信仰とは何か?
- 2015/06/23 13:00
- Posted by Dr.Luke Karasawa (唐沢治)
- Category:信仰
- Tag:サブスタンス
信とは願っている事柄のサブスタンス、見えないものの立証である。-Heb 11:1
江戸時代には労咳(結核)は不治の病だった。その宣告はただちに死を意味していた。それが江戸人のリアリティー。彼らはしばしば真言密教などの護摩祈祷や厄払いを試みたり、信心に励んでお百度参りや滝行をしたりした。が、どんなに頑張っても、どんなに厳しい修行をしても徒労に終わった。
ところがここにひとりの人がいた。彼は20世紀から江戸時代にワープした20世紀の人だった。彼は抗生物質を持っていた。彼は言った、わたしの元に来てこれを飲みなさい。恐れないでただ信じなさい。彼の元に来た者はみなその抗生物質を飲んだ。理由は不明であるが、効果は劇的だった。しかし漢方医は嫉妬と妬みで彼の薬はインチキであると吹聴した。種痘なども牛の膿を塗ると牛になると大衆は信じていた。だから抗生物質も拒絶した。労咳が治るわけはないと。こうして激論が起きたのだ。
抗生物質は労咳の癒しのサブスタンス。それがあれば癒されたと分かる。しかし信仰は行いによって完成される。それを飲むのだ。これで癒しが立証される。信じたらそれに相応しくアクションを起こすこと。ここに紹介するCLIPはT.L.オズボーンの娘さんの証。この男は38年間ポリオで両足が麻痺し、骨のようになっていた両足で立ち上がるのだ。癒されてから立つのではない。信じて立ち上がると癒しが現れるのだ。
-Amazing Healing Stories | LaDonna Osborn
自分は聖書に通じ、霊的に深い何かを知っており、価値のある、より深い霊性を求めるとするクリスチャンの発言としてよく言われるセリフがある:しるしや不思議や癒しなどは低レベルの事柄。自分はもっと深い本質的なことを追求しているのだ、と。かつての私もこの部類だったが、何を追求しているわけ?あるいはそのようなことを追求すると別の霊が働き、真理から逸らされるとか、悪霊が働くから癒しを求めてはならないと明言する向きもある。彼らはイエスよりも霊的に深いことを追求しているのだ。このようなことを語る人々には、しばしば信仰の欠如や裏切られた期待が潜んでいる。自己の正当化。
あなたは何を追求しているのか?あなたは何が欲しいのか?あなたは父の御心はどのようなものと信じているのか?・・・今、私はこう問われている。
追記:自分は第一にキリストに似ることを追求しているのだとするお言葉をいただきました。私たちは決してキリストに似ることはできません。キリストがうちに形づくられる事はメタモルフォーゼ(Gal 4:19、ここも邦訳が不適切ですが)、つまりトランスフォーメーションですが、それはマインドから始まります。そしてキリストが形作られるならばキリストと同じ業をより一層容易にすることができるでしょう。病を癒し、死者を活かし、悪霊を追い出し、癩病をきよめ・・・と。
追記の追記:very prophetic!!!
victorman
神の言葉がリアルに語られているので、主に感謝しています。過去のブログも見たところ、「追記:自分は第一にキリストに似ることを追求しているのだとするお言葉をいただきました。私たちは決してキリストに似ることはできません。」とありました。コリントⅡ3:18に「主と同じ姿に変えられる」とあり、現実にキリストのように変えられる人がいなくても、み言葉は変えられません。多くの、キリストに似ることを追及している人々に、自分の思いではなく、み言葉をもって、語っていただきたい。