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フェイスはタイムトラベルを可能にする

フェイスはNOWだとメッセで語っている。私たちの霊は御霊から生まれた(John 3:6)。それは神のいのちであり、私たちのボディは神の神殿である。魂(知性・感情・意志)は霊と体の狭間にあって、神の言葉・指令か、肉体すなわち五感の情報か、どちらかを選んで、内的にアセスメントして、それを言葉や行動として表現する。これを昨日のメッセで語った。天の国籍を持つことは、天の会話に与ることである。

私という存在の本質は、肉体ではない。さらに魂でもない。霊である。外なる人は滅びるが、うちなる人は日々新たにされる(2Cor 4:16)。それは神のいのちそのもの、すなわちキリストご自身である。そのキリストのマインドを信じる者は持っている。キリストのマインドは霊的なものであり、そのマインドが私たちのマインドに浸透する。ゆえにパウロは思いの霊において新たにされよ、という(Eph 4:23;邦語訳はいずれも誤訳)。キリストは今や肉体に束縛されることのないいのちを与える霊である(1Cor 15:45)。

かくして信仰という単語はまことに不適切であると何度も指摘しているとおりである。信じて、仰ぐ?ノー。それはピスティス。信だ。シックスセンスなのだ。私たちの魂由来のものではない。五感の領域のものではない。肉のものではない。それは霊の領域のセンスであり、アビリティである。しかも、イエスはこう言われる。神の信を持て、と(Mark 11:22)。さらに、私は死んで、もはや生きているのは私ではなく、キリストである。今、肉にあって生きている私は御子の信によって生きるのである(Gal 2:20)。はあ?私は死んだ。でも生きている?これは霊の領域の事実と五感の領域の事実を混同することによる混乱。

私たちの霊は私たち自身の本質であり、それは時空間を超える。時間と空間に縛られない。ゆえに私たちは霊においてはアブラハムやダビデ、新訳の弟子たち、そしてイエスご自身と交わることができる。神と交わるとはタイムを超えた世界の、スーパーナチュラルな現象なのだ。が、一方で肉にあって私は生きている。これは五感の経験だ。その五感の領域にキリストのマインド、神の愛という霊的サブスタンスが実体化される。だから、神の甘い愛に浸ることが出来るし、聖霊の慰めにもあずかることが可能なのだ。ゆえにこのような内的経験はスーパーナチュラル。そもそもなんでキリストとともに私は死に、復活することができるわけ?タイムトラベルなのだ。かくして私たちのは時間と空間を超える神的能力であり、さらに時間と空間を統治することができるのだ。

・・・と、これから先は私の新著をお読みください。次回のメッセでも語る予定。

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