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Tag: 癒やし

ある方の眼病の癒しの証

この方は瞼の裏に多数の脂肪のツブツブができる疾患で痛みに苦しみ、医師にも匙を投げられていた。昨年は特にひどかったのだが、8月頃、私のメッセージの「癒しはすでになされている」を思い出し、癒しを告白したところ、それ以降今日に至るまで脂肪の粒がでなくなっている、と。加えて乾燥眼もあったのが、今では潤っており、「痛みのない眼、ゴロゴロしない眼、潤いのある眼。嬉しいです。なんと素晴らしい!ハレルヤ!言葉につくせない感謝を神に捧げます・・・・」と。

繰り返すが、信仰があればいつか神が癒して下さるだろう・・・はフェイスではない。それはつねに裏切られる。フェイスは願うことのサブスタンス(Heb 11:1)。つまりフェイスが癒やしの実体そのものなのだ。信じたのに神は癒してくれない・・・は敵の欺きに引っかかっている兆候。私たちはイエスの打たれた傷により癒された(完了形)。これがフェイス。霊のサブスタンスそのもの。それがこの五感の世界に現出するのだ。欺かれない者は幸いである。

Glory be to God!

 

肩と腕の痛みの消失+α

またマインドのトラップにハマっていた。この数日右手の肘から先と右肩に痛みが生じていた。要するにマウスの操作による腱鞘炎と肩こりだ。右肩は以前にストレッチで肉離れしたことがあり、ずっと不調だった。で、そのことを私はごく自然に、つまりナチュラルに受け入れきた。自分の右肩は肉離れの後遺症で痛みがあって当たり前だと。右手の腱鞘炎もPCをいじる以上、ごく自然の兆候であると。何の疑問も感じてこなかった。つい30分前まで。

ところが、フッと気がついた。あ、また自分はこの症状を受け入れていると!先の喉の痛みと同様に、ただちにその思いを拒絶し、悔い改め、主の血を塗り、宣言した。天の領域にはこのような痛みはない、お前は天の真理に従うのだ、ただちに消え去れ、と。するとスーっと体の右半分に爽やかな感覚を覚え、痛みが消え去るのがわかった。鉛のようになっていた肩がスッキリと軽くなり、右手の腱鞘炎の痛みもきれいに消えた。WOW! まことに

信とは望んでいることが事柄のサブスタンス、まだ見ていないことの立証である。-Heb 11:1

追記:家内は季節性アレルギーでこの時期は咳き込む傾向があった。特に冷たい風に当たったりラーメンなどの熱いものを食べるとき、コンコンコンとむせるように咳き込んでいた。通常でもしばしば。私もこれは彼女の体質だから別に癒しを求めるとかの気持ちもなかった。まあ、いつものことだ・・・と。しかし、1時間前にこれもマインドのトリックと気がついて、彼女の胸と背中に手を置いて祈った、というより、命じた。アレルギー反応よ、消えよ!天のサブスタンスが現れよ!と。

・・・で、今、食事をしたところ。キムチ鍋。つまり熱い上に刺激がある。いつもなら必ず咳き込むのだが、あれれ、出ない。それまではコンコンしていたが、祈りの後、まったく出てない。で、彼女、恐る恐る、訝しげに、どうなってるの?変だぞ・・・と。[@19:10]

Derek Prince

この本は1996年に購入した私の愛読書の一冊。英国のDerek Princeによるもの。彼のティーチングはColin Urquhartと同様にブリティッシュに洗練されている。米国の人々とは一味も二味も違う。

ネットのうれしい点は、彼のメッセが直接聞けること。時間の合間をみて、読むよりは、できるだけ聞くことにしている。ひとつ紹介しておこう。

-Derek Prince - Invisible Barriers To Healing

 

鏡像原理の罠

まずはこちらのクリップを見て欲しい。神による奇跡が医学的証拠に基づいて証されている。中にはオペで切除した3フィートの大腸が1年後に再生していたことを、奇跡だと外科医が証言している。外科医自身がオペ室でタンジブルな(手で触れる)臨在を感じたとも。

Pr. Donは言う、神の全能性は誰も信じているだろうが、神のWillingnessに対する信仰が欠如しているのだ、と。先の息子が悪霊に憑かれていた父親とも共通する。あるいは「お心でしたらきよめていただけるのですが・・・」と主に求めたらい病人のケースと同じだ(Matt 8:2)。この時、主は明確に言われた、"I Will"と。これが神の心なのだ。

しかし、しばしばわれわれはそのことに確信を持てないことがある。果たして主は自分の場合は、あるいはこの人の場合はどうだろうか・・・と。聖書には「イエスは昨日も、今日も、永遠に変わらない」と書いてあるにもかかわらずだ(Heb 13:8)。これはすなわち、自分の鏡像を見ているからにほかならない。自分の裁く秤で自分も裁かれることは霊的な初歩的原則。同じように、主の心を疑うときには、実は自分の心を見てしまっている。そう、自分にWillingnessが欠如しているのだ。

あなたはいつくしみある者には、いつくしみある者となり、欠けたところのない者には、欠けたところのない者となり、清い者には、清い者となり、ひがんだ者には、ひがんだ者となられます。-Ps 18:25-26

もちろん神ご自身が「ひがんだ方(あるいは曲がった方)」になるのではない。人は自分の鏡像を神の内に見ているのだ。よく、今日、神は癒しはなさらないとか、癒しとかしるし・不思議などは浅薄なものとかする向きがある。それを投影して見ているのだ。だから信仰を使うことができない。世の人がよく言うセリフ、「信じたくらいで楽になれれば苦労はない!」も同じ。だから彼らは救われないのだ。もっと言えば、彼らは自分を神としている!彼らに尋ねたい、あなたは何をもっとも重要視し、何を求めているのか?と。

神は病んだ人にはあわれみ(同情ではない!)を覚えるお方。あわれみはその人をその状態から引き出す。イエスのあわれみは常にわれわれを神の国にふさわしくないモノや状態から解放するのだ。もし、それが信じられないのであれば、神に問題があるのではなく、あなたそして私の心にあることを知るべきなのだ。神は常に"I AM"にして"I WILL"なる方なのだから。

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