業界のタブーをあえて語ること

いずれの業界にも組織にも必ずタブーが存在する。それに触れると業界におれなくなるのだ。ジーザスは当時のユダヤ教の祭司や律法学者などのタブーに触れ、いわゆる教職の欺瞞を暴いた。今日も同じ。ジーザスはいわゆるキリスト教の教職なる存在を糾弾する。なぜ?

ジーザスは明確に「あなたがたは互いに兄弟であるから先生と呼ばれてはならない」と言われている(Matt 23:8)。それはニコライ派の教えと実行、聖書で明確に断罪されている(Rev 2:6)。が、今日、ニッポンキリスト教には「先生たち」が跋扈している。欺瞞の中に浸かりつつ、悔い改めを訴えたところで、その言葉には権威も力もない。ヒステリックに響くだけだ。

私はホントのことを語る。彼らは先生と呼ばれることに何らの良心の疼きを感じないのだろうか。事実、私が語ると彼らの良心を刺激する。彼らのマトリックスを危うくするからだ。だから私はスノーデンと同様に業界にとっては危険人物となる。時代が時代なら火あぶりだ(笑) (影の声:事実、リバイバル新聞に書いた記事に対して、電話での抗議や不買運動が起きたそうな・・・苦笑)

ジーザスはキリスト教の教祖やグルではない。キリスト教なる宗教はニンゲンが歴史の中で勝手に築いてきたもの。カルヴァン神学などを信奉することはヒトラーの『わが闘争』をテキストにするようなもの。カトリックはいわずもがな、ルターとて同じ。真実から目を背けることなかれ。

業界のタブーにあえて触れること。どうもこれは私の役目であるようなのだ

教会の職制について

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