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Tag: 敬虔の奥義

Dr.Lukeのワンショット-神をエミュレートする

肉においてマニフェストするキリスト:神のサブスタンス

神をエミュレートすること(Eph 5:1)。WindowsマシンでMacOSを走らせることをエミュレーションという。ハードはWindowsだが、その機能。性質・属性、すなわちスペックはMacだ。神は肉において現れる(1Tim 3:16)。そのためにわれわれをキリストと共にエロヒムのいのちにインプラントし、ご自身がわわれれを通してマニフェストする。すなわちわれわれはエロヒム属であり、YHWHの家族なのだ。日本語で考えることなかれ。それはニッポンキリスト教というマトリックスを生み出す。ちょうどFrancis Frangipaneが同じことを説いているので紹介しておく。これを外したら、キリストが内に生きることも単なる宗教と化す、と。

-Manifested in Our Mortal Flesh

You see, there is not a different Jesus in Heaven than He Who dwells in us. This means that the Spirit of Jesus Christ, the lover and redeemer of mankind, reveals Himself through us. This unveiling of Christ in us is the only thing that satisfies our quest to know the substance of God. Anything less than, or other than, Christ living in us is mere religion.

 

フェイスの覚醒-神の力を誘導するフェイス

ただ少しく人を神よりも低く造って、栄えと誉とをこうむらせ、これにみ手のわざを治めさせ、よろずの物をその足の下におかれました。-Ps 8:5-6

この聖句が意味することは何か?YoungのLiteral Translationにはこうある:

And causest him to lack a little of Godhead, And with honour and majesty compassest him. 

Godheadに至るにはわずかに不足していると。Godheadとは神のPerson、すなわち神格だ(人ならば人格だが)。が、よろずの物を足の下にするものとして造られた。すなわち統治(Dominion)である。もし、エデンの園でアダムとエバがいのちの木の実をとっていたら・・・?そう、彼らはGodheadに至ることができたのだ。もともと彼らの霊は神の息。すなわち神の霊だ。つまり人間は創造時点で神的存在だった。だから彼らが動物を呼ぶとそのアイデンティティーが決定し、地(=物理的世界)を治めよと命じられた。これは堕落後もサイエンスにより部分的には成就している。人類はその知性により物理的世界を相当程度治めている。が、神の統治は知性によるものではない。いのち(=ゾーエ)による統治である。

一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストによるいのちにあって支配するようになるのです。-Rom 5:17

それは自然法則を超える。いわゆるしるしや不思議は当然として、奇跡的癒やしや死者の蘇生なども起こるのだ。自分の身体に何かの兆候が出たとする。大抵は医師に検査してもらい、必要ならば処置を受ける。これは一般恩恵として、サイエンスによる物理的事象の統治である。しかしそのキャパを超える事象に対しては人類は未だに無力だ。なぜ?神に至るにはわずかに欠損があるからだ。このわずか欠損をサイエンティストは必死で埋めようとしている。が、それは決して埋められないのだ。それを埋めるのはイエスの血のみ!否、埋めるにとどまらず、さらにわれわれを神格へともたらす。神と人が結合されるのだ!

しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。-1Cor 6:17

キリストは肉において現れた神だ(1Tim 3:16)。彼は生まれながらに聖霊の内住を得ており、ヨハネからバプテスマされたとき、外側も聖霊で満たされた。その肉体には罪(Sin、いわゆる原罪)はなかった。ゆえに100%、自由に神をご自分の魂と体をとおして現出させることができた。われわれはどうか。罪の中に生まれ、原罪を継承し、魂と体はその影響下に条件づけされている。これが古き人であり、またその痕跡である肉を構成する。存在論的に古き人は十字架で抹殺されたが、この旧き体の大脳や神経系は古い条件づけを受けている。ゆえにマインドのリニューアルによるトランスフォーメーションが必要とされる(Rom 12:1-2)。ゆえにパウロは「古い人を脱ぎ捨てよ」とも命じている(Eph 4:22)。

ここで間違わないようにしてほしいが、すでに肉は十字架につけてしまったとある(Gal 5:24)。その事実(=霊的サブスタンス)に基づいて、それをフェイスにより適用することであって、肉と格闘することではない。御霊がそれをしてくださる(Gal 5:17)。すでにわれわれはキリストと共に復活した新創造、新人類、ネオ・ホモサピエンス、ニュークリーチャー、すなわち新生命体なのだ!これがフェイスにより私の身体と魂において実体化される。このとき、神が人である私たちをとおして現出される。この点においてはイエスとまったく同じだ。ゆえにエクレシアはキリストの充満なのだ!宗教組織や宗教法人、なんと同盟や連盟とか、そんな人間が社会において構成した存在などではない!それは神の奥義(ミステリー)なのだ。神のいのち(ゾーエ)とパワー(デュナミス)がわれわれをとおして現出する。それは内なる神の国の現出とも言える。

新創造とは何か?神と結合された人間である。神が臨在する領域であり、電磁場が宇宙を覆い尽くしているように、われわれも神の霊の場とされる。電波や光はその電磁場の振動、バイブレーション。さらにヒッグス粒子なども場のバイブレーションなのだ。私たちは神の霊のバイブレーションに囲まれている。もちろん内側にもバイブレーションは存在する。その神の霊のバイブレーションを感知するとき、魂はそれをこの物理的世界の中で感じることができる。魂の一機能であるマインドはそれを言語化あるいは映像化し、私たちの身体の口が語り出す。内なる神のロゴスをレーマにする瞬間だ。するとそれは何かを生じるのだ!神の言葉を語るとは、聖書を正しく引用することなどではもとよりない。御言葉を解き明かすとか、自分はこう考えるとか、御言葉を弄ぶべきではない。バイブレーションに形を与えること。

このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す。-Isa 55:11

人を生かすのは霊であり、肉は何の役にも立たない。わたしが話した言葉は霊であり、またいのちである。-John 6:63

イエスは死人や天候、あるいは木に命じた。するとそのとおりになった。それと同じことをわれわれもせよと言われる。どうやって?・・・・こう考える人は罠に落ちている。フェイスによるのだ。フェイスはサブスタンス。願っている事柄の実体そのもの。それを語り出すとき、目に見えないものが立証される。これがヘブル書にあるフェイスの定義だ(Heb 11:1)。フェイスは神の領域にタッチし、そのサブスタンスをこの世界に現出させる。それは神の国の実体化。フェイスには不可能はない。それは神の能力を誘導するからだ!私たちは全能ではない。が、フェイスは全能だ。なぜ?フェイスは神の霊そのものとも言えるからだ。われわれと神格を結合する。ゆえにフェイスはI AMの実体化だ。われわれが神になるのではない。神たる方がすでにわれわれの霊と結合されている。その方が現出するのだ。イエスは変貌の山でそれをデモンストレーションされた。私たちも同じことを経験する。内なる神が自分をとおして輝き現れる。これはニューエイジャーが言うアセンションと言っても良いかもしれない(まあ、言葉遊びにすぎないが・・・)。

イエスもすべてのわざを人としてなされた。もともとイエスは神、ゆえに全能だ。が、彼はあくまでも人として生き、人として御業をなさった。ゆえに私たちにも可能性が開けるのだ。彼が単に神として振舞っていたら、われわれは置いてきぼりをくらうだけ。神が人をとおして現出される奥義。これが敬虔の奥義である。

神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれました。このイエスは、神が共におられるので、よい働きをしながら、また悪魔に押えつけられている人々をことごとくいやしながら、巡回されました。-Act 10:38

ナザレのイエスは人としての彼の名、ゆえに聖霊と力を注がれて、神が共におられたゆえに・・・なのだ。かくして同じことがわれわれもなし得る(John 14:12)。神の国はロゴスにではなく、パワーにあるのだから(1Cor 4:20)。五感の領域を超えよ。五感に束縛されるな。あなたの本質は霊であり、それは神なのだ。それを知るのはフェイス!

フェイスに覚醒せよ!

トーラス-霊と魂の場

この図形、トーラスと呼ばれている。いわゆるドーナツだ。赤い線をメリディリアン、桃色の線をロンジチュードと言う(球面の緯度と経度に相当)。このふたつキレイに絡んでトーラスが構成される。

そして人間はトポロジカルにはトーラスなのだ。口から肛門までは実は外部。つまりドーナツの穴と言うわけ。その肉体は土のチリから構成された。その肉体を活かすのは霊。果たして霊がどこにあるのか?ソロモンはこう言っている:

あなたは、胎の中で風(霊)の道を知らない・・・Eccl 11:4

ここは口語訳では

あなたは、身ごもった女の胎の中で、どうして霊が骨にはいるかを知らない。

とあるが、写本の違いによるようだ(霊は物質に閉じ込められることはないから、骨の中にある(限局)というわけでない)。

私の著書の中で、霊と魂の場が存在することを指摘した。それはちょうど地球の磁力線のようなものであり、地球はこの磁力線によって太陽からの有害物質を遮断されて、守られている。この磁力線はトーラス。

私たちはうちに神を宿し、神の霊が私たちの身体の包み、守っているのだ。私たちが醸すいわゆるオーラはこの霊と魂の場の反映である。魂のうちにある要塞(傷・恨み・苦々しい思い・嫉妬・妬み、etc.)があると内なる神の霊のエネルギーの流れが阻害される。この霊のエネルギー流れの場を、磁力線にならって、霊力線と言っても良いかもしれない。魂のそれを魂力線と言えば、霊力線が魂力線によって乱されてしまうのだ。ゆえに信が発揮されるためには霊と魂の分離が必要となる。これは神の言葉(ロゴス)による(Heb 4:12)。

私たちの大脳は魂の働きと同期する。特に大脳とマインドの関係が重要であることは著書でも指摘した。マインドのパワーは神が保証している。マインドのトランスフォーメーションと共に大脳のニューロンネットワークやシナプスでの化学伝達物質などの働きも変化しているのだ。上のtoxic thoughts(毒性思考)などは明らかに大脳を損傷する。マインドが整えば、大脳生理も整い、感情、意志も整えられる。すると魂力線がキレイに流れるようになり、それは霊力線と絡んだり、その流れを阻害したりしない。要するに霊と魂の関わりが創造主の意図どおりになるのだ。すなわち魂は自律的に勝手に作動するのではなく、霊に即して、霊からの情報を受けて機能する。それはすなわち神の思考を受信することであり、知性はそれを言語や映像にして理解する。すると感情と意志もそれに従う。その結果が肉体を通して表現されるのだ。こうして神は肉において現れる。これが今週のメッセで語ったこと。

対して、マインドが悪霊の思考や言葉を受信すれば、罪定めや自責感などのネガティブな影響を受け、感情も暗くまた抑うつに閉じ込められる。すると内なる神の臨在はかき消され、霊力線も消失し、醸すオーラも暗いものとなる。うつ病の人は表情を見ればすぐに分かるが、それは彼らの発するオーラによるのだ。簡単に言えば、彼らの魂が強すぎるわけ。霊を圧迫してしまうのだ。また肉体の症状に囚われる人も、それによって魂と霊を圧迫する。魂と肉体を主体に生きる様を肉(flesh)と呼ぶことは何度も指摘しているが、まことに肉の思いは死であり、神に敵対している(Rom 8:6-7)。神に敵対するのだから、祈りが叶うはずがない。ゆえにわれわれは自分の魂を救おうとすべきではない。救おうとすれば失う。これは肉体のいのちも同じ。癒しがしばしば神を賛美し、神の臨在に満たされて、自己を忘れた時になされることは実に興味深いことである。

かくして、霊と魂がちょうどトーラスのメリディアンとロンジチュードのように互いにキレイに絡むとき、私たちの霊と魂の場はエネルギーの流れの美しいトーラスを形成する。この時、神の声を明確に聞く(受信)ことができる。魂は霊に服し、霊の領域の情報を受信する。決して身体の五感によって影響される魂が主役ではない。イエスはこのように霊が主役であり、魂と肉体は霊に服している生き方を体現されたのだ。そしてそのような人間が何をなし得るかのデモンストレーションをされた。霊の領域のサブスタンスをこの物理的時空間に現出させること。つまりフェイスのパワーを示された。

この意味で、私の本体は肉体や魂ではなく、霊であるべきなのだ。つまり私は神である。真の私である霊がアクティヴに生きるとき、そのバイブレーションがヴィヴィッドに魂に反映される。神が私たちの魂と肉体において現れるのだ。その霊の場が新創造であるエクレシア。つまりエクレシアとは人を通して現出される神と言える(注)。これが敬虔の奥義。敬虔と訳された単語はeusebeia。ただし、注意して欲しいのは、ローカルチャーチのウイットネス・リーは、神性と人性が混ざり合って(mingling)、存在論的に人が神になる、とする。すなわち、教会とは神人(God-man)であると言うのだが、人が神になれるわけがない。私たちの肉体と魂の領域と霊の領域には明確な一線があることをあえて指摘しておく。

美しいトーラスの追求。それはすなわち五感からの離脱。シックスセンスであるフェイスの覚醒によるのだ!

【注】エペソ1章23節は邦語訳では「教会とはキリストが満ちている」となる。口語訳では「この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない」となり、まだ原語に近い。元々はpleroma、で充満(岩波訳)と言える。つまり、教会はキリストの充満だというわけ。教会なる訳語はあまり好きではないので、言い直すと、エクレシアはキリストの充満。は!?エクレシアって何?キリストだ!あえて霊の場としたが、それは人にあって現出された神そのもの(1Tim 3:16)。神の霊のバイブレーションそのものがエクレシアなのだ。

 

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