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Tag: 老子

老子いわく「幸福は肉体の穴を塞ぐこと」-ウェーバー・フェヒナーの法則

人間の満足感Rは刺激量Dに対して、ΔR=k・ΔS/Sで決まる。つまり刺激が大きくなると一定の満足感を得るためにはより刺激を増加させないとならないのだ。これを積分するとR=klogSとなり、Sが大きいほど満足感は増加しなくなる。だからSexやDrugは深みにはまるのだ。

-宝くじで1億円以上当たった人の末路

カネも同じ。単純に言って、温泉旅館で1万円から2万円にするときそこそこ満足感の増加量が大きいが、5万から6万にしてもさほど変わらない。同じ満足感の増加量を得るには10万円にしないとならないのだ。

人間の感覚はたいてい対数に従う。平均律などはもろオクターブ(2倍音)を12段階の等比数列にしてるわけで(公比が2の12乗根)、ピアノの鍵盤は対数なのだ。1度、2度・・・なるものがそれ。音や地震のMも対数。地震ではMが2増加するごとにエネルギーは1000倍になる(+1で約33倍)。

老子も肉体の穴を塞げば幸せになれると説いている。刺激のわずかな増加量で大きな満足感の増加を楽しめるレベルにいるのが一番ハッピーなのだ

 

老子第九章

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持而盈之、不如其已
揣而鋭之、不可長保
金玉滿堂、莫之能守
富貴而驕、自遺其咎
功遂身退、天之道
   ―老子第九章

「いつまでも器を一杯にしていようとするのはやめたほうがいい。刃物の先を鋭く尖らせれば長持ちしない。金銀財宝を蔵に蓄えるほど、守るのが難しくなる。 富や名声を得て傲慢になると、かえって名誉を汚すものだ。やるべき事をやり遂げたら、さっと身を引くのが天の道である。」

爽やかに生き、爽やかに死ぬ。執着は卑しいし、醜いものだ。

Directed Rest―積極的安息

静まって、わたしこそ神であることを知れ。-詩編

Directed Rest。ブレインと聖書の啓示。聖書はサイエンスの先を行ってるのだ。

老子も言う:
塞其兌、閉其門、終身不勤。開其兌、濟其事、終身不救。
見小曰明、守柔曰強。用其光、復歸其明、無遺身殃。是謂襲常。

<その兌(あな)を塞(ふさ)ぎ、その門を閉ざせば、終身勤(つか)れず。その兌を開き、その事を済(な)せば、終身救われず。小を見るを明と曰い、柔を守るを強と曰う。その光を用いて、その明に復帰すれば、身の殃(わざわい)を遺す無し。これを常に襲(よ)ると謂う。>

【大意】人間が受けるもろもろの誘惑は身体の穴からもたらされる。その五感をふさげば(積極的情報遮断)、心は消耗せず、目に見えない明(真理)によって歩めば身に災いを招くこともない。これが常(普遍)の道に従うことだ。

まことに現代は一方ではストレスによる緊張を求められ、その反動で穴の欲望を垂れ流しにする時代。緊張を緩和するための垂れ流しによって、人の精神はぐだぐだに弛緩し、新鮮な感動も感激も喪失するのだ。真に安息した者は自由に活動するエネルギーに満たされる。ディレクテド・レスト―いい言葉だ。

聖書はサイエンスの先を行っている。

老子第五十三章

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使我介然有知、行於大道、唯施是畏。大道甚夷、而民好徑。朝甚除、田甚蕪、倉甚虚。服文綵、帶利劔、厭飮食、財貨有餘。是謂盗夸。非道也哉。-老子第五十三章

我をして介然として知有らしめば、大道を行くに、ただ施(ななめ)なるをこれ畏れん。大道は甚だ夷(たい)らかなるも、而も民は径(こみち)を好む。朝 は甚だ除(きよ)められ、田は甚だ蕪(あ)れ、倉は甚だ虚しきに、文綵(ぶんさい)を服し、利剣を帯び、飲食に厭(あ)き、財貨は余り有り。これを盗の夸 (おご)りと謂う。道に非ざるかな。

大道を行けば安らかに生きることができるのに、民は小賢しい脇道を行きたがるもの。こうして世は道を外れ、卑しくなるのだ・・・が、大意。

そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ/汚れた者がその道を通ることはない。主御自身がその民に先立って歩まれ/愚か者がそこに迷い入ることはない。-イザヤ書

老子の説く道(タオ)の実体(サブスタンス)はジーザス。

わたしは道である。羊はわたしを通して出入りし、牧草にありつく。-ヨハネ福音書

 

其の兌を塞ぎ、フェイスを使え

GYMにてスイミングをする際、体重と体脂肪を測定する。現在、それぞれ69.5キロ、10%台後半。ホントはもう少し絞りたい。最近は1,800Calレベルを意識している(もちろん楽しむときは目一杯だが・・・)。高タンパクを意識して、炭水化物はできるだけカット、が、油断すると増える。息子が勤務するある超大企業では昼食代手当が毎日2,000円だとか・・・。はぁ、何食ってんの?って感じだが、人間、食いたいだけ食うと体はぶよぶよになるばかりでなく、老化も進む。スピリチャアルにも鈍くなるし、ブレインも低下する。俳優の榎木孝明氏が30日間の不食を行った際、食べないと感受性が高まり、頭脳も冴えると証言していた。聖書でも断食を勧めている。

このボディは私の霊(spirit)と魂(soul)を入れる容器に過ぎず、いわゆる五感によって支配されている。現代人は五感の奴隷になっていると言える。五感で感知する世界のみがリアリティーと思い込んでいるのだ。が、霊の機能であるフェイスは五感を超えた世界をリアルなものとして経験できる。つまりシックスセンスなのだ。映画『スターウォーズ』のフォースはバイブルのフェイスのパクリだが、今回は「フォースの覚醒」が副題だ。フォースによって遠くを見ることも、未来を知ることもできる。これは元々フェイスのパワーだ。末期のガンすらも癒される。フェイスの覚醒。これ、終末を生きる人類の究極のテーマ。

五感に縛られない生き方。老子も言っている(第五十二章)。

 其の兌(あな)を塞(ふさ)ぎ  其の門を閉じれば  終身勤せず
 其の兌を開き 其の事を済(な)せば  終身救われず

人間の身体にある穴を開きっぱなしにし、その感覚を貪ると心身は消耗するが、それらをふさげば健やかに生きることができる、というわけ。まずは食を支配すること。争いはすべて食を巡ることが原因なのだ。資本主義も共産主義も、一見高尚な思想体系に見えるが、元を正せば、いかにして食うか、が起源。対してイエスは言われた、

何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。・・・ 空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。 また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。-マタイ福音書

では、良い週末を、God bless!

老子五十六章-五感によるカプセルに閉じ込められるな

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読み:
知る者は言わず、言う者は知らず。その兌(あな)を塞(ふさ)ぎて、その門を閉し、その鋭(えい)を挫(くじ)いて、その紛(ふん)を解(と)き、その光を和(やわら)げて、その塵(ちり)に同(おな)じくす。これを玄同(げんどう)と謂(い)う。故に得て親しむべからず、得て疏(うと)んずべからず。得て利すべからず、得て害すべからず。得て貴(たっと)ぶべからず、得て賤(いや)しむべからず。故に天下の貴きとなる。

意味:
物を真に知る者は語らない。語りたがる者はまだ知らないのだ。知る者は五感を塞いで、あえて敏感な感覚を鈍くし、意識のもつれを解きほぐし、自分の知才を抑えて、塵と一体となる。これを玄妙なる同一と言う。この同一を得た者は、近づいて馴れ馴れしくもできず、敬遠して疎遠にもできない。利を与える事もできなければ、害を与える事もできない。敬して尊ぶ事もできなければ、卑めて侮る事もできない。かくして彼はこの世で最も貴い存在となるのだ。

まことに、何かを知っていると思う者は知るべきことも知らない(1Cor 8:2)。義人は目に見えるところによらず、見えないものによって歩む(2Cor 5:7)。自分のプライドを離れるならば、つまりセルフに死ねば、チリとひとつになる(1Cor 4:13)。このような者は世の価値観によって縛らないゆえに、人間関係ものめり込むこともなく、利害や、尊敬や貶めに影響されることもない。肉によって人を知ることがないからだ(2Cor 5:16)。イエスも世の君がつけこむ要素は何もなかった(John 14:30)。こうして世にいるが、世の者ではない者として神の栄光に与るのだ。

ポイントは何か、自分が何者であるか(アイデンティティー)、自分がどこにいるのか(スフィア)。自分が何をなし得るのか(アビリティー)。これらを五感で判断するな、と言うこと。五感はわれわれを欺く。そしてその中にわれわれを拘束する。五感のカプセルによってすっぽりと覆われてしまうのだ。五感に基づいて、世の物差しを用いるならば、世の神を主とすることになる。そのとき、世の神はわれわれに対する権威を有することになる。否、本来、なんの権威もないのだが、われわれが彼に同意するからだ。

自分にどのような物差しを適用するか。それは、御言葉。その啓示。五感をあえて閉ざし、霊の奥深く、すなわち至聖所に入るのだ。そこにはすでにイエスの血が注ぎ出されている。そこはポータル、時空間を超えた霊の世界。その世界のサブスタンスをこの物理的時空間に現出させること。これがわれわれの信仰。霊の世界に生き、フェイスを使え。

まことに門(ポータル)であり、真の道(タオ)はイエスなのだ。

わたしは門であり、道である。-Jesus

 

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