・ジェームズ訳では『 』の部分に「神のすべての言葉によって」という意味の文言が追加されている。

And Jesus answered him, saying, It is written, That man shall not live by bread alone, but by every word of God.(KJV)

新改訳と同じように省略されているのは、いわゆるニューエイジ訳と呼ばれる以下のものである。

Jesus answered, “It is written: ‘Man shall not live on bread alone.’”(NIV)

And Jesus answered him, “It is written, ‘MAN SHALL NOT LIVE ON BREAD ALONE.’”(NASB)

And Jesus answered unto him, It is written, Man shall not live by bread alone.(American Standard Version)

原語はどうなっているのかというと、Textus Receptus及びビザンチンには”but by every word of God”の部分があるが、ウェストコットとホートとアレキサンドリアにはない。

http://www.greeknewtestament.com/B42C004.htm

つまり、新改訳をはじめ、アメリカの新しい翻訳と呼ばれるものがウェストコットとホートの影響を受けており、アレキサンドリア写本に基づいていることが推察できる。

2.
1ペテロ2・2で、新改訳において「純粋な、みことばの乳」と訳されている個所は、KJV及びNASBでは同じように訳されているが、NIVとASVでは「純粋な、霊の乳」と訳されている。

生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。(1ペテロ2・2)新改訳

As newborn babes, desire the sincere milk of the word, that ye may grow thereby:(KJV)

Like newborn babies, crave pure spiritual milk, so that by it you may grow up in your salvation,(NIV)

like newborn babies, long for the pure milk of the word, so that by it you may grow in respect to salvation (NASB)

as newborn babes, long for the spiritual milk which is without guile, that ye may grow thereby unto salvation;(American Standard Version)

原語では、Textus Receptusとビザンチン及びウェストコットとホート、アレキサンドリアとも、問題の個所について差異はない。

http://www.greeknewtestament.com/B60C002.htm#V2

"logicon adolon gala"は「合理的で純粋な乳」という意味であって、「御言葉の」も「霊の」も入っていない。

"logicon"は「ロゴス」からきている形容詞で、「合理的な」「理にかなった」という意味である。

それゆえこの個所は次のように訳すべきである。

生まれたばかりの乳飲み子のように、合理的で純粋な乳を慕い求めなさい。それによって成長(し、救い)を得るためです。

*(し、救い)の部分はアレキサンドリア及びウェストコットとホートの場合。

「ロゴス」はヨハネ福音書では適切に「言葉」と訳されているので、それとの関連性から「純粋な御言葉の乳」と訳すことができるかもしれない。

しかし、「純粋な霊の乳」という翻訳はない。
「霊の」にあたる原語は含まれていないからだ。
1と2を見て、思うことは、なぜすべての聖書が「付け加え」を行ったのだろうか。
私はこのような人為的な追加及び削除を行ってはならないと思う。
「純粋な御言葉の乳」とか「純粋な霊の乳」とかよりも「合理的な純粋な乳」と原語どおりに示されれば、その暗喩の部分について読者は意味を探ろうと頭をひねる。
それを含めて神の御心である。

聖書に手を加えてはならない!

腹をくくる時代

20160722-1.jpg

ニッポンキリスト教で「リバイバル!リバイバル!」って叫んでる連中は何かとんでもなく勘違いしていると思う。使徒行伝を見てみると、キーワードは「騒乱・混乱」。

17:6 世界中を騒がせてきた連中が、ここにも来ています。

24:5 さて、この男は、疫病のような人間で、世界中のすべてのユダヤ人の中に騒ぎを起している者であり、また、ナザレ人らの異端のかしらであります。

世を騒がし、騒乱を引き起こし、「疫病のような人間」、「異端のかしら」と言われる覚悟があるかどうか。今の状態は「あなたの街のお気軽な教会♪」とかって、去勢されて世に媚びてるわけでして。ヒューマニズムの砂糖まぶし、そろそろそれも見透かされているのだが・・・。

神の霊から生まれることの奥義

世の最も最悪の悲劇。それは御霊から生まれていないのに、キリスト教徒となる人。自分は"クリスチャン"と思っていても、霊的にはまったく異なる人。霊がもとより異なるから、決してキリストのいのちを共有し得ない。キリスト教のマトリックスの中に拘束される。しかも拘束されていることにすら気がついていない。先に紹介したJarrod Cooperのエクレシアで起きるような神のタッチを受けることもない。むしろ彼らにとってはこのような場面は集団ヒステリーかなんかに見えることであろう。

I came to be in the Spirit on the day of YAHWEH, and I heard behind me a great voice, as of a trumpet,-Rev 1:10 (HRB)

が、神のタッチはわれわれの体をも支配する。きわめてタンジブル、手で触れることができるのだ。私は体全体が神の霊のバイブレーションに共振する。それは神の愛による束縛。エクスタシーなのだ。栄光はカボド、その意味は重さ。神の霊が臨むとき、それはヘヴィー。文字通り立っていられなくなる。

祭司たちは雲のために立って仕えることができなかった。主の栄光が主の宮に満ちたからである。-1Kin 8:11

神の霊から生まれた存在はエロヒム。神のいのちの霊をインプラントされた存在であり、神聖である。それは神の新創造、ニュークリーチャー、そしてニュースピーシーズ。われわれはエイリアンなのだ。ゆえにそのいのちはキリストと共に神のうちに隠されている。まことにそれは奥義、ミステリー。だから、誰かれに明らかにされる性質のものではない。オツムの空転現象に陥る人々には理解得し得ない領域の経験なのだ。

魂の人にとってはそれは愚かであり、決して理解できない。霊のことは霊によってのみ理解できるからだ―1Cor 2:14

愚かな者とされること、あるいは狂信者とされること。これは、霊の人にとっては最高の栄誉だ。自分は世の物差しではなく、神の国の物差しで生きていることの証明だから。それは彼らとは物差しが違う世界に生きていることが明らかにされる絶好の機会なのだ。

霊の人は誰からも判断されない・・・私たちはキリストのマインドを持っている。-1Cor 2:15-16

フェイスの覚醒はすなわちキリストのマインドのアクティベーション。聖書がまったく異なる光の中で見えるようになる。それは解き明かしとか、互いの意見をすり合わせる話ではない。御言葉が3Dとなって浮き上がってくる。ジーザスの息遣いも感じるほどに。WOW!!!

ちなみに、「ニッポンキリスト教」という用語はDr.Lukeオリジナルではないことは何度も指摘している。鹿島春平太氏の造語だ。彼は著書の中で「ニッポンキリスト教は最初から闇の中である」と指摘されている。最近、FBにおいて同氏からリクエストをいただき、友人としてリンクしていただいた。日本でキリスト教が広まらない理由はすでに明らかであろう。胡散臭いし、束縛感があるし、せっかくの日曜につまらん牧師の説教聞くために時間を取られたくないし・・・。教会も世に媚びている、あなたの街のお気軽な教会♪・・・とか。すでに見透かされているのだ。

でも、けっこう関心だけはあるのだ。聖書は50万冊毎年売れている隠れたベストセラーである。御言葉をダイレクトに提供すること。砂糖まぶしが無意味であることはすでに明らか。あなたは愛されるために生まれたとかのスローガンも・・・。まさに直球勝負の時代である。

UNSEEN REALM SEMINAR by Dr.Heiser

このDr.Heiserによるセミナー・シリーズは必見だ。いわゆるキリスト教神学に幽閉されると元々聖書が啓示している見えない領域から外れたところでオツムの空転現象を起こすようになる。歴史的に二千年の間で組織されてきたキリスト教神学、特に西方のものは哲学や主知主義に汚染されているのだ。ヘブル語ワールドで啓示をとらえる必要がある。

追記:本日のプレイヤーMTG、かなりすごかった。迫りが手に触れる感覚。「臨在」とはパニーム、顔だ。「栄光」とはカボド、重さ。臨在による栄光はヘヴィーなのだ。立っていられない。日本語マトリックスでは完全に本意を外す。

しかし、「私たちはエロヒムだ」には相当に抵抗感があるようだ。ニッポンキリスト教では「神」とか"God"のマトリックスの回路で考える人がほとんどな のだろう。「ニュー・クリーチャー」とか「ニュー・スピーシーズ」はきわどいところでセーフのようだが、「ネオ・ホモサピエンス」とか「スーパー・ヒュー マン」あたりになるとすでに抵抗感が出るらしい・・・。

すべてはマインドのマトリックスから生まれるのだが、それにすら気づかないで、脊髄反射的に反応してくる方々もいる次第。せめてヘブル語を調べてからにしてほしいのだが・・・。繰り返すが、聖書はiPSやSTAPと同じ生命現象の書である。

追記の追記:FBでの反応―

A氏:「私たちはエロヒムだ」  確かに最初は大丈夫ですか~って思いました。しかしよく考えたら神の子なのだから、蛙の子は蛙、鳶の子は鳶、神の子は神。御使いを捌くほどの者という意味もなるほどです。ありがとうございます。

小生:エロヒムを「神」とか"God"とラベルを貼ることが罠になります。YHWHを"LORD"にしたりとか・・・も。私の固有名詞を勝手に「主人」とされても 困るわけでして・・・。言語はそれ自体がマトリックスですから、日本語や英語にした時点で本意からズレます。エクレシアも「教会」とするからニッポンキリ スト教ができるわけです。これで日本語の中でああでもない、こうでもないとグルグル回り、まことにお疲れさまです。

加えると、ポイメンを「牧師」とか・・・。これで「牧師先生」と呼ばないと怒り出す輩が出るわけでして。新共同訳では「牧者」ですけどね、さすがに(笑)
 
追記の追記の追記:ついでにちょっとショッキングな事実を。"GOD"って単語、何気に一般名詞的に使ってますが、元々はバビロニアの神の固有名詞なんですね。言語のマトリックスの罠は予想以上に広がっている次第。

ニッポンキリスト教の病巣部

なんと爽快なラン!実に気持ちイイ!

さて、さて、この記事、これはまだとっかかりに過ぎない。この業界の病巣はかなり深くかつ広範に浸潤しているのだ。いわゆる有名どころの団体や先生たちも実は何気に絡んでいる模様。主がどこまで取り扱われるか、公義がなされる時代ではある。

-無認可サポート校、成績捏造し難関大へ

 

私たちはエロヒムである―ヘブル語の回路

私は日本語で聖書の真理を考えるな。それはニッポンキリスト教を生み出すだけだ。言語自体がマトリックスであり、霊的真理をそのマトリックスの回路に乗せて考えてはならないと言ってきている。その最たる例が神の名前である。いわゆる「神」とか"God"とか、最近では「創造主」とかするむきもあるが、同じ罠に陥っている。

20160705-1.jpg

In the beginning God created the heaven and the earth.

もちろん創世記1章1節だ。これはKJVだが、このように英語に置き換えた時に、すでに真理は削られている。神はヘブル語の言語体系の中に霊的真理を啓示された。これをHebraic Root Bibleを見るとこうある―

In the beginning Elohim created the heavens and the earth;

英語では"God"とされている単語は"Elohim"、それは複数形。メッセでも語ったが、通常、この複数形は父・子・聖霊の三位格を含意しているとする。現に動詞は単数形で受けている。ところがこの"Elohim"はあちこちに散見するのだ。通常、"gods"とか「神々」と訳され、それは人間が生み出した偶像の神々であるとする。ところがだ、詩編にこうある― 

[A Psalm of Asaph.] Elohim stands in the company of the Almighty El; He judges in the midst of Elohim.
Until when will you judge unjustly, and lift up the faces of the wicked? Selah.
Vindicate the poor and fatherless; do justice to the afflicted and needy.
Deliver the poor and needy; and save out of the hand of the wicked.
They neither know nor will understand; they walk in darkness; all the foundations of the earth are shaken.
I have said, You are Elohim, and all of you are sons of the Most High.
But you shall die as men, and fall like one of the rulers.
Rise, O Elohim, judge the earth; for You shall inherit in all the nations.―Ps 82:1-8(HRB)

人間が作り出した偶像の神々ならば、何故会議など開くのだ? 直訳すると―

エロヒムは最も高きエル(単数形)の会議において立ち、エロヒムの間で裁きを行われる(1節)。

わたしは言う、あなたがたはエロヒムだ。最も高き方の息子たちである。しかし、あなたがたは人として死ぬ。支配たちのひとりのように落ちる。起きよ、おお、エロヒム、地を裁け。なぜなら、あなたがたは国々を受け継ぐのだから(6-8節)

この部分を受けて主はこう言われる―

イエスは彼らに答えられた、「あなたがたの律法に、『わたしは言う、あなたがたは神々である』と書いてあるではないか。 神の言を託された人々が、神々といわれておるとすれば、(そして聖書の言は、すたることがあり得ない) -John 10:34-35

と、ましてやご自分が神の子であることを論証している。

さて、ここで問題は、私たちは人ではないか、なぜ神になれるのだ?よく「神化(Theosis)の教理」と呼ばれ、東方教会では普通に信じられている。西方ではいわゆる「聖化」だ。このときに、人が神になる?と考える人のマインドには<神=God>なる等式があるのだ。しかも、その<God=父・子・聖霊の三位格にいまして本質においてはひとりの神>とのマトリックスができている。ゆえに、あり得ない!となるわけ・・・。前に私がウィットネス・リーと同じことを言い出したとコメント欄に書かれた方がいるが、リーは神性と人性を混ぜ合わせて、神格は持たないいのちと性質において神になると言うのだ。まったく違うと言っておく。彼の"mingling(混ぜ合わせ)"の教理はナンセンスだ(こちらを参照)。

20160705-2.jpg

さて、ここでカギになるのは、ジーザスは自分を「わたしはある」と言われた(John 8:58;18:6)。この箇所は日本語訳では間の抜けた表現になっているが、ジーザスは「I AM」と言われたのだ。つまりYHWH!モーセにご自分の名を明かされたとき、主は「わたしはありてある者」と言われた。これが最も高きエロヒムであるYHWHなるお方だ。ポイントがお分かりか?創造主なるお方はエロヒムであり、いろいろおるエロヒムの中の最も高きお方、その御名がYHWHである!

HRBの詩編82章の注にはこうある―

1節について―

A clear description showing the plurality of the Elohim family and Yahweh judging in the heavenly court.

6節について―

It is the wonderful potential of human beings to repent of their sins and be baptized in the family name of YHWH and have an elder lay hands on them for the receiving of the Ruach H'Chodesh (Holy Spirit) and become a literal child of Elohim, Joh_10:34, Rom_8:14-17.

一応訳しておくと―罪々を赦され、ファミリーネイムYHWHの中にバプテスマされ、長兄によりルアハ・ハ・コデシュ(聖霊)を受けるために手を置かれ、エロヒムの文字通りの子とされた人類の素晴らしい可能性である。―これが私が、私たちがエロヒムである、と言う意味である。私は「私たちはYHWHである」とは言っていないことに注意してほしい!ヘブル語の回路に入るのだ。「私は神(God)である」と英語や日本語のマトリックスの中で考える人にとっては、トンデモ発言になろうが、それはその人のマインドのマトリックスを顕わにしているに過ぎない。勝手にオツムが空転加熱化するだけである。

私は前々から、私たちの霊は神の霊から生まれ、神のDNAを得ており、それは神聖な存在であり、神属(族)であると言ってきた。まことにこの理解はヘブル語の原典に忠実であったことがHRBやDr.Heiserの著書により、今回、証明されたのだ。いわゆるキリスト教神学、特にニッポンキリスト教のマインド・マトリックスを大きく逸脱する言説とは思うが、彼らが聖書から外れているに過ぎない。私たちはすでに完全であり、神聖な存在神属人類であり、ニュークリーチャー新生命体なのだ!それは神をエミュレートする。まったく新しい種であるから、これまでのマインドのフレームをはるかに逸脱する。ゆえに古いフレームから判断することなかれ。それは神の言葉を裁くことになるから。

and to the congregation of the first-born, who are enrolled in heaven and to YAHWEH the judge of all; and to the spirits of the just, who are perfected;-Heb 12:23(HRB)

詩編82編にはエロヒムの会議が描写されていた。そこでは最も高き方(比較表現があること自体が他にエロヒムが存在することを意味するのだ)が裁定を行っている。そしてここのヘブル書においては私たちが得た(完了形!ここも邦語は誤訳)のは、

シオンの山、生ける神(エロヒム)の都、天にあるエルサレム、無数の天使の祝会、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者なる神(YHWH)、全うされた義人の霊

なのだ。これもエロヒムの会議である!私たちのいのち(Zoe)はキリストと共に神のうちに隠されている(Col 3:3)。考えて見よ。なぜ不完全な汚れた地的な存在が神のうちに隠されることがあろうか。血肉は神の国には入れない。なおさら、神のうちにあり得るはずがない!私たちの本質は霊であり、それはYHWHなる家名を持つ神(Elohim)なのだ。われわれ神の霊から生まれた存在は神属人類、エロヒムである!WOW!!!

神の敵、サタンはこのことが開かれることを恐れ、また嫌悪する。ゆえに躍起になってこの真理を攻撃し、封印しようとするのだろう。このことに関して彼は歯ぎしりをする。なぜ?それは彼自身が神になりたかったからだ。ゆえにその嫉妬と妬みが燃えるのだ。確かにこれは挑発的でもある。果たしてあなたはこの真理にアーメンするであろうか、それとも異端・カルト思想として拒絶するであろうか?これによりそれぞれの内にある霊の本質が明らかにされ、その後の霊的歩みを決定するであろう。ルアハ・ハ・コデシュならばそれは大いなる喜びにして、興奮を覚えるはずである。

追記:キリスト教のマトリックスから解放されよ。五感によって見ることなかれ、判断することなかれ。この体は罪を宿す旧創造、また魂はいろいろと欠けがある。が、霊はパーフェクト!聖書はそう言っている。そのパーフェクト性がこの肉において現れるのだ。フェイスにより!ハレルヤ!

ご紹介:Dr.Heiser

いわゆるキリスト教がいかにマトリックスに過ぎないかが分かります。私がこれまで語ってきたことをヘブル語のレベルで裏付けてくれているsmile

Pagination

  • Page
  • 1
  • 2

Utility

CALENDAR

09 2017.10 11
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -

MOON AGE

WORLD CLOCK

COUNTER

    Access.....
    Yesterday......
    Today............

RANKING

    ブログランキング・にほんブログ村へ

KF_SITE

FOR MEMBERS

APPLE iTUNES STORE PODCAST

YOUTUBE ARCHIVE

OLD iDLE UTTERANCE

OUR WORSHIP

TWITTER UPDATE

INSTAGRAM UPDATE

PRAY FOR ISRAEL

QRcode

BIBLE SEARCH

ENTRY SEARCH

Recent Trackback

Re:リアリティーとは何か?
2017/10/21 from 承認待ち New!
Re:リアリティーとは何か?
2017/10/20 from 承認待ち New!