人は自分の心をことばに映してそれを得る
- 2016/01/29 08:20
- Posted by Dr.Luke Karasawa (唐沢治)
引き寄せの法則はニューエイジの用語だが、その霊的法則は聖書がオリジナルである。
自分の恐れていたことが起こった。危惧していたことが襲いかかった。-Job 3:25
人は心にあることを口が語る。何気に語るそのことばがまことの、あなたのそして私のフェイスの表現である。今、きわめてクリティカルな状態にある方のブログを読んだが、またご自分で固めてしまっておられた。エゼキエルの妻のごとく、神が求めるものは取り去られてもやむなしとのニュアンスのことを数年前に書いておられる。フェイスの穴だ。心にある恐れを御言葉によって修飾しているのだ。そこを突かれた。絵に書いたようなハッピーかつ模範的な、だれもが羨むクリスチャンホーム。私も私の家族もその子のことを知っている。幼い頃一緒に遊んだ。人情としてはまことに痛々しい。が、盗み、滅ぼし、殺す者はあの者である。神は決して私たちを試みることはない。
試みられる時、誰も、自分は神に試みられていると言ってはならない。神は諸悪の試みを受け得ない方であるし、自身誰をも試みたりはなさならからである。各自が自分の欲望によって引きずり出され、誘い出されて、試みられているのである。-James 1:13-14
「誘い出され」の意味は罠にはまること。「欲望」とあるのはいわゆる快楽を求めるようなことだけではない。それは肉の思い。恐れや不安なども含まれる。肉の思いは神に敵対するのだ。恐れや不安をいだくとき、それは自動的に神の恵みや力(デゥナミス)の流れの障害となる。繰り返すが、もっとも主が言われた教えは「恐るな!」だ。ややこしい霊的形成がどうのこうのではないのだ。フェイスはシンプル。求めよ、聞け、信じよ、そして語れ!
人は自分の心の中にあるものがそれを招いているのだ。次々に不幸に見舞われる人。何度も男に貢いでは騙される女。何をやっても惨めになる男。病気に病気の辛酸を舐めるもの。それは神の訓練でもないし、それによって練られるわけでもない。前にイジメの問題で、相手に立ち向かえと指摘した時に、Salt氏が抗議してきた。立ち向かえなどは混乱を招くだけ、イジメられる中で人は成長するのだ!巧妙な偽りである。偽りを語るならば必ずそのとおりの試みを受ける。フェイスの穴を突かれるからだ。
しばしば人はヨブの言葉を持って事態を正当化する。神は与え、また神は取られる、と。が、この発言は迷いの中にあるヨブの心の吐露である。それは神に冤罪を被せること。現にヨブは塵灰を被って、完全に悔い改めであろう。自分は無知をもって神の経綸を暗くしていた、と。神を有責者としてはならないのだ。
再度指摘する、神に服し、悪魔に立ち向かえ。悪魔は逃げ去る!悪魔こそが盗み、滅ぼし、殺す者。イエスはその者のわざを滅ぼすために来られた。神はいのちを与える神である(1Cor 15:45)。
じゅんこ
フェイスはシンプル!アーメン
御言葉もシンプル!
もうややこしいのはうんざりですね。
美しく飾られた言葉も、優秀そうな言葉もむなしいです。
主はごちゃごちゃ言わなかった。
ヨブはあれこれと言い、その友人たちもあれこれと。
シンプルに受けとる素直さ大事ですね。