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Tag: 永遠の現在

リアリティーとは何か?

午前中はプールとサウナ、午後は映画。ジュリアン・ムーアの『アリスのままで』。言語学が専門の大学教師がADによって壊れていく過程の恐怖と家族の苦悩を描いた作品。最初は単語が思い出せない。次に自分がいる場所が分からない。家族のメンバーも間違える・・・・。渡辺謙の『明日の記憶』とモチーフは同じ。

魂は大脳と同期している。私は養老孟司の『唯脳論』のような一元論は採らない。魂と大脳は別の存在であり、魂がこの物理的時空間に関わる媒体として大脳を用いているのだ。ゆえにADの場合も、自分が壊れていくことが分かる。それは魂が大脳の状態を把握しているからだ。中でもマインドは霊と魂の接点。不思議なのは、たとえば数学的真理のひとつ

などは大脳のどこにどのような形で存在するのだろうか。プラトン的にはイデアとなるのだが・・・・。これなどは自然界の普遍定数が見事に一体となっていることを示しているわけで、ある種の三位一体を表現しているとも思えるのだ。ともあれ、マインドはこのように霊的真理、数学的真理、あるいは物理的法則や社会的道理を理解し、それに従って私たちはこの世界と関わっている。これが内的な世界モデルで、人々の最大公約数的な部分が世の中の常識と呼ばれるものであり、これから外れたり、歪んだりするといわゆる人格障害を生じる。

この内的な世界モデルが崩壊するのがいわゆる認知症だ。彼らの周囲の人も事物も物理的実在としては何も変わらない。が、彼らの内的世界モデルが崩壊していく。過去の記憶も含めて。通常は記憶の連続性を自分のアイデンティティーの縁としているため、記憶体系の崩壊はすなわち自分の崩壊を意味する。これは自分が消え去ることとも言え、患者本人にとっては恐怖であろう。

対して、クリスチャンの場合、新創造であり、そのアイデンティティーは記憶の連続性によらない。あるいはこれまで構築してきた内的な世界モデルにもよらない。私たちのアイデンティティーは聖書に書いてある。私たちの記憶も物理的時空間における時系列としてのものではなく、物理的時空間を超えた永遠の現在における"それ"である。それは神の目から見た新しい私と新しい私の記憶の体系だ。私たちのサブスタンスは世の始まる前から神の書に書かれている(Ps 139:17)。それがこの物理的時空間において時系列的に成就する過程が新生命体としての私たちの人生なのだ。そのデモンストレーションをイエスがすでになしてくださっている。ある意味でイエスの人生の追体験と言ってもよいだろう。

そのイエスの内的世界モデルはわれわれのものとは相当に異なっている。彼は永遠の現在にある神のサブスタンスがこの物理的時空間に現出された存在だ(Heb 1:3)。ゆえに宇宙人が地球に介入したのと同じ。価値観もパラダイムも内的世界モデルもまったく異なっている。彼の言動を人間的視点から評価したり、解釈してはならない。むしろわれわれのマインドが再構成される必要があることは何度も指摘している(Rom 12:2;Eph 4:23,原語は「思いの霊において新たにされ」)。私たちは、その意味で、この日本においては人格障害と言われても宜なるかなである。否、むしろそれが本当のクリスチャンのあり方なのだ。いわゆる常識などはわれわれにとっては障害となる。アーサー・ホーランドのようにあえて偽悪を演じるまでもなく、私たちのマインドがトランスフォーメーションされているならば、自然と日本社会からは浮くのだ!

私たちは通常、ガンに罹ることや、失業、離婚、近親者の死、事故や事件などを恐れている。そのために保険をかけ、いざという場合に備える。これが私たちの人生のパラダイムだ。が、イエスにとっては違う。新約聖書でイエスがもっとも頻繁に語った言葉は何か?それは「恐るな!」だった。同時に「信じよ」と。実際、イエスにとっては病気などはまったく障害にならなかった。欠乏もなかった。彼は魚の口から銀を得ることもできたし、パンを増やすことも自在だった。水をワインに変えたり、死者をすら生かした。彼はまさに最初のアダムに命じられた「地を支配せよ」をそのとおりに実行されたのだ。そして私たちも信じるならば同じことができると言われた。私たちにとっても地を支配すること、これはマストである。

しかしイエスが恐れたことがひとつだけあった。ゲッセマネの葛藤だ。彼は何を恐れ、何ゆえにあれほどに葛藤されたのか。十字架の酷い刑の苦痛?アブソリュートリー・ノー。彼はわれわれのために罪とされ、御父から切り離されることを恐れたのだ。あらゆることを父の語るとおり、またなさるとおりにしてきた彼にとって、父との交わりを絶たれることは致命的だったのだ。これが彼の内的世界モデルによる反応だった。昨日の記事とも関連するが、イエスを私たちの物差しで計ってはならない。あるいは私たちの世界モデルを投影してもならない。逆だ。彼の物差しと世界モデルを採用すべきなのだ。これがマインドのトランスフォーメーション。この時、私たちはキリストの感受性に従って、彼と同じわざをなす。奇跡や癒やしをなす鍵は何か。それはいわゆる聖霊派の求めるパワーではなく、イエスの感受性である。昨年、Dr.Kさんのホスト役で温泉オフ会をした祭、対談で私はそう語った。天の感受性が私たちのうちに再現されるならば、まさにイエスのしたこと、天の御旨を地に表すことができるようになるだろう、と。

私たちが真に人の目やガンや欠乏を恐れなくなり、むしろ父との関係を損なうことを恐れるようになるならば、すでに得ているキリストのマインドが私たちの魂のうちに展開する。キリストの感受性によってすべての事象に対応するようになる。この時こそ、イエスと同じわざ、否、それ以上のわざをなすであろう。神の国がタンジブルに地上にもたらされるのだ!

永遠が時間に切り込む瞬間

これが信仰。天(霊的領域)のサブスタンスは永遠の現在のもの。時間の流れや空間の制限を一切受けない。それは普遍かつ不変。これが真理。対して地(物理的時空間)の事実は時間と空間の中で転変する。信仰が働くことは天のサブスタンスをこの地に引き下ろすこと。つまり永遠の現在に存在する真理が、有限な時間に切り込むのだ。神が天を裂かれて肉体をもって現出されたように、信仰は時間を裂き、天のサブスタンスを空間に現出させる。それゆえ、信じる者はなんでもできる、のだ。

 

イエスはいつほふられたか?

先に創世記1章1節に、すでにイエスがコードとして埋め込まれていることを紹介した。この創世記1章1節の「初めには」は時間と空間と物質の始まりである。つまり神が物理的時空間を創造されたときであり、2節との間にはギャップがあることも紹介している。ちなみにヨハネ1章1節の「はじめに」は永遠のはじめであり、時間を超えている。永遠の現在としての「はじめ」である。

さて、イエスが十字架にかけられたのは紀元30年とか33年とか言われているが、要するにこの物理的時空間における時系列の中での出来事である。が、これは歴史的事実であり、真理ではない。真理とは天のサブスタンスであり、事実、黙示録にはこうあるのだ。

地上に住む者で、天地創造の時から、屠られた小羊の命の書にその名が記されていない者たちは皆、この獣を拝むであろう。-Rev 13:8

この「天地創造の時から」が何にかかるのか。KJVではこうある:

And all that dwell upon the earth shall worship him, whose names are not written in the book of life of the Lamb slain from the foundation of the world.

つまり、「ほふられた小羊」にかかっている。邦語訳では曖昧であるが、小羊は地の基が置かれる時からほふられていたのだ!もっと正確に言えば、「天地の創造のときの前には」の意味である("apo",Strong)。同様に私たちも天地の基が置かれる前から愛にあってきリストのうちに選ばれていた(Eph 1:4)。神はこの地、すなわち物理的時空間に拘束されていない。彼は天、すなわち永遠の現在である霊的領域のお方。イエスの十字架は天地創造のときにはすでにあったのだ。われわれもそこにいた。これが真理だ。そのサブスタンスが時系列的に現出したのがAD30あるいは33年の十字架である。

神の目にはすべてが終わっている。神の国は、すでに、今、ここにある。よくルークさんは理想論を言っているのであって、現実はそんな単純なものではないと抗議される向きがある。彼らは欺かれているのだ。聖書を物理的時空間における五感によって読んではならない。自分の経験をものさしにしてはならない。ましてや自分のオツムを判断基準にしてはならない。神を自分の心の慰みものとしてはならない。御言葉を弄んではならない。

あなたもわたしもその神の信仰のサブスタンスにすでに含まれているのだ。だからキリストと共なる死と復活が、今、ここにある。キリストがうちに住まわれる。これ自体がスーパーナチュラルな真理である。十字架は永年の現在に存在する神の金字塔である!

 

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