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Tag: デゥナミス

霊的シナジー効果

昨日のメッセにて紹介したコレ、シナジー効果。英語ではSynergy Effect。Wikiにはこうある:

相乗効果(そうじょうこうか、シナジー: synergy)とは、ある要素が他の要素と合わさる事によって単体で得られる以上の結果を上げること。反義語は相殺中和。相乗効果により、全体の最適化、効率化が発揮される。自然経済社会、など様々な分野で、この効果は測される。

まあ、ニッポンキリスト教の神学や説教ではまず聞かれない単語であろう。最近、Dr.Lukeはやたらと「バイブレーション」とか「ポータル」とか「チューニング」とか、ニューエイジ系の単語を連発していると言われる向きもあろうが、それは彼らが聖書を知らないだけ。すべて聖書の中にある単語である。

で、このシナジー効果なる御言葉はどこにあるのか。

なぜならば、わたしたちは〔まさに〕神の同労者であり、あなたがたは〔まさに〕神の畑、神の建物なのだからである。-1Cor 3:9(岩波訳)

この同労者と訳された原語は"sunergos"、つまり"sun"(union,with,together)+"ergon"(energy,work)だ。エネルギーを共有して行動すること。ポイントはこうだ。アレコレのいわゆる奉仕活動に没頭するキリスト教界の常識に反して、私たちは何もしないこと。これがカギ。ジーザス自身が言われた:

はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。-John 5:19

「できる・できない」を示すギリシャ語は"dunamai"、それは"dunamis"、つまりパワーがないということ。ジーザスは自分では何もできなかったのだ。が、彼は全能のわざを行った。われわれは結構自分でいろいろとできてしまう。が、死者を生かすことはまだしたことがない。カギは何か。エネルギーの問題である。

あのニッポンキリスト教でよく聞かれる「自我を否みぃ~!」がまったくの嘘である事を10年以上前から指摘しているが、われわれの魂の機能(思い・感情・意志)の機能停止することと勘違いしている人がかなりいる。自己の死とかも同じように無感覚や無活動と思い違いをしているのだ。十字架は自己の死を実体化するが、それはエネルギーの源泉の切り替えである。ナチュラルな魂や体のパワーによる活動ではなく、スーパーナチュラルな神の霊のパワーによって生きること。これが十字架の本質(⇒自己における死について)。煙をもうもうと吐き出す10馬力のジーゼルエンジンによらず、1,000馬力のクリーンな水素ガスエンジンに切り替えることなのだ。つまりナチュラルからスーパーナチュラルへの転換、これが十字架。倫理や道徳や宗教のオハナシではまったくない。

私たちはすでにスーパーナチュラルな誕生によりニュークリーチャーとされ、スーパーヒューマンにしてネオ・ホモサピエンスである。が、この大脳と同期する魂がこれまでの生き方のパターン、つまりマトリックスを捨てきれないのだ。これでカウンセリングや精神科や臨床心理などの罠に陥るのだ(⇒信仰と精神分析について)。ゆえに依然として10馬力ジーゼルで生きようとして、周りに煙害と悪臭をまき散らす。これは「肉(flesh)の慣性」による(⇒肉について)。ちょっと待て、車は急に止まれない、というわけ。かくしてここを切り分けるのが十字架なのだ(⇒自己を否むことについておよび死と復活の原則について)。それはすべてフェイスによる。フェイスはその霊的サブスタンスを実体化するのだ(Heb 11:1)。

カギがお分かりでしょうか。それはエネルギーの問題、私たちは神のデゥナミスによって生きる。私たちはすでにキリストのマインドを持っているゆえに、それがアクティベーションされてナチュラルなマインドがスーパーナチュラルなマインドに座を譲るとき、キリストのマインド、感情、そして意志決定が私たちの魂(soul)において再現する。つまりキリストが私たちの魂と体を通して生きるのだ。これがエペソ5:1(Eph 5:1)にある神をエミュレーションすること。そもそもジーザスは父をエミュレーションしたのだから。かくしてパウロは言っている、生きるとはキリストだ、と(Phil 1:21、新共同訳)。これを「キリストのために生きる」とか宗教的に勝手に解釈しないように。To Live is Christ! 聖書は生命現象の書なのだから。

私たちが父・子・聖霊の三位にいます神、YHWH=The most high Elohimのエネルギー(Dunamis)にチューニング(共鳴)し、そのインパーテーション(分与)を受ける時、Elohim属とされた新しい人類である私たちの魂と体において、神の霊とのシナジー効果が起きる。このとき、何かが起きるのだ!WOW!!! 神はその生命現象に参加せよ、と私たちを招いておられる。「きよく・まずしく・ただしく・・・」といった宗教の霊から解かれよ!キリストは私たちを自由へと召し出してくださったのだから!パウロは言う―

あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。-Phil 2:13

あなたのその願いを祈りと賛美と感謝によって大切に育てること(注)。それは神のエネルギーを注入されて健やかに育ち、豊かな実を結ぶのだ。これこそ霊のシナジー効果である。

(注)神の意志と一致しない自分勝手な願いは、祈り続けることはできないし、そのうちに白けてしまう。あれ、自分、なんであんなことを求めていたのだろうか?と。が、何であれ願いを感じたらとにかく感謝を捧げる祈りによって神に知っていただくこと(Phil 4:6)。自分でこれは肉か霊かとかジャッジする必要は全くないのだ。

デゥナミスの意味

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これは前にも一度書いているが、重要なので再度。神の力、ギリシャ語ではデゥナミス(Dunamis)、力というと何かしるし・不思議や奇跡などのみを連想するであろうが、これはその人のマインドの中でのマトリックスがその回路で回る傾向があるからだ。一度、いわれるカリスマ派などに懲りた人にとっては、神の力とか言われるだけでアレルギー反応が出るだろう。何か念が籠るというか、強く念じれば癒しが起きるとか思い込んでいる人がけっこういるようだ。いつも言うが御言葉は日本語で理解してはならない。

神の国はロゴスにではなく、デゥナミスにある。-2Cor 4:20

で、その意味だが、Thayerによると

Thayer's Greek Lexicon:
dunamis
1) strength power, ability

 1a) inherent power, power residing in a thing by virtue of its nature, or which a person or thing exerts and puts forth
 1b) power for performing miracles
 1c) moral power and excellence of soul
 1d) the power and influence which belong to riches and wealth
 1e) power and resources arising from numbers

   1f) power consisting in or resting upon armies, forces, hosts

まあ、訳すまでもないと思うが、ミラクルを行うパワーであると同時に、倫理的な力また魂のエクセレンス(洗練)を意味するのだ。それはすなわち魂の健やかさ。聖化とかいうとしばしば髪を七三に分けて、白いシャツを着て、シャナリシャナリのイメージがあるが、Holinessの意味はWholeness。つまり健康・健やかさ。これが魂のエクセレンスだ。ヤコブ書にこうある:

だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。-James 1:21

この「できます」とあるギリシャ語は"dunamai"、要するに"Dunamis"のことである。最近、Dr.Lukeはやたらとしるし・不思議とか癒しとかを強調し、ニューエイジ的用語を連発して、福音からはずれていると言われるむきがあるようだが、私はすべて御言葉を語っている。原語にはあるが、日本語にないだけ。繰り返すが、ニューエイジがバイブルをパクっているのであり、日本語で真理を考えてはならないのだ。それは日本語のマトリックスを持ち込んでしまい、ニッポンキリスト教が出来上がる。

要点は何か。別にしるし・不思議や癒しや奇跡を魂のトランスフォーメーション(古い用語では「聖化」)、メタモルフォーシスと切り離す必要はないのだ。すべてキリストの十字架に含まれているからだ。ニュークリーチャー、新生命体であるエクレシアはそのすべてをすでに得ている! キリスト教のマトリックスから解かれよ。聖書は宗教や倫理や道徳の本ではない。それは生命現象を取り扱う書物なのだから。

愛する者よ、あなたの魂が栄えているように、あなたがすべての面で栄え、健康であるようにと祈っています。-3John 1:2

Dr.あいこ氏を発見、うれしいオドロキ!

いや、驚きました。私とほとんど同じことを言っている数理物理学者にして人工知能の研究者がおりました。Dr.Aiko氏。霊⇒魂⇒体への霊(デゥナミス)の流れが魂の状態によってブロックされる結果、肉体の癒しなどが阻害される、と。まことにそのとおり。私の提唱する『霊精神身体医学』である。クリスチャンが100%の機能を発揮する秘訣は、アイデンティティーポジションアビリティインヘリタンスに覚醒すること(iPAIの覚醒)。それはすべてスーパーナチュラルなフェイスによるのだ。

参考:霊の機能と魂・体との相互作用について

これも。私の新著とほぼ同じことを語っている。当たり前にスーパーナチュラル。それはフェイスにとっては実はナチュラルなのだ。五感を超えた世界にタッチすることだから。私が言う、私たちの霊は神であるということと同じことを言われている。オドロキ!

これもおススメ!うれしくなりますね!

本日のWOWな証

ご婦人Aさんの義姉にあたる方が認知症で特養にはいっていた。家族の顔も名前もわからず、歩行も不可能になり、車椅子生活を送っていた。Aさんとは人間関 係が縺れていたが、ヨブが友人を赦し、祝福を祈ったことを思い出し、相手のために祝福を祈れと神から語られ、とにかく諸々の感情はおいて、その方のために 祝福を祈っていた。そんなに真剣に祈ったわけでもないが、御言葉に単純に従った。

で、最近特養を訪ねると、なんとその方が車椅子から立ち上がり歩いていた。しかもAさんの顔も名前も分かり、不義理をしていたことをごめんなさいね、とA さんに謝ったのだ。しかも、しかも、その方は特養の他の入所者のお世話までも始めたのだ! はぁ? それを聞いた私の反応、アンビリバボー! が、これが 語り出された神の言葉のパワー。聖霊のバイブレーションに共鳴した私たちの霊から語り出された言葉にはこのようなパワーがある。それは神のデゥナミス (力)を解放するからだ。

神の語り出された言葉(レーマ)には不可能なことはない。ルカ福音書1:37(原語)

Glory be to God!

クリスチャンが見当はずれに陥る理由

いわく、きよく・ただしく・まずしく・うつくしく・・・。いわゆる宗教としてのキリスト教のあり方だ。つねに神から裁かれないかとビクビク、自分はどうのこうの・・・。病気になれば、神のみ心だから受け入れ、その中でも賛美して、喜ぶことが素晴らしい・・・。それは確かに人間の自己満足的素晴さ。イエスは病者にそう言われただろうか?彼はすべて自分の元に来られる人を癒したのだ。そして自分は父の心を行っていると言われたのだ。

なぜ、こういった見当はずれに陥るのだろうか。罪はハマルティア、的外れ、とよく言われる。そのとおりだ。ところが自我を十字架につけてぇ、魂を否定しぃ、罪を犯さず、清い生活を送れぇ、あれこれ・・・。まさにこれが的外れなのだ。要するに復活のパワーを知らないからだ。十字架と復活の事件の後は、相が完全に転換した。この復活のパワー、デゥナミスが解放されたのだ。神の国はロゴスにではなく、デゥナミスにある。終わりの時代、私たちはこれを経験する必要があるのだ。

イエスは答えて言われた、「あなたがたは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。」-Matt 22:29

マインドの刷り込み

クリスチャンが何ゆえにこれほど細々と分けられているのだろうか。日本基督教団から出ている「教派がよく分かる本」を読んだら、ますますわからなくなったのだ。これはひとえにマインドの刷り込みのためだ。要するに自分が福音を聞いたいわゆる教会の雰囲気とか伝統が「正しい」とマインドは思い込み、また一度刷り込まれるとそれから逸脱するものには脅威を覚えるようになるからだ。

極私的には下にリンクした出エジプトのルート、紅海の割れる地点、シナイ山の場所について、当初次のような画像が私のマインドに刷り込まれた。

ところが先のリンクによるとまったく違うようだ。シナイ山についてはパウロがこう言っている。

ハガルといえば、アラビヤではシナイ山のことで、今のエルサレムに当る。なぜなら、それは子たちと共に、奴隷となっているからである。-Gal 4:25

ここを私は日本語で、ハガルはアラビアの人たちが言うにはシナイ山のことである、と理解したのだ。ところが英語はこうである:

For this Agar is mount Sinai in Arabia, and answereth to Jerusalem which now is, and is in bondage with her children.

つまりハガルとはアラビアにあるシナイ山であり、が正解。彼はシナイ山はアラビアにあると明言していた!この場所には割れた岩が存在、その周辺に多量の水が流れて侵食された痕跡も見出されている。やはり日本語だけで理解することは危険なのだ。すると海が割れる場所も異なることになる。ロン・ワイアットの発見により、今のアカバ湾が正解のようだ。実際、海底にはエジプトの戦車の残骸や人骨も発見されている。つまりこの事件は歴史的事実なのだ!

どうもこの歳になり、人生の締めくくりを考えるステージに入って、信仰についても徹底的なオーバーホールを必要としている。あの12月に見たものは私の聖書との関係を変え、自分が何も知らなかったことを知らしめてくれた。富士山のガイドブックを理解してはいたが、富士山頂を見てはいなかったのだ。が、それを直に見てしまった今、天と地の狭間に生きる存在としての自分のアイデンティティーを意識し出した。そして神から賜ったものがどれほどのものであるか、それが次々に見えてきているのだ。

メッセージでも語ったが、NYで餓死したホームレスの寝床に一流会社の株券が何万株とあった喩え話がある。彼は日毎のパンを得るのに必死で、自分がすでに持っている紙切れの意味と価値、そして使い方が分からなかったのだ。これがクルシチャンの様だ。パウロは祈ってくれている。

どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに賜わって神を認めさせ、 あなたがたの心の目を明らかにして下さるように、そして、あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、 また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている。-Eph 1:17-20

われわれがこのデュナミスの価値と使い方を発見することは闇の王国にはそれこそ脅威なのだ。だから彼らは躍起になってクリスチャンたちを自分のハッピーライフや悩みの解消や家庭円満、あるいは自己実現の追求に、つまりNYのホームレスの生き方に留めおきたいのだ。聖霊は今、目覚めよ!と私に語ってくれている。

 

デゥナミスを知る

神の国はロゴスにではなく、デゥナミスにある(1Cor 4:20)。Dunamisは力と訳されているが、これも日本語の世界で考えてはならない。もっと豊かな意味を持っているのだ。Thayerによると

Thayer Definition:
1) strength power, ability
 1a) inherent power, power residing in a thing by virtue of its nature, or which a person or thing exerts and puts forth
 1b) power for performing miracles
 1c) moral power and excellence of soul
 1d) the power and influence which belong to riches and wealth
 1e) power and resources arising from numbers
 1f) power consisting in or resting upon armies, forces, hosts

しるし・不思議・奇跡・癒しなどをなす能力はもちろんであるが、魂のエクセレンスと富と豊かさを得る能力も含まれている。私たちの魂は生きてきた過程において、不健全なSoul Tie(魂の結びつき)や傷によって、魂のエクセレンスを失っているのだ。私たちは霊がスーパーナチュラルに再生された新しい創造である。が、この魂は旧い体の一部である大脳とリンクしている。いつも私が言う大脳辺縁系の問題を抱えているのだ。これがクリスチャンの抱えるあらゆる葛藤のルーツである。この魂がエクセレンスを得るほどに、私たちはあらゆる領域で繁栄することができる。ヨハネが祈るとおりである。

あなたがたの魂が繁栄しているように、あなたがたがあらゆることで繁栄し、健やかであるようにと祈る。-3John 1:2

私たちはすでにキリストのマインドを持っている(1Cor 2:16)。が、私たちの旧い大脳の影響により、キリストのマインドが私たちの魂のうちに広がらないのだ。そこでもろもろの問題や病気や欠乏を抱えたとき、旧いマインドの反応をせざるを得ない。私たちはキリストと共に天にいるのであるが、その天的御座からの見方・考え方ができないのだ。こうして袋小路に自分を閉じ込めてしまう。キリストが見るとおり、考えるとおり、私たちの魂の中でキリストのマインドが展開するならば、私たちは常にあらゆる恐れ・不安・葛藤・絶望・無価値感・欝・自己疎外感・焦りなどなどから解放される。ゆえにパウロは勧めている。

兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき理性的な礼拝である。あなたがたは、この世の形に形作られてはならない。むしろ、思いを新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。-Rom 12:1-2

まず、なすべきは体を捧げること。これが理性的な礼拝。その後にマインドのリニュアルによってトランスフォーメーションされる。なぜか。この体が旧い創造に属するから。よって体を主の御手の下にまず置く必要がある。こうして魂がエクセレンシーを回復されればされるほど、私たちの魂は繁栄し、あらゆる領域で繁栄する。体・魂・霊のすべての相において健やかにされる。これが主観的ホーリネスだ。

神のデゥナミスはこれを可能にする。

このゆえに、わたしの心は楽しみ、わたしの栄光(原語)は喜ぶ。わたしの身もまた安らかである。あなたはわたしのたましい(原語)を陰府に捨ておかれず、あなたの聖者に墓を見させられないからである。-Ps 16:9-10

追記:魂のマインドで何を考えるかはきわめて重要。私たちの存在を決定するからだ。箴言に次のようにある(邦語訳はいつもどおり不適切)。

For as he thinketh in his heart, so is he:(彼はその魂で考えるとおりの人間だ)-Prov 23:7

ここの「心」とある部分は正確にはnepheshであり、魂が適切。この場合、思いは人格として実体化されるのだ。私たちのマインドのパワーのひとつの証明。

 

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