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Tag: 仏教

時間はイリュージョン

これ、なかなか面白い。道元は、「今でしょ!」の世界をこう言っている―

たき木、はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。前後ありといへども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。-『正法眼蔵-現成公案』

焚き木が先で灰が後というわけではないと。これは時間感覚のトリック。時間自体が大脳によるイリュージョン、マトリックスなのだ。

沢庵も言う―

前後際断と申す事の候、前の心をすてず、また今の心を跡へ残すが悪敷候なり。前と今との間をば、きってのけよと云ふ心なり、是を前後の際を切て放せと云ふ義なり、心をとどめぬ義なり。 『不動智神妙録』第十二節 前後際断

仏教ってね、実は現代物理の最先端を行くのだ。クオリアなども。色はない。それは大脳が創り出したイリュージョン。ゆえに「色即是空」。元々仏教は礼拝対象などはない。認識論のひとつなのだ。今の葬式仏教や偶像を拝むことは釈迦牟尼が禁じていたこと。彼は法による生き方を説いている。で、聖書はその法のルーツ、つまり法源は何かを啓示しているのだ。

ちなみにフェイスはNOW!シックスセンスであり、スーパーナチュラル。永遠が今に切り込む経験なのだ。この映画は4次元超立方体の中ではいつの時点にも自分が存在できる映像をうまく作っていた。

意識の扱い方-キリスト者と仏教徒-

FBで流れてきたこの記事にちょっとコメントした。

-仏教とキリスト教の共通項はどこでしょうか?

このBlogでも何度も指摘しているが、道元は『正法眼蔵-現成公案』にて書いている:

仏道をならふといふは,自己をならふなり。 自己をならふといふは,自己をわするるなり。自己をわするるといふは,万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは,自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。

クリスチャンと禅者は、いのちと法の違いなのだ。われわれは旧創造のいのちではなく、新創造のいのちを得て、その新しいいのちの法に任せて生きる者たち だ。が、自己をわすれることにおいては共通する。イエスは、自己を否め、と言われた。これは自己疎外ではない。自分から意識が離れること、つまり心身脱落 すること。

すべての苦悩や葛藤は自意識から生まれることは誰もが納得であろう。善悪を知る知識の木の実を食べたアダム系人類の宿命だ。イエスはその旧人類を終わらせ た!そして復活し、キリスト系の新しい人類を生み出したのだ。仏教の救済は自己からの解放のレベルまで、残念ながら新しい創造はどんな修行をしても得られ ないのだ。それはGodのみが成し得るスーパーナチュラルな現象だ。

-意識の扱い方について-キリスト者と禅者の類似と相違-

 

主客一体-道元とJill博士

長沙岑禅師にある僧問ふ、いかにしてか山河大地を転じて自己に帰せしめん。師いはく、いかにして自己を山河大地に帰せしめん。いまの道取は、自己のおのづから自己にてある、自己たとひ山河大地といふとも、さらに所帰に罣礙すべきにあらず。-道元『正法眼蔵-渓声山色』

(注:道取=発言;所帰=主客分離;罣礙=妨げ)

山河大地は自分に帰するのか、自分が山河大地に帰するのか。たしかに自分は自分であるが、そのような帰する側と帰される側に分かれるといった主客分離に妨げられるべきではないのだ。

先のJill博士のサンサーラ(輪廻)から解かれたニルバーナ(涅槃)の境地だ。輪廻とは善と悪の二元論的あり方、ニルバーナはそれからの解放だ。要するに煩悩は自分が善と悪、生と死を判断することから生まれる。山河大地は私たちの善と悪の判断とは関係なく存在する。自分と山河大地を分離して判断するとき悩みが生じるわけ。それは生死を越えた境涯だ。もともと仏教には礼拝対象などはない。神はなく、仏とは悟った人に過ぎない。仏教は徹底した実在論と認識論の体系である。

自分が作り上げた幻想をリアリティと思い込み、それを通して世界を、また神を見てあれこれ判断する心の姿勢、これが罪なのだ。自分を神としてしまっていることに気がついていないことが致命的。聖書では「善と悪を知ること」が罪である。それは自分を自分のリアリティの中に閉じ込める。あり得るとか得ないとか、まともだとかまともでないとか、神のスーパーナチュラルな介入をも排除して。神はわれわれの善悪の世界には住まわれない。主と客が渾然一体となった境地、そこはただ宇宙的なエネルギーに満ち溢れた世界である。すなわちデュナミスのリアリティの中に生きること。

神の国はロゴスのうちにではなく、デュナミスのうちにある。-1Cor 4:20

-『正法眼蔵』関連の過去ログ

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