カオス理論から見た「偶然と必然」―神の意志と人の意志のエンタングルメント―

いつものカルバン神学に立つ再建主義の富井氏の主張。今回の私のメッセとかぶるので、紹介しておきます。

tomi 2017/05/01(月) 09:37

すべてが決定されている

十字軍の本質とは、「獣に乗る女」である。
獣とは、白人。
女とは、背教のユダヤ人。
ヤハウェを裏切ってルシファーを拝んでいるタルムードユダヤ人の偽装キリスト教であるローマ・カトリックが、白人を動かして「聖地を奪還」させようとした。
今のシオニズム運動と構造はまったく同じである。
CFRとFRBというアメリカの真の支配組織を動かすタルムードユダヤ人たちが、米軍という獣を動かして、次々と世界の国々を乗っ取っている。
世界は二重構造になっている。
バチカンは、表面的にはキリスト教、しかし、地下には人身御供を行う悪魔崇拝所がある。
アメリカは、表面的にはキリスト教、しかし、その金融はルシファー教徒たちが牛耳っており、実体はシオニストの組織。
十字軍もアメリカも、シオニストたちに利用されて、ルシファーの国の完成のために活動する。
このような二重構造を見抜けなければ、歴史の本質は見えてこない。
この歴史の本質とは、イエス・キリストをメシアとする神の国に対して、自らの領土を拡大し、世界征服をもくろむシオニズムなる偽メシア運動の挑戦である。
しかし、神は、歴史が始まる前に、神の国の拡大とイエス・キリストによる世界支配を予定され、すでにすべての出来事は起きることが決定されている。
われわれが目の前に見る出来事は、「すでに撮影済みのフィルム」の一コマ一コマが銀幕に映し出されるようなものである。
偶然など一つもない。
すべてが必然であり、すべてが決定されている。

徹底した決定論、つまり必然性のみの世界観である。ここには彼が主張するとおり、人の自由意志が入り込む余地がない?!ただただ、神の決定の前に服するのみ。これがカルバン神学の特徴。ちなみにカルバンがどのような人物であったかはすでに紹介している

が、カオス理論から見れば、本質的にわれわれには偶然と必然を区別することはできないのだ。量子力学では電子などは波動として多様な可能性を有しているが(固有関数系)、観測されるときにひとつの状態、つまり位置と運動量が決定する(波動関数の収縮)。しかも時間を遡って粒子として確定されるのだ。観測されていないときにはあらゆる固有関数系としての波動状態として存在している(偶然性)。つまり偶然性と必然性が観測によって微妙に絡むのだ。

私たちのフェイスも同様だ。私たちが自由意志を用いるとき、あらゆる霊的可能性(神の許容的意志の領域において)を有する霊的サブスタンスが、時空間の中で決定される。ここでも偶然性と必然性が微妙に絡む。神の目から見たら、つまり神の目による観測結果はすでに確定している。それは神の許容的御旨の中に存在する。つまり私の経験はすでに決定されていたのか、それとも自分の意志で選び取ったのか?どちらもあると言えるのだ。かくして時空間に生きる私たちにとって、瞬間瞬間、自由意志により、霊的経験を選び取っている、すなわち霊的サブスタンスを実体化している。これが私たちのこの世界における個々の経験である。

今、私はこの瞬間にこの記事を書く行為を選んでいるが、別のことを選ぶこともできたはずである。では、どちらが神の御心に合致するのか、という問題提起は意味がないのだ。そのどちらも神の観測空間にはあり得るから。これが多くのクリスチャンが陥る罠。「自分は何を選べば神に喜んでいただけるか?」と考え、あるいは「すべてが神によって決定しているならば、私の意志決定は無意味だ」との思考に陥る。これが受動性の罠である。それはすべて善と悪を知る知識の木の路線上にある。

対して神の道はいのちの木の路線。それはスーパーナチュラルなフェイスの世界。何事もフェイスによらないことは罪である(Rom 14:23)!カギはフェイス!フェイス(愛ではない!)がなくては神に喜ばれることはないのだ(Heb 11:6)。弟子たちはジーザスに「神のわざを行うために何をすればよいのか」と尋ねたが、ジーザスは「神がつかわされた者を信じること、これが神のわざである」と答えた(John 6:28-30)。弟子たちはあくまでも自分が何をすべきかマインドであるのに対して、ジーザスはフェイスつまり神のわざマインドなのだ。完全に平面を異にしている。

永遠のNOWの領域においてはすべては完成されている。それは時空間を超えた神の観測あるいはフェイスの結果。すでに啓示録は完了形で書かれている。そこに至るプロセスはこの時空間の中で起きる個々の事象であり、私たちのそれぞれの経験であるが、それは私のフェイスによって選び取られ、実体化される。だから神の観測空間においては、ジーザスの打たれた傷によりすべての罪は赦され、病は癒されている。なのに、現実空間では滅びる人もいるし、癒されない人もいる。それはその人がフェイスによって実体化し損ねたゆえだ。

要するに私たちは神の核心的御旨を自ら選び取る必要がある。これがフェイス(Heb 11:1)。そのフェイスの連続の延長線は神のフェイスに合致する。神の意志と私の意志がエンタングルメントするのだ。それはすでに完成されている、つまり神がフェイスした状況が私の個人レベルでも経験される(たとえばスーパーナチュラルな癒しが現れる)。

電子がスクリーンにまで飛ぶコースは分からない。が、観測すると確実に粒子としてとらえられる。要するに、観測によってスタートとゴールは決定される。フェイスも同じ。私たちは永遠においてすでに選ばれた;そして永遠において完成されている。その間の「;」のコースはフェイスしなければ決定できない。フェイスするときにそれはこの時空間に具体的に現出する。

ゆえにあなたの人生は神がすでに決定しているから自由意志を用いても無意味といった受動性に陥らないように。絶えざるフェイスの活用により、あらゆる可能性のある霊的空間のサブスタンスを瞬間瞬間を選び取るのだ。それも最も最上のものを!では最上のものとは?・・・・そうです、御言葉に書いてある:私たちは元から聖であり;義であり;完成されており;赦され・癒され;そして豊かな者とされ;神の栄光を反映し;輝く存在。もっとも高きエロヒムの子であることだ!

●参考: 神の予定と人の自由意志について

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