実証VS.弁証
今回、雑誌『Newton』の前社長が逮捕される事件がFBで流れてきて、びっくりしてサイトをのぞくと、かつて受験時代にお世話になった初代編集長の竹内均先生の一文があった。
よくキリスト教弁証学なる分野があって、それ系の本もある。これ、自然科学系の人間から見ると実にいかがわしく感じられるのだ。佐藤優氏もいうとおり、神学は虚学であり、論理的整合性がもっとも低い、声がでかいヤツが勝つ学問だと。
下で紹介したNewtonの竹内均先生の言葉がピッタリする。
もう一つ私がつねに心がけたのが「実証」ということ。実の証拠ということですね。文科系の学者の先生はよく「弁証」ってんでね,弁舌でもって言いくるめるというような方法をとられますが,自然科学ではそういうことをやらないんです。実の証拠をたくさんあげてくるという,このやり方です。
フェイスも弁証ではなく、実証の時代。まことに
神の国は言葉(ロゴス)にではなく、力(ドュナミス)にある―コリント書
とあるとおりだ。これまでのニッポンキリスト教、文系アプローチで今の状況。まことに現代は、量子力学に見られるように、サイエンスがGODに肉薄している時代。旧態依然としたアプローチでは世から呆れられるだけであろう。
今、フェイスとは願う事柄のサブスタンス、まだ見ていない事柄の立証である。―ヘブル11:1(私訳)
サブスタンスをもって立証する時代なのだ!