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Tag: 魂

聖書の記述の矛盾に隠された秘密

出エジプト30章では、祈りを意味する香壇は幕屋の聖所に置かれている(Exo 30:6)。が、ヘブル書9章では至聖所にある(Heb 9:3)。だから、聖書はいい加減だ!・・・アブソリュートリー・ノー。

ジーザスが十字架で死なれたとき、幕屋の隔ての幕は上から下へと裂かれた(Matt 27:51)。人が裂くなら下から上へだ。つまり神ご自身がスーパーナチュラルに裂いたのだ。これはジーザスがご自分の体を裂いたことを意味し、年に一度大祭司のみが入れた至聖所に至る道が開かれた(Heb 10:20)。

祈りも旧約時代はレビ系祭司制度の儀式として外庭と聖所でなされた。それは天の型であり、本体はキリスト(Heb 10:1)。今や聖霊が天を裂いて下り、天は地に介入している(Mark 1:10)。祈りも同じ。新約の祭司である私たちの祈りは今や、至聖所で捧げられるのだ。外庭は体、聖所は魂、そして至聖所は霊を意味する。ゆえに香壇は至聖所にある!

祈りは神の霊と私たちの霊の共鳴。バイブレーションの波長が一致する時、それは神の前に立ち上り、香となるのだ(Rev 5:8)。霊のバイブレーションを魂の知性で言語化すれば知性の祈り、知性をバイパスしてそのまま音声に乗せれば異言となる。

聖書の矛盾―実はそこにディープな秘密が隠されている。

詳細は⇒http://www.kingdomfellowship.com/Topics/mostholy.html

 

マインドフルネス-思いの霊において新しくされる

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ここは邦語訳では「心の底から」とか、「心の深みまで」とか訳されるのがふつうである。岩波訳は「あなたがたの〔思念を規定する、神の〕霊でもって新しくされ」となっている。いつも言っているが、日本語で真理を理解してはならない。ギリシャ語を当たるのが一番だが(これも写本の問題があるが・・・)、KJVでは

And be renewed in the spirit of your mind; -Eph 4:23

つまり、思い(nous)の霊(pneuma)において新しくされる、だ。ここでポイントは、心と思い(マインド)は異なること。このあたりが日本語のあいまいさで、なんとなく分かったつもりになるだけの人がほとんど。私の著書『神の新創造-聖書が啓示する自然法則を超えるマインドのパワー』でも指摘したが、マインドは霊的領域と物理的領域の接点である。霊的な存在は私たちのマインドに働きかけることができるのだ。

同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。-Gal 4:3

この諸霊(stoicheion)は新改訳では「世の教え」、岩波訳では「宇宙の諸力」と訳されている。それは霊的体系であり、私たちのマインドにアイデアとしてまかれ、その想念の種は膨らみ、体系化され、思想となり、共産思想のように政治体制や国家をすら生み出す。つまり霊はマインドの深くに侵入し、時に浸食することすらある。だから、霊的な「死ね」という声を聴いて、自殺する人々も出るのだ。

神の霊も同じように、私たちのマインドに入り込みたい。神の霊によってドライブされたマインドは、すなわちキリストのマインドである。私たちはすでにキリストのマインドを持っているのであるが(1Cor 2:16)、それは神の霊、すなわち聖霊によってエネルギーを得て、ドライブされる。私たちのマインドが肉によってドライブされるとき、すなわち肉の思いは神に敵対する(Rom 8:6-7)。ゆえに私たちのマインドをドライブする源は神の霊であるべきなのだ。

では、自分が今、肉によってドライブされているのか、霊によってドライブされているのか、どうやって知るのか。単純である。

肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。-Rom 8:6

死の感覚を覚えるのか、いのちと平安の感覚を覚えるのか。私たちの体は本来中立である。義の武器ともなり、不義の武器ともなる(Rom 6:12-13)。注意すべきは、パウロの述べる肉(flesh)は、別に肉体のことだけを指すのではない。神の霊から分離された肉体と魂(思い・感情・意志)のあり方を言うのである。マインドは肉体の大脳(ブレイン)と同期している。が、大脳の機能のみではない。先にも書いたが、想念はブレインを超えて存在している。だから、霊の領域にタッチできる人はその想念を受信できるのだ。イエスはよく人の考えをご自分の霊で見抜かれた。

かくしてこの世の体系は人々の想念の体系でもある。私は時に本屋などで、うるさいと感じることがある。別に雑踏や騒音がうるさいわけではない。そこには想念が渦巻いているのだ。ちょうど客引きから声をかけられるように、アレコレの本からそのような誘いを受ける。かくして世の想念を受信し、それを思いめぐらしたりするならば、たちまち死の感覚を覚えるであろう。が、ワーシップや聖書の言葉に触れ、主を想いめぐらすとき、内側は甘く、温められて、いのちと平安、そして愛と希望とフェイスが沸き上がるのを感じることができる。ゆえにパウロはこう勧めている:

ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である。-2Tim 2:8

この「思っていなさい」の原語はμνημονεύω、Thayerによれば、to be mindful of、つまり思いを満たすことである。このとき、神の霊は私たちのマインドにペネトレート、浸透する。要するに私たちのマインドは神の霊のペネトレーションを受けるのだ。こうして私たちの魂(Soul)、つまり思い・感情・意志はキリストのそれを反映するようになる。

もっと言えば、メッセでも語ったが、私たちのハードウェアとしての人間性にキリストのソフトウエアがインストールされるようなものだ。ジーザスはその人間性から神を現された。私たちも同じ。私たちの人間性を通して、神が現れるようになる。WOW!これが敬虔の奥義(1Tim 3:16)。「敬虔」なる単語はよく分からないが、英語ではgodliness、原語はeusebeia、簡単に言えば神性の表現である。神は人間性を通してご自身を現される。これがエクレシア、キリストの復活のいのちを吹き込まれた新生命体であり、神の新創造だ(⇒神のエコノミー)。

最近、欧米ではマインドフルネスなる用語をよく聞くが、問題は何によってマインドフルにするか? その答えは・・・ご自分でどうぞcool

生と死の狭間

昨日、親戚筋の葬儀があった。今年に入って二件目。家族葬だったが、人形作家の与勇輝氏も来てくださった。仏教式で延々とお経が響く中、改めて生と死の狭間を考えたところだ。数日前までは意識朦朧としつつも生きていた。が、今や蝋人形のように横たわっている。この境目って、どこにあるのだろうか?

元々肉体は物質に過ぎない。が、この物質を用いて「私」が生きている。神の意志を表現するのもこの物質。霊と物質の間に魂が介在し、霊の感覚を言語化し、それを表現する。大脳は特に魂とシンクロして機能する。大脳のどこに、どのようにして「私」が存在しているのか。ペンローズなどはニューロンの中の微小管における量子力学的現象としている。すると自由意思なども量子力学的ゆらぎによることになる。つまり偶然的なもの。

現在、カオスの理論によると偶然と必然を区別することはできないのだ。これは前に再建主義者との対話でも指摘した。いわゆるカルバン主義とアルミニウス主義の対立がナンセンスであると。極私的には、魂あるいは意識の問題は物理的時空間の現象としては解明されないと確信している。それは霊的領域と物理的時空間の狭間に存在するからだ。サイエンスは未だに五感によって把握される世界のモデル構築に過ぎない。神や霊の存在を否定も肯定もしていない。意識はようやくサイエンスの対象となり始めた。が、サイエンスが五感を頼りとする限り意識を意識が理解することはできないだろう。鍵はやはり聖書にあるのだ。

主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる魂となった。-Gen 2:7

この命は複数形。つまり土から肉体を粘土をこねるように構成し、命の息(neshâmâh:霊)を吹き込むと、肉体と霊との相互作用により魂が生じたのだ。魂は霊と物質の狭間に生きている、特にマインドは霊と物理的時空間の接点だ。結局、人は体の命(bios)、魂の命(nephesh)、霊の命(neshâmâh)を持つ存在とされた。私はこの霊と魂は「場」を構成していると考えている。素粒子もそれぞれの「場」の振動あるいは波動として定義されるが、霊と魂も「場」を有していて、その波動がわれわれの実際的に経験する霊と魂の現象であろうと。これがいわゆるオーラを発する源だ。イエスもしばしば霊によって人々のマインドを読み取った。「場」が見えるのである。霊の見極めの賜物も同じ。

特に霊の「場」の事象を把握して言葉(レーマ)として発する時、その「場」はこの物理的時空間に実体化される。これはニューエイジも「思考物質化の法則」として知っている。繰り返すがヘブル11章の信仰には定冠詞がなく、その定義はクリスチャン信仰だけではなく、一般的な法則なのだ。われわれは十字架の贖いの上にあって聖霊の導きにより信仰を使う。正確には信仰の法則と言ったほうが良いかもしれない(Rom 3:27)。このコツが開かれると、いずれ死者も生きることを見るであろう。なぜ?イエスがそう命じられたからだ。

病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。-Matt 10:8

これは十二弟子限定というむきがあるが、マタイの最後にはこうある:

イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」-Matt 28:18-20

ここの「守る」も日本語で理解してはならない。いわゆる校則を守るとか、道路標識を守るの意味だけではない。Strongによれば、逃れることがないように見張ること、とある。つまりイエスの命じたことをすべて取りこぼすなという意味なのだ。Are U with me? われわれのマインドがトランスフォーメーションされて、イエスのマインドが完全に私の魂の「場」に現れるようになれば、死者は生き返る。いわゆるキリスト教が絶滅危惧種となりつつあるのは、デュナミスの現れが欠如しているからだ。改めて

神の国は言葉(ロゴス)にではなく、力(デュナミス)のうちにある。-1Cor 4:20

 

デゥナミスを知る

神の国はロゴスにではなく、デゥナミスにある(1Cor 4:20)。Dunamisは力と訳されているが、これも日本語の世界で考えてはならない。もっと豊かな意味を持っているのだ。Thayerによると

Thayer Definition:
1) strength power, ability
 1a) inherent power, power residing in a thing by virtue of its nature, or which a person or thing exerts and puts forth
 1b) power for performing miracles
 1c) moral power and excellence of soul
 1d) the power and influence which belong to riches and wealth
 1e) power and resources arising from numbers
 1f) power consisting in or resting upon armies, forces, hosts

しるし・不思議・奇跡・癒しなどをなす能力はもちろんであるが、魂のエクセレンスと富と豊かさを得る能力も含まれている。私たちの魂は生きてきた過程において、不健全なSoul Tie(魂の結びつき)や傷によって、魂のエクセレンスを失っているのだ。私たちは霊がスーパーナチュラルに再生された新しい創造である。が、この魂は旧い体の一部である大脳とリンクしている。いつも私が言う大脳辺縁系の問題を抱えているのだ。これがクリスチャンの抱えるあらゆる葛藤のルーツである。この魂がエクセレンスを得るほどに、私たちはあらゆる領域で繁栄することができる。ヨハネが祈るとおりである。

あなたがたの魂が繁栄しているように、あなたがたがあらゆることで繁栄し、健やかであるようにと祈る。-3John 1:2

私たちはすでにキリストのマインドを持っている(1Cor 2:16)。が、私たちの旧い大脳の影響により、キリストのマインドが私たちの魂のうちに広がらないのだ。そこでもろもろの問題や病気や欠乏を抱えたとき、旧いマインドの反応をせざるを得ない。私たちはキリストと共に天にいるのであるが、その天的御座からの見方・考え方ができないのだ。こうして袋小路に自分を閉じ込めてしまう。キリストが見るとおり、考えるとおり、私たちの魂の中でキリストのマインドが展開するならば、私たちは常にあらゆる恐れ・不安・葛藤・絶望・無価値感・欝・自己疎外感・焦りなどなどから解放される。ゆえにパウロは勧めている。

兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき理性的な礼拝である。あなたがたは、この世の形に形作られてはならない。むしろ、思いを新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。-Rom 12:1-2

まず、なすべきは体を捧げること。これが理性的な礼拝。その後にマインドのリニュアルによってトランスフォーメーションされる。なぜか。この体が旧い創造に属するから。よって体を主の御手の下にまず置く必要がある。こうして魂がエクセレンシーを回復されればされるほど、私たちの魂は繁栄し、あらゆる領域で繁栄する。体・魂・霊のすべての相において健やかにされる。これが主観的ホーリネスだ。

神のデゥナミスはこれを可能にする。

このゆえに、わたしの心は楽しみ、わたしの栄光(原語)は喜ぶ。わたしの身もまた安らかである。あなたはわたしのたましい(原語)を陰府に捨ておかれず、あなたの聖者に墓を見させられないからである。-Ps 16:9-10

追記:魂のマインドで何を考えるかはきわめて重要。私たちの存在を決定するからだ。箴言に次のようにある(邦語訳はいつもどおり不適切)。

For as he thinketh in his heart, so is he:(彼はその魂で考えるとおりの人間だ)-Prov 23:7

ここの「心」とある部分は正確にはnepheshであり、魂が適切。この場合、思いは人格として実体化されるのだ。私たちのマインドのパワーのひとつの証明。

 

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