Information

3_White_logo_on_color1_256.jpg

ブログ・スクリプトをWord Pressにチェンジしました。明日(2017年3月10日)以降、このページは更新しません。新しいブログに移行します。

-DR.LUKE'S iDLE UTTERANCE(http://www.dr-luke.com/wp/)

なお、フレームは以前と同じです。

-http://blog.dr-luke.com

また過去ログはこちらで一覧可能です。

-Dr.Luke's Spiritual Insight(本ブログ)

-過去ブログ2

-過去ブログ1

 

Entry

Tag: 精神病理

ハリー・ポッター現象の病理

10数年前に鳴らした警鐘はほぼ的中している。

 

リバイバル新聞(2002.03.03号)掲載記事

本件は社会病理、精神病理、霊的病理の各レヴェルで論じられるが、紙数の関係もあるので本質的な点にのみ焦点を絞って論じることにする。

1.社会病理レヴェル:仮想現実への逃避

まず結論的に言えば、このような種類の本や映画が異常なヒットを記録すること自体がすでに異常な現象である。その内容は単なる児童文学なのか、あるいは魔 術を積極的に蔓延させようとする意図があるのかは不明であるが、このような本がかように歓迎されることの裏にある病理に注目したい。

一言で言えば、ハリポタ現象の素地は物質主義が行き着くところまで来たことによる閉塞感である。今日、政治・経済から始まって科学や思想の世界、さらに宗 教界もすでに窒息寸前の状況にある。目に見える世界、五感で知覚し得る世界において、人々は身と心の縁を喪失し、自分の将来の夢を託し希望を持つことがで きない状況に陥っている(第二テモテ三・2)。

このような状況下では人々は「目に見えない世界」に逃避を試みる。その仮想現実の中で代償的満足を得るのである。一時ニューエイジ系のヒーリングや自己啓 発や潜在能力開発などがブームとなったが、これらにはまだ現実世界との接点があった。しかし新ミレニアムを迎えて入れ替わるかのようにハリポタ現象が起 き、その仮想現実性を増幅し、ほとんど現実との接点は切れている。人々はますますヴァーチャルな世界に耽溺し、逃避したがっているように見える。

2.精神病理レヴェル:人格に対する影響

私たちの魂(知・情・意)はその三要素の間になるべく矛盾がなく、整合性を取る形で自分の認知のフレームを構成する。一般に認知された対象がその認知のフ レーム-特にマインド(思い)-にハマルならば私たちは安心感を得る。しかしそれが認知のフレームにはまらない場合、私たちの魂は困惑と不安を覚え、その 緊張感を解消するためにその対象自体を否定するか、あるいは自分の感情と意志をそれに適合することにより違和感を最小にするように変化させる。後者の精神 の働きをフェスティンガーの「認知的不協和の理論」と呼ぶ。よって何をどう聞くかよく注意すべきである(ルカ八・18)。

実はカルトの洗脳やマインドコントロールはこの原理に基づいている。すなわちカルトでは人を閉鎖空間において、その人の認知のフレームに収まらない教義を 一方的に聞かせる。すると人は普通の環境であるならばそれを拒否できるが、逃げられない状況に置かれている場合、違和感と不安感を最小にすべく自分の感情 と意志を変えて行くのである。こうしてマインドコントロールによって、その人の魂、すなわち全人格を再構成し行動までも統制し得る。

魔法や魔術などのファンタジーにさらされた場合も、特に幼い子供の場合、容易にこのファンタジーに自分を適応させ、マインドコントロールされる可能性が高 い。人のマインド(思い)をコントロールできれば、いずれ全人格を獲得できるのである。この意味で私たちクリスチャンは神の言葉にさらされて、神の言葉に よってマインドを制御する必要があるが(ローマ十二・2、ピリピ四・6-8)、ハリポタはマインドをファンタジーにさらす点においてこの霊的原則に抵触す る。私たちの思いに浮かべるべきものはファンタジーではなく、リアリティでなくてはならない(コロサイ二・6-10)。人格はそのマインドに浮ぶ想いに 従って構成されるからである。

私たちの魂は独立独歩し自らを"主"とする傾向が強い。魂の自己主張と自己保存欲求はきわめて強固である。ハリポタはこの魂の性向にとってきわめて魅力的 である。すなわち魔法によって、自分の思いのままに人や状況をコントロールすることができる能力は、魂が切に求めるところである。人が超能力やオカルトに 惹かれるのこの魂の性向による。この意味で、特に内的に欲求不満を抱える子供の場合、積極的に自らの魂をハリポタの世界に適応させていく可能性が高い。こ れは魂を霊に服させるべき原則に抵触する。

3.霊的病理レヴェル:フェイク(虚偽)による侵食

第一に神は魔術や占いを拒否される(申命記十八・10-14)。また神は、思ったことはすでになした事と等価である、と評価される(創世記六・5、マタイ 五・28)。そこで私たちの頭に去来する想いの質とルーツが問題となる。私たちクリスチャンも絶えず「目に見えない世界」とコンタクトしているが、それは 御霊によって再生された霊というチャネルを通している。その霊的世界はリアリティであって、決してファンタジーではない。目に見えるものは一時的である が、目に見えないものは永遠である(第二コリント四・18)。これが私たちが自分を委ねるべき目に見えない世界である。そこには十字架がその中心を占めて いる。キリストの十字架から遊離した「目に見えない世界」は、偽り者であるサタンの作り出す虚構の世界、あるいはサタンの領域の世界である。

そこで魔法的ファンタジーはただちにこの十字架のリアリティに抵触する(コロサイ二・20)。キリストの十字架から遊離した「目に見えない世界」は、偽り 者であるサタンの作り出す虚構の世界、あるいはサタンの領域の世界である。十字架をバイパスして霊的世界とコンタクトするならば、悪霊との接触を意味す る。特に精神が受動的になる時、敵はありとあらゆる火の矢を放ち、私たちの精神を侵食しようとする(エペソ六・16)。この意味でハリポタ映画によって、 特に文字だけではなく映像の刺激にさらされる場合、ますます精神は受動性を高め、被暗示性が亢進する。被暗示性は特に幼い精神においては顕著に亢進する が、その時にインプットされた刺激は深層心理から霊的領域に至るまで相当に深く印象を刻み込む。

対して神の言葉は硬い食物であり、飲み込むことが難しい。それを自分の血肉にするためには自らの意志をもって絶えずそれに関わる必要がある(第二テモテ 三・10-17、ヘブル五・14)。しかるにキリスト教界でも軽い本がよく売れる昨今である。いわんや幼い子供の場合、自らの意志を持って御言葉に関わる 習慣が十分確立されていないが、ハリポタの世界にはきわめて簡単に入り込める。ハリポタの場合すでに述べた魂の性向(肉)を刺激して、文字情報が容易にイ マジネーションに直結する。活字離れの子供たちが活字に戻ると言っても、一概に評価できない複雑さを感じる。

このような肉の心地よさの条件付けを得た人々は硬い神の言葉に関わることが困難になることは容易に予想できる。人は自分の好みに合うものを自ら求めるから である(第二テモテ四・3,4)。こうして良心が曇り、御言葉を通して啓示される霊的リアリティを自らの信仰によって実体化し、その世界において自らの霊 的デンティティを確立し、自らの信仰を全うすることができなくなる(第一テモテ一・19)。

今日大人でも自ら立つ信仰ではなく、寄らば大樹の陰よろしく「みんなで一緒に輪になる信仰」が蔓延している。すでにテレビがそのような受動性を養う役目を 何十年も担っており、その中で言葉が消耗品化している。しかるに神のお取り扱いの中心は言葉によるのである。霊と言葉は密接に関わっているゆえに、自らを 任せる言葉を取捨選択し、主体的に御言葉に関わる態度を養うべきであるが、ハリポタの世界の言葉には霊的に問題がある。その霊的影響はただちに目に見える ようになるというよりは、今後じわじわとその実を結ぶことであろう。

「私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。」(第二テモテ二・8)

少年たちの心の闇を探る

■本稿はリバイバル新聞2000年5月14日号掲載記事の原稿です。


はじめに

私はすでに昨今のカルト問題や猟奇的事件の発生の原因となる霊的病理について総論的に分析しているが(2月20日号)、その後も少年によるこの種の事件が後を絶たない。しかもその質と程度において常軌を逸している。いったい彼らの心の中には何が起きているのであろうか。今回はそれらの犯罪の裏に潜む病理を各論的に考察してみたい。


その精神病理

社会規範やシステムの崩壊による外界適応のための内的世界モデルの構築が困難となり精神が"空回り"すること、内的世界モデルのヴァーチャル化(幻想化)が促進されること、またコミュニティーの崩壊によりアイデンティティーの担保を喪失し自己不全感に陥ること、その結果自我の受傷を回避すべく対人関係の間接化や、自己不全感を補償するためにカリスマ性をもつ教祖に対して盲目的に帰依するカルトが成立することはすでに指摘した。今回の連続する少年犯罪も基底にはこの病理が観察される。

最近大学生や予備校生と接触するとき共有し得るものがあまりに少なく不明瞭である事を感じる。私の内的世界モデルと彼らのそれとはまったく異質であり両者間の了解性が欠落する。最近では正常であっても通常分裂病患者から受ける"分裂病くささ"を感じさせ、米国精神医学会の診断基準であるDSM-Ⅳなどによる"境界性パーソナリティー"を持つ若者が増えている印象がある。彼らの内には現実から分離された形でほとんど幻想に近いヴァーチャルな世界モデルが構成されており、それに基づいた判断と行動をしているのであろう。しかも若者特有の衝動的な行動も加わるとある種の脅威も感じる。大人から見ると捕らえどころのない、異界の住人のように見える。


その霊的病理

ここにさらに霊的要因もからんでいる。すなわちヴァーチャルな世界で外界との関係を間接化して精神を自己の内に閉塞する結果、一種の受動性を招来する。この受動性こそ悪霊の接触にとって格好の培地となる。サタンや悪霊は霊的な存在であるが、独自の思いを持ち、しかもそれらを私たちの思いに投影し得る。エバやイエス、そして私たちに対してもこのような形で誘惑がなされる。彼らの思いはもちろんあらゆる不潔や汚れ、悪意と欺瞞、また恐怖や恐れに彩られ、その暴露を繰り返し受けるならば、私たちの精神自体もそのような性質を帯びる危険性がある。しかも昨今のコンピューターゲームやインターネットの普及によって、その妄想をただちに映像化しシミュレーションし得る。ここで彼らの思いに投影された妄想的影像は強化され、そこにカセクシス(給付)されたエネルギーがある臨界点を超え内的に留め得ないレベルに至ると、ついに一つの犯罪行為が成立する。

しかも彼らには自分の行動に対する内省はない。精神分析的に言うと、成人の場合の"現実原則"に沿った自我の統合的制御下にある内的エネルギーの配分とその解消の過程を2次過程と称し、それに対し自我が目覚める以前のイド(本能的欲望のエネルギーに満ちる無意識的領域)における"快楽原則"に従う1次過程としての無秩序な仮想的行為が、青少年においても優勢であり続ける。彼らは肉体的には成長していても、内的には乳幼児と変わりない。しかも乳幼児は無邪気であるが、彼らは悪霊的な邪気に目覚めているために、その無秩序な幼児的仮想行為に残虐性を帯びる。


その対応

このように精神病理に加えて霊的病理が絡んだ問題であるだけに、これらの少年犯罪に対する対応は非常に困難である。社会の側としては自らの腐食部分の全摘と崩壊しつつあるパラダイムに代えて新しいそれを確立し、そのプロトコルに従えば将来の展望やアイデンティティーを確立し得る保証を与え、精神エネルギーの1次過程的内部停留を解消し、自我統制下における2次過程的なエネルギーの配分と解消をすればよいと説明できる。

加えてすでに霊的に相当に侵食され、あらゆる領域に腐食した領域(="サタンの要塞")を構築されている日本においては、なかんずく霊的戦いが必要となる。真理としてのキリストを命として提供し、その命による癒しと究極的リアリティーを提示する聖書の啓発によって、彼らの内的世界モデルを是正すること、そして御霊のオリエンテーションの下でその内的エネルギーの配分と解消を導くことが必要である。

神学は精神病理の反映

私のような精神医学をやったものからみると、神学なるものはそれを唱えた人の病理性の表現と思われるわけ。ちなみにフォイエルバッハも「神学は人間学だ」と言ったそうだが・・・。

例えばカルバン。いわゆるTURIPで有名だが、彼は自分の批判者や反対者をことごとく粛清した。その方法も火あぶり。しかも、苦痛を長引かせるためにとろ火で焼いた。彼などは典型的なサディズム傾向を帯びている。

また例えば、ウエスレー。彼はいわゆる聖化なるものを強調したが、典型的な強迫性性向の持ち主。完全癖で、ねばならない思考の持ち主。ルターもややこの傾 向がある。サディズムも強迫傾向も実は肛門期へのリビドーの固着による肛門性格の二面性の反映。肛門加虐性と被虐性だ。前者はいわゆるサディズム、後者は マゾヒズムや強迫神経症などを誘発する。

かくして魔女狩りとか、異端審問とか、いわゆるキリスト教の歴史はかなりグロイ。が、それは人間が歴史の中で組織したキリスト教の世界のオナハシに過ぎな い。ジーザスとは関係ないし、まして聖書とは関係ない。人がジーザスの名を用い、また聖書を利用しただけだ。ジーザスはキリスト教の教祖でもなければ、聖 書もキリスト教の経典でもない。

そもとも霊的世界と関わることは宗教ではないのだ。それを宗教に落としたのがキリスト教。私自身もキリスト教徒なるアイデンティティーの意識はないし、むしろキリスト教なる宗教は大キライというところがホンネ。それは所詮五感の領域で組織された宗教体系に過ぎない。

自然科学者としては、現在のサイエンスはあくまでも五感の領域を対象としているだけで、神や霊の世界があるともないとも結論することはそもそもしない。神 とサイエンスが対立すると考えるのは素人だ。近代サイエンスの祖ニュートンは神の創造された世界の法則を探求した。神とサイエンスは別に矛盾しない。

極私的には、霊がアクティベーションされたことにより、霊的世界とタッチし、それを見てしまった。ゆえに研究対象がこの物理的世界から霊的世界へと拡大し たのだ。驚くべきは、パウロなどはすでに紀元1世紀に「法則」なる用語を当たり前に用いていること。またヨブ記(紀元前の書物!)には、「天の運行の法 則」なる用語が出る(38:33)。まさしくサイエンスの書。しかも物理領域のみでなく、霊的領域をも包含するサイエンスなのだ。

というわけで、『神学書』なるものを読む時間があったら、聖書を、できれば生の原語にさかのぼって読むことをお薦めする次第。カルバンを知っていても、ウエスレーを知っていても、それはあなたの病気を癒しはしない。それを癒すのはあなた自身のフェイスなのだから!

あなたの信じたとおりになるように-ジーザス

Pagination

  • Newer
  • Older
  • Page
  • 1

Utility

CALENDAR

11 2018.12 01
S M T W T F S
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -

MOON AGE

WORLD CLOCK

COUNTER

    Access.....
    Yesterday......
    Today............

RANKING

    ブログランキング・にほんブログ村へ

KF_SITE

FOR MEMBERS

APPLE iTUNES STORE PODCAST

YOUTUBE ARCHIVE

OLD iDLE UTTERANCE

OUR WORSHIP

TWITTER UPDATE

INSTAGRAM UPDATE

PRAY FOR ISRAEL

QRcode

BIBLE SEARCH

ENTRY SEARCH

Recent Trackback

Re:真の礼拝とは-Colin Urquhart
2018/04/30 from 承認待ち