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Tag: NOWize

「フェイスで生きる」は理想論?-脱キリスト教のすすめ

今朝のジョッギング中、池の水鳥が一斉に飛び立った。えっと思うまもなく、ズドンと地震が。横浜で震度4。直下型だ。彼らは感知するのだ。彼らにはそのような能力、パワーがある。知性はないだろうが、本能が機能しているのだ。動物はその本能によって生きている。それが人間の能力をはるかに超えることは衆知のことであろう。精神分析の岸田秀氏は、人間は本能が壊れたため、知性によって幻想の中に生きるはめになったと言っているが、まことにそれはそのとおり。現実から遊離している。たとえば動物の生殖行動はあくまでも子孫維持のためだが、人間は必ずしもそうではない。だから人間の性行動は多かれ少なかれ倒錯しているのだ。

では、クリスチャンは何によって生きるわけ?義人はフェイスで生きる、聖書に明確に書いてある。しかし、しかし、キリスト教徒の多くは、実はこう思っている。それは理想論。現実はそんなに甘くない。見てみよ、世は混乱、キリスト教界もスキャンダルだらけ、信じたってガンで死ぬ人もいっぱいいるではないか。所詮、カネがなかったら生きられない。フェイスで腹が満たされるのか。いい加減、現実を直視してみろよ。Dr.Lukeは最近、おかしくないか?

実は、こういった声があることは私の霊が感知している。彼らは自分で勝手に作り上げた「フェイスで生きる」の幻想を追っかけているに過ぎない。この業界を覆っている霊はこのようなものである。しかし、そういうあなたは何によって生きているのだろうか?才能?カネ?会社?地位?学歴?人間関係?社会保障?・・・人はそれぞれに何かによって生きているのだ。それが当たり前になりすぎて、自分では意識できないほどに。あなたは無意識的に何かによって生きているのだ!が、ときにそれが崩される瞬間が来る。その時、人は動揺し、混乱し、恐れと不安に見舞われる。もし、キリストにのみよるのであれば、それはけっして揺るがされない。

それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。-Matt 7:24-25

この岩とは、いわずもがな、キリストである(1Cor 10:4)。かつて『真理はあなたを自由にする』において、「フェイスはI AMの実体化だ」と書いた。まことにそのとおり。イエスはご自分を「エゴ・エイミー」、すなわち「わたしはある」と言われた。そう、I AMだと言われたのだ。御子は神のサブスタンスの現出(Heb 1:3)。その方をsubstanciation、実体化すること。これがフェイス。霊的法則(フェイスの法則)は物理的法則を超える。重力の法則に飛行の法則が打ち勝つように、フェイスの法則は物理的法則を支配する。ないものがあるようになる。神はないものをあると呼ばれるお方。その神のフェイスをわれわれにも持てと言われるのだ(Mark 11:22)。神はフェイスを語り出して創造のみわざをされた。原則は同じ。われわれもフェイスを語り出すのだ。

神のバイブレーションは全地に満ちている(Ps 19:4)。そのバイブレーションと私たちの霊を共鳴させること。これがフェイス。そのバイブレーションが私たちのマインドに言語化あるいは映像化されるとき、それを語り出す。するとそれが現出するのだ。おいおい、Dr.Lukeはニューエイジかグノーシスにはまっているのではないか?と言われるむきがあることももちろん承知。が、イエスはそのようにしてみわざをしたであろう。Are you with me? キリスト教徒はオツムだけの、肉汁の抜けた筋張ったステーキを食わされている。ニューエイジの方がよほど霊的法則を知っている。繰り返すが、ヘブル11章1節のフェイスには定冠詞がない!彼らはそのシックスセンスであるフェイスを、間違った方向ではあるが、使っているのだ。ゆえに、ナントカ神学とかカントカ主義などよりも、元ニューエイジや悪魔礼拝をしていた人々の証は霊的世界に関して実に学びとなるのだ。

キリスト教なる宗教から解放されよ!

啐啄同時-フェイス・オーラに生きること

これ、禅の言葉。卵から雛が孵るとき、殻を内側から突く雛と、外から突く親のタイミングが一致するとき、無事に雛が現れることだ。機を得て両者相応じる得難い好機のこと。『碧巌録』にある鏡清禅師の逸話。

すでに何度も書いている末期ガンのご婦人も私が語ったから癒されたのではない。認知症のご婦人は私ではなく、その親族の姉妹が祝福を語っていた。いわゆる"癒しの器"と称する人々をありがたがるニッポンキリスト教の傾向はもうそろそろ卒業しろよと言いたいが、人は金の仔牛を求めてしまうものなのだ。

末期ガンの姉妹はすでにフェイスによって抗がん剤をご自分でやめていた。こんなので体力を消耗して寝たきりになるより、残された時間をすべて主のために捧げたいと。たとえ自分は死んでも良いと・・・。まことに主の御手の中に自分を投げ出されていたのだ。ペテロのようにコンフォートゾーンから波の上に一歩足を踏み出していた。主は彼女のその行いを伴ったフェイスをすでに受け入れて下さっていたのだ。そこに私が関わっただけ。認知症のご婦人は私自身はまったく関わっていない。

イエスご自身も故郷では不信仰のゆえにほとんどみわざを成し得なかったとある(Matt 13:58)。鍵は何か?もちろんフェイスだ。イエスの元にフェイスによって来た者はみな癒された。時に主は、相手の不信仰にも関わらず癒すと言われることがある。それはまことに神の一方的憐れみとパワーの証、ご自身の証である。しかし、一般的には互いにフェイス空間、あるいはフェイス・オーラの中におれば、なお一層容易に神のわざは現れる。

フェイスってなに?終わりの時代、今、ここで改めてそれを再確認する必要があろう。

イッツ・フィニッシュト!

十字架におけるイエスの最期の言葉だ。「完了した!」(John 19:30)。何が? 罪の赦し、アーメン。これは自分がクリスチャンと思っている人はみな割と簡単に言える。病の癒し・・・・うん? えっ、でもガンで亡くなる人もいるし・・・。アーメンとクリアカットに言えないむきがけっこう多い。貧しさからの解放・・・はあ、繁栄の神学ね、あれは異端だよ。特にニッポンキリスト教では現状を見るに、とてもではないがアーメンとは言えない人がほとんどであろう。

では、彼らに聞いてみる。あなたは聖書66巻が神の霊感によって書かれたことを信じていますか?まあ、リベラルはともかく、いやしくも福音派を自称する人々であれば、看板の手前にしろアーメンと言わざるを得ないであろう。

彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。
われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。-Isa 53:3-6

イエスは私たちの罪と病を負われたと明確に書いてある。それだけではなく、イエスは病を知っていた?彼には罪がなかったのに?しかし彼は罪とされた(2Cor 5:21)。イエスはその肉体に罪と病を負われ、否、罪と病そのものとされて裁かれた。それによりわれわれはゆるされかついやされた。いや、この病とは霊的なことを言うのであって、必ずしも肉体の病を言うのではない。と、言われるむきがあることも承知。しかし、それはあなたの解釈にすぎない。あなたの認知のフィルターだ。書いてあることは書いてあるとおりに、だ。いや、それは聖書をそのまま受け入れる原理主義カルトだ。まあ、このようにしていくらでも御言葉を毀損することはできるのだ。

鍵は何か?あなたのフェイス、すなわち御言葉に対する応答に従って、あなたはこれらの霊的サブスタンスを享受し得る。ここで現代人の私たちにとっては、罪の赦しを語ることは病の癒しを語るよりも容易なのだ。なぜ?前者は目に見えないが、後者は目に見えるから。共に十字架において完了した事実、霊的サブスタンス、リアリティーなのだが、それをこの五感の世界に現出させることにおいて相違がある。だから病の癒しを語ることは臆してしまう。私自身そうだった。一応博士号を持つものとして物質至上主義的というか、サイエンスかぶれというか、そんなマインドに閉じ込められていた。

神は私を癒してくださるかどうか、ではない!すでに癒している!フェイスは永遠のNOW。あなたはすでに癒されているのだ。それをこの五感の領域、物理的時空間に現出させることがフェイスのパワー。では、もし癒されなかったら?・・・必ずこの疑問が出る。が、あえて言うと、すべての人を偽りとしても神を真実とせよ(Rom 3:4)!神のわざと意志に問題があるのではない。私たちのフェイスの有無が問われるのだ。フェイスは辛子種一粒で十分。サイズや強さの問題ではない。あるかないか。私たちには神の国の鍵(複数形)が与えられている。

わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。-Matt 16:19

この新改訳の時制は正確だ。天においてすでに成就している事柄(サブスタンス)を地で執行すること。これが私たちのフェイスのパワーだ。よくニッポンキリスト教で言われる言葉がある。通り良き管となると。何を通すわけ?天のサブスタンスである。その方法は?

「私は信じた。それゆえに語った。」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語るのです。-2Cor 4:13

神の霊のバイブレーションと共振した私たちの霊はフェイスを生む。そのフェイスを語り出すこと。

わたしは唇の実りを創造し、与えよう。平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。わたしは彼をいやす、と主は言われる。-Isa 57:19

これが神の約束であり、地における天のサブスタンスの成就である。ついでに繁栄についてはこう書いてある。

あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためである。-2Cor 8:9

このコンテキストは物質的富を取り扱うこと。考えてみよ、主の誕生の際に贈られたゴールドはいかほどのものであったか。主は一枚織りの下着を着ておられた。これは高級品だ。だからローマ兵は破ることをせず、くじ引きをしたのだ!再度、というか、何度も繰り返す。

宗教の霊から解かれよ!

義人はフェイスで生きる

宗教から解かれよ!

ことばとフェイス

語り出された言葉、レーマはフェイスそのもの。フェイスは私が努力して信じます、信じます、とやることではない。神の声を聞いたら、それが即フェイス。内なる霊に共鳴する神の霊のバイブレーションが魂のマインドにおいて言語化あるいは映像化される。すると心にそれが焼き付けられる。その時点で、体に症状があろうと、目の前にまだカネがなかろうと、問題がそのままであろうと、すでに得たと分かる。すると不思議なほどに笑いがこみ上げるのだ。

繰り返すが、ちょうど宝くじの当選券を持っているようなもの。霊的領域のサブスタンスは真理(Truth)、この五感の世界の現象は事実(Facts)。私たちは事実を取り扱うのではない。真理を、今、ここに、下ろすのだ。どうやって?語り出すこと。ことばにはリアリティーを作り出すパワーがある。ポジティブなものであれ、ネガティブなものであれ。take dominion! ねじ伏せても事実を真理に従わせること。

先に紹介した末期ガンのご婦人は、その後糖尿病も、白内障も癒されてしまった。それに関与した私自身がほんとかな?と感じているほど、あっけに取られているのがホンネ。特養に入っておられた車椅子の認知症のご婦人が立ち上がり、家族の名前と顔が分かるようになったばかりか、不義理を謝ったと、そして他の入所者のお世話まで始めたと・・・アンビリーバボ。共に断食祈祷や徹夜祈祷をしたわけでもない。何気に語っただけ。

神のバイブレーションに共振して私たちの口から語り出されたことばは神のことばそのもの。人なるイエスは同じメカニズムでわざをなされた。彼の語ったことばは父のロゴス、彼のわざは父のわざ。ゆえに私たちもイエスと全く同じわざ、さらにそれ以上のわざをなし得るのだ。根拠は、イエスが父の元に行かれるから。私たちが霊的に形成されているとか、難行苦行しているとか、素晴らしい人格を持っているとか、一切関係ない!それはイエスのあり方に基づくこと。この意味ですべてはスーパーナチュラル。しかもそれはフェイスに生きるわれわれにとってはナチュラル。癒しも奇跡も全ては当たり前のことなのだ。

鍵は、フェイスの覚醒。私たちは自分が「信仰」と思っていたことが実はフェイスではないことに気がつく時が来る。フェイスって何?この疑問に立ち至った人は、実は幸い。今、ここで、永遠のNOWが切り込んでくる経験。フェイス!WOW!

バイオレントなフェイスの覚醒

よくニューエイジ系では"mind over matter"という。物質を精神でコントロールできるというわけ。確かにアダムに対する神の当初の委託は

神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。-Gen 1:28

この「地を従わせよ」の原語はStrongによると

kâbash
kaw-bash'
A primitive root; to tread down; hence negatively to disregard; positively to conquer, subjugate, violate: - bring into bondage, force, keep under, subdue, bring into subjection.

と、かなり強い意味がある。力づく的な要素もあるのだ。で、地(ertz)を征服せよ、服従させよ、束縛せよ、足下に置け・・・など。これってどういうこと?地面を従わせる?はあ?「地」の意味はかなり広範であり、Strongによれば、地面の他に国々、道路、荒地、そして世界の意味がある。イエスは言われた、御心が天になるとおり、地にもなるように祈れと。そして神の国は激しく襲われているとも(Matt 11:12)。KJVでは"suffer violence",暴力的なのだ。まことに創世記の命令と対応する。

マルコで足萎えを家の屋根をぶち抜いてイエスの赦しと癒しを受ける行為などまさにバイオレント(Mark 2:4)。盲人の目につばでこねた泥塗りたくり、目も空いてないままにシロアムの池に行って洗えと命じたイエス。メッセでも語ったがシロアムの池は急階段を降りるのだ。はあ、主よ、なんと過酷な要求をされますか?と私たちのマインドは考える。これなどもまさにバイオレント。あるいは異邦の女が娘の癒しを求めた際、犬に与えるパンはないと言われたイエス。現在のキリスト教のなよなよした自己憐憫的な光景とはまったく相反する。イエスは実にバイオレントかつダイナミックだったのだ。

地を従わせよ!この命令は実にバイオレントかつダイナミックな命令であり、天を裂いて地に介入されたイエスの行為を見れば、いわゆる「きよく・ただしく・まずしく・うつくしく」といったキリスト教のイメージとは全く異なることが分かる。ツタの絡まるチャペルで乙女が祈りを捧げる・・・といったお上品なものではないのだ。天のサブスタンスをそのまんま地にもたらすこと。それはきわめて力づくの行為。もちろん肉のものではないが・・・。神の国のパワー、すなわちデゥナミスはダイナマイトの語源。それは炸裂、さらには爆発するのだ!ぶち抜くパワーだ。覚醒せよ、このデュナミスに!罪、病、欠乏、絶望、束縛・・・これらのおよそ天に相応しくないものを爆破するのだ。そして天の要素、義、健康、豊かさ、希望、解放・・・をもたらすこと。これが福音の力(Rom 1:16)。それはまことに

地を従わせよ!

のNOWiseである。"mind over matter"ではなく、"spirit over matter"である。

フェイス-物質と霊の相互作用

かつてユリゲラーなどの超能力が話題になった。金属は力を入れずに曲がったり切れたりはしない、と私たちのマインドは思っている。根拠は常識、経験、サイエンス? が、それはマインドが作り出したマトリックス。一時脚光を浴びた清田益章氏(すでにクンではない、オッサンだ)、彼は言う(要旨のみ)-

だれもの心に「思い」が浮かぶがそれは泡のようにすぐに消える点のようなもの。「想い」は相手がいて、点と点を結ぶ線となる。さらに「願い」になるとこれが面を構成しアクションを起こす。そして「念」は今の心、さらに「祈り」へと発展する・・・。未来は「未だ来らず」の世界、人は今にしか生きられない。自分がスプーンを曲げる時、5分後のスプーンが切れた状況が心にありありと浮かび、実に豊かな世界を作る。その5分後の今を、この今に展開させるとスプーンは切れる・・・。

まさにフェイスの証。ヘブル11章1節のフェイスには定冠詞はない(Heb 11:1)。つまりクリスチャンのフェイスに限らないのだ。人は神の形に造られ、地を治めよ、と権威を委託された存在。地とはこの五感で感知する物理的世界だ。サイエンスによって幾分かは成就していると言えるが、逆にそのサイエンスのマトリックスに閉じ込められているのが現代人。よって清田氏の現象もインチキと見たくなる。が、アダムが得ていたパワーはどれほどのものか。堕罪の結果、そのパワーは潜在化した。たまたま清田氏のようにそれが顕現するといわゆる超能力となる。それは、実は、決して「超」能力では、そもそもないのだ。アダムにとってはごく普通の能力だった・・・。

物理的時空間において五感の世界で聖書を読むと、きよく・ただしく・まずしく・うつくしく・・・のキリスト教という宗教体系が出来上がる。それは人のマインドが構成するマトリックス。その中で散々苦労するクルシチャンたちがほとんどの現状。キリストはアダムが失ったものをすべてゲットバックされた。血によりその代価を完全に支払われた。否、アダムの原状復帰にとどまらず、彼が取り損なったいのちの木の実として、彼が神に至るにはわずかに足りない要素を埋めた。われわれの霊は神から生まれた存在。それは神性を帯びている(2Pet 1:4)。私たちは神の性質をシェアする存在。神は肉をとおしてそれを現される(1Tim 3:16)。肉から生まれた私たちが神になるのではない。神性を有する霊が新しく誕生するのだ。霊から生まれるものは霊である。私たち自身がキリストにならいて的生き方をしたところで、それは文字通りの猿真似。キリストご自身が生きるのだ(Gal 2:20)。しかし肉にあって生きている私もいる。それは御子のフェイスによって生きる。これがガラテヤ2:20の説くところ。

イエスは人としてすべてのことをなされた。彼のうちにおられる父の言葉を語り、父のわざをなした。彼は自分からは何一つしていない。つまり彼のわざはすべて父なる神のわざ。これと同じ霊的メカニズムが私たちにも働く。新しい生命体とされた私たちはキリストと同じアイデンティティー、ポジション、アビリティ、インヘリタンスを有している。そのほとんどが現在は潜在化していしまっている。キリスト教なる宗教のマトリックスや自分の身体や生活の思い煩いなどによって窒息させられているのだ(Matt 13:6-8)。ゆえに覚醒せよ! すでに得ているものに気づけ! それを使え! 清田氏も自分の中に埋もれているパワーに気がついたのだ。別にクリスチャンがスプーン曲げができるようになれと言うのではない。それは清田氏も言っているとおり、単なる趣味。

霊的領域のサブスタンスを見よ。見たものはゲットできる。それは霊から生まれるフェイスによるのだ! フェイスはすでになされている事柄をNOWizeする。これ私の造語だが、現在化だ。永遠の現在化。かつて『真理はあなたを自由にする』において、フェイスとは永遠の世界の霊的逆算I AMの実体化であると書いた。その現れをわれわれは経験する!

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