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Tag: 死と復活

十字架は究極の脱力

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うーん、気持ちがイイ。力を抜いて千メートルほど。その後、露天のジャグジーで。とにかく気持ちがイイ。いつも思うのだ、なぜ泳げない人はおぼれるのだろう? ぼくには溺れる方が不思議。

フェイスも同じ。十字架は死と復活のサブスタンス。罪と死の法則からいのちの御霊の法則への転換。自我を砕きぃ~とか叫ぶクルシチャンたちは力が入っており、もがく、すると沈む。叫べば叫ぶほどドツボにはまる。

水と同じで、力を抜けば浮かぶ。その法則に乗るコツを得た人には、逆に沈むのが難しい。あえて沈めば25Mくらいは潜水できるが、それは不自然で苦しい。 死は究極の脱力。脱力すればあとは自動でいのちの御霊の法則が働く。死が働くとき脱力、それは安息。それはフワッと天へと引き上げてくれる。

十字架って、重荷でもないし、もがきでもないし、苦しさを我慢することでもないし、自我を砕きぃ~とかヒステリックに叫ぶことでもないし、ましてや病気や 貧困を耐え忍ぶことでもない。十字架はすべての病を癒し、われわれを豊かにしてくれる。しかもそれは軽い。なぜ? 究極の脱力だから。

キリスト教のマトリックスから解かれよ。フェイスの法則は霊的サイエインス。脱力すること、こんな安楽な道はないのだ! 老子の言う無為自然の道。まことにジーザスこそ道だ。

Dr.Lukeのワンショット―十字架って何でしょう?

宗教マトリックスからの解放、もうクルシチャンやるのは十分ですよね♪

Dr.Lukeの一言映画評―『復活』

ハリウッドにジーザスをテーマにした作品が多々あるも、この視点からの描かれたものはないかもだ。復活が意味すること。人は死者の復活というこれまでのパラダイム(マインドの構築した世界観)に反する事態に対して、いかなる反応をするのか。すでにジーザスは復活した。この事実を妄想とするのか、偽りとするのか、それとも自分のパラダイムを否定して事実とするのか。要するに福音とは、自己を否むこと、自分の十字架が要求されるのだ。

しかし、復活は単に事象としての奇跡で終わらない。ただ単に「われはキリストの死と復活を信ず」と唱えても、それは宗教に過ぎない。が、神はキリストの死と復活により新しい創造を生成した。神は新人類、すなわち新生命体(ニュークリーチャー)を生み出したのだ。そのわき腹から流れた血と水、そして聖霊によって新しく生み出された存在、つまりエクレシア。エクレシアとはキリストの充満(Eph 1:23)。邦訳によくある「キリストが満ちておられる”ところ”」ではない。キリストご自身の充満!それはキリストのいのち(Zoe)そのもの、新生命体だ。

キリストは復活された週の最初の日の晩に弟子たちに現れ、ご自身の息を吹きかけて言われた。聖霊を受けよ、と。それは復活のいのちそのもの。アダムは神の息を吹き込まれて生ける魂とされたが、弟子たち、つまりエクレシアは第二の人類の初穂であるキリストの息を吹き込まれ、そのいのちの充満とされたのだ。これがニュークリーチャー。われわれも時空間(五感の領域)を超えて、キリストと共なる死と復活にあずかり、その新しい生命に参加させられている。十字架は単に歴史事実だけではない。神はすべてのみわざを永遠のNOWにおいてなされる。なんというミラクル!ハレルヤ!

わたしたちはバプテスマによってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。-Rom 6:4

JAVAとフェイス―ニュークリーチャーはいかに生成されたか

プログラミングの話が出たついでに、ちょっと昔の記事を紹介:

JAVAと信仰

●最近流行のプログラム言語にJAVA というものがあります。インターネットと相性がよくて、タイトル・ページの"KINGDOM FELLOWSHIP"と"DR.LUKE'S MINISTRIES"のロゴがキラキラと輝くのはJAVAアプレットによります(現在は変更)。JAVAはC言語を発展させて構造化を徹底させたいわゆるオブジェクト指向言語です。この言語の特徴が何だかとても聖書的なんですね。

●JAVAでプログラムを書くときには、すでに用意されているライブラリーの中にあるクラスファイルというものを利用します。これは例えばウインドウを開きたいときなど、誰でもが共通に使う部分はその用途ごとにクラス分けして、ちょうど半オーダーメイドの洋服の型紙みたないものが用意されているわけです。この型紙に自分のオリジナルな機能を付け加えて自分の目的にあったプログラムを書くわけです。このクラスに自分の機能を付け加えることを継承と言います。そしてできたクラスだけではまだプログラムそのものではなく、これを実体化してオブジェクト(実行ファイル)ができるのです。

●私たちはアダムにあって誕生しました。私たちが継承した罪(Sin)はアダムにあって人類に入り込んだのです。この罪(Sin)はいわばクラス(型)みたいなもので、これが実体化されて個々の罪の行為(sins)が生まれます。神の目から見てアダムの腰の中にいた私たちも、アダムが罪を犯したとき罪を犯したのです。え、私はその時にはまだ生まれてなかった!とは言わないで下さいね。神の目においてはアダムはすべてを含んでいたのであり、アダムの罪はその後の全人類の罪のいわばクラス(型)なのです。このアダムにあって入り込んだ罪のクラスが人類の歴史の中で実体化されて個々の具体的な罪々が行なわれるのです。問題は私たちがすでにアダムのクラスに含まれていることであり、あらゆる罪はその実体化なのです。

●そこで神の救いはアダムにある私たちをまず終わらせることから始まります。つまりアダム・クラスを削除するのです。そして私たちをキリスト・クラスに復活させるわけです。こうして死と復活をとおして、私たちはクラス(血統)の入れ替えがなされます。こうしてニュークリーチャーが生成されました。このときキリストにある私たちには神の義が継承されるのです。これは誕生のクラス(系列)の問題なのです。ひとりの違反により全人類が罪人になったように、ひとりの義の行為により私たちは義とされるのです(ローマ書5章を参照のこと)。これを「同一視の原理」あるいは「包括の原理」と言います。神の目から見て、私たちはキリスト・クラスに属しており、キリスト・タイプ(型)の義が私たちの人生において具体的な形で義の行為として実体化されるのです。要するに信仰はすでに得ているクラス(霊的事実・真理)を実体化することです(ヘブル11:1)。よってアダムのクラスに属する人が努力してなすことではありません。神の国に入ることは、自分が生まれたクラスがどこであるか、つまり誕生の問題なのです(ヨハネ3:5,6)。このことを真に見ればクルシチャン(苦しちゃん)状態から解放されるでしょう!

●JAVAと信仰・・・思わぬところで思わぬ関係があると思いませんか?

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