預言することへの惧れ

昨今、「預言ナントカ」とかが人気らしい。『存在の耐えきれない軽さ』とか言う本があったが、まさにその軽さに私は耐えきれない。コレ、いろいろ裏話も聞いているが、下手すると口寄せの罪、あるいは占いの罪と堕す(Lev 19:31)。それは元々かなり深刻な罪である。

神の言葉を託されて語ること、これが預言。そしてそのことの責任の重さは真に神の霊により語ることと、自分から語ることの違いが分かるものであれば、身をもって味わうはずだ。身丈に応じない言葉を語るならば、必ずしっぺ返しを受ける。神の言葉を語る時、まず自分にそれが返ってくるのだ。これ、けっこうシビア(James 3:1)。

ゆえに神の言葉を託されてそれを解き放つことにはある種の惧れ(あるいは恐れと言ってもよい)を覚えるようになる。真実に霊に従って語ることができているかどうか。惧れを覚えることのない気楽な「預言」とかはまず偽モノだ。それは敵の霊によるフェイク。

今日、語る側も聞く側も霊の深い識別力が求められている。どちらの側にも惧れ/恐れがあるかどうか。言葉を扱うことは神ご自身にタッチすること。ゆえに語ることも、聴くことも必ずその実質が問われてしまう・・・。預言の霊はジーザスの証である(Rev 19:10)。

■参考:預言の霊的機序

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