したいことをしない祝福
カインの道に対しては新訳でも警鐘が鳴らされている(1John 3:12;Jude 1:12)。今、その霊と決別してみると、恐るべきところにいたと感じている。自分がもっとも誇るところ、自分が当然としているところ、そして自分が心地よいと感じる領域、これはカインの領域なのだ。神から離れた自給自足の生活、音楽や芸術などの娯楽、科学技術依存のあり方。まさにこれが現代社会ではないか。対するセツの道。神の備えによる歩み。その子エノシュから人類は主の名を呼び求めるようになった。エノシュの意味は"mortal(死ぬべき者)"。つまり人類は弱さを知ったのだ。・・・といったことはかつて私自身も書いていた。
しかし、ヨブのように、 無知をもって神の計りごとをおおうこの者はだれか。それゆえ、わたしはみずから悟らない事を言い、みずから知らない、測り難い事を述べました。・・・あなたのことを聞いてはいましたが、今、直接見ました。それゆえチリ灰をかぶり、自分を退け、悔い改めます(Job 42:3-6)。12月に私はまったく予期もせず、あの領域に触れ、直接見てしまった。いにしえのモーセも、ギデオンも、イザヤなどの預言者たちも、新約のマリヤもザカリヤも、そしてパウロもペテロもヨハネも、みな例外なく神の領域を見ると恐れ、混乱し、取り乱すのだ。自分は何を見たのか、自分はおかしくなったのか、自分はどこにいるのか・・・と。
今、御言葉との照合をほとんど終えて、整理がついてきているが、今度は、その神の領域に入ることが喜びとなる。下のビデオで個人的携挙と言っているが、まことにその表現は適切だ。あるいはアセンディング。そしてその領域を祈りと言葉によって整えて地に降りる。ディセンディング。するとその領域のサブスタンスが時系列の中でこの物理的時空間に現出する。これが信仰だ(Heb 11:1;11:3)。イザヤ書ではこう描写している:
主は常にあなたを導き、焼けつく地であなたの渇きをいやし、骨に力を与えてくださる。
あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。
人々はあなたの古い廃虚を築き直し、あなたは代々の礎を据え直す。人はあなたを「城壁の破れを直す者」と呼び、
「道を直して、人を再び住まわせる者」と呼ぶ。
安息日に歩き回ることをやめ、わたしの聖なる日にしたい事をするのをやめ、安息日を喜びの日と呼び、
主の聖日を尊ぶべき日と呼び、これを尊び、旅をするのをやめ、したいことをし続けず、取り引きを慎むなら、
そのとき、あなたは主を喜びとする。わたしはあなたに地の聖なる高台を支配させ、父祖ヤコブの嗣業を享受させる。
主の口がこう宣言される。-Isa 58:11-14
文字通り、天の園を整えるのだ。新訳の私たちにとっては毎日が安息日。主を喜ぶ鍵は何か、自分がしたいことをするな、自分を喜ばすことをするなということだ。これはいわゆるニッポンキリスト教の宗教的縛りではない。むしろ解放。なぜ?カインの道を行く者は自己実現をはかり、自己満足を堪能しているかのようであるが、実はそれは大いなる束縛だから。しかも自分が束縛されていることに気がつかないことが致命的なのだ。エノシュのように自分がmortalであると知ること。そこから主の備えに頼るセツの道を歩むことができる。簡単に言えば、自己(セルフ)の道からの解放。それは主を喜ぶことなのだ。すると地の高台を支配し、ヤコブの資産を享受できる。WOW!
SO BE IT !!!