マインドのフィールド

私たちは体、魂、霊からなることは欧米のクリスチャニティでは常識。わがニッポンキリスト教では聖書自体が霊と魂の区別もできていないし、牧師たちも同じ状況。霊と魂の区別ができなければ、聖書を正確に理解することは不可能だ。

人間の聖書的啓示と現代精神科学

その魂は、英語ではSoul、ギリシャ語ではPsuche、ヘブル語ではnephesh。それはいわゆる知・情・意からなる。知性は先に書いたとおり、意識の領域と無意識の領域からなるが、養老孟司氏などの唯脳論者によれば、単なる電気化学的現象であるとされる。デカルトや脳外科医のペンローズなどは大脳と別に魂の存在を指摘している。要するに魂は物理化学的現象を超えたものであるとする。これは創世記の次の記述からも明らかである。

主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる魂(原語)となった。-Gen 2:7

つまり土から構成された体に霊を吹き込むことにより、そのふたつの要素の相互作用により魂が生じたのだ。物質と霊は相互作用することは癒しや奇跡の根拠でもある。この魂の機能のひとつであるマインドが信仰にとってきわめて重要であることは私の著書でも、ここでも何度も指摘している。

もしマインドが単なる物理化学的現象であれば、それは単に個人レベルの現象。そのときにはいわゆる美、徳、倫理、形而上学的価値観などを共有し得ることが説明できない。法律では、たとえば、人を殺したるものは死刑または無期もしくは何年以下の懲役に処する、と規定されているが、なぜ人を殺してはならないかは触れていない。が、私たちは理由を説明できないが、それを知っている。どうやって知るのだろうか。唯脳論者ならば、ある価値観を生み出すニューロンネットワークがすべての人間に共通の形で形成されるからだ、とか説明するのであろう。フロイトならば去勢不安を回避するために父親との同一視により超自我が分化すると説明する。

しかし私たちは魂は神の霊が吹き込まれて生じたことを知っている。つまり人の魂は堕落以前には神的な能力と価値観を元々有していた。地を従わせ、生き物を治める能力と徳を持っていた。つまり神の魂とつながり、その価値観や能力を共有していたのだ。だから人を殺してはならないと直覚的に知っている。ところが罪の結果、それは存在論的には消失していないが、機能の発揮を喪失した。よく人間は大脳の20%程度しか用いていないと言われるが、これはサバン症候群などの人を見れば明らかである。彼らの能力はどこに由来するわけ?

かくしてマインドはこの時空間においてのみ存在し、作用するのでない。いわゆる超能力などは唯脳論ではほとんど説明できないであろう。マインドがこの物理的時空間を超えた領域にまで作用し得るからこそ、超能力などもあり得るのだ*1。私が何度も繰り返しているように、マインドは霊と魂の接点である。ある種のマインドの用い方を体得すると、霊的世界にも波動を生じさせることができるようになる。これがいわゆる霊能力者とか霊媒師と言われる人々である。サウルも最期には死んだサムエルを霊媒師を介して呼び出した。これは多分に悪霊的現象であるが、霊的世界と関わっていたことは否定できない。

前にも書いたが私は人々の運命が見えることがある。理由は不明だが、分かるのだ。マインドはある種の波動のようなもので、たまたま私の大脳の近傍に集積しているが、量子力学的にはるか遠方においても存在確率はゼロではない。重力や電磁場のようにポテンシャルを有している。だからサタンは私のマインドに関わることができる。彼は私のマインドの、いわばシッポを掴むことができる。そして火の矢を打ち込んでくる。その火の矢もある種の波動のように伝播する感じを受ける。テレビ受像機で受信された電波が映像や音声をフレーム化するように、マインドに干渉してくるサタンの火の矢も、私のマインドの中に映像や声をフレーム化する。それをただちに拒絶すればよいが、しばしばそれが自分の肉に足場があると(今週のメッセも語ったが要塞)、それを自ら掴み、弄んでしまう/弄ばれるのだ。

だから私たちはマインドには十分に警戒する必要がある。特に文学系あるいは芸術系の嗜好を持つ人々は、自分のうちの病理性をその想像力の源泉としているため、その領域を十字架の癒しに手放す事を拒む。むしろ自分が病んでいることや歪んでいることをウリにする傾向がある。その病理性を共有する人々がいわゆる彼らのファンとなる。が、これはサタンにとって絶好の足場となる。彼らの想像力や作品のルーツはどこにあるのか?しばしばアーチスト系の人が悲惨な最期を遂げる理由はまさにここにあるのだ。

かくしてマインドは私の大脳を起点として、かなり広範な領域にまで広がっている。人の心が読める人はそのマインドの広がりの裾を掴むのだ。あるいは気配とか殺気とか。マインドを敵に掴まれないこと。ある種のマインドの純潔性あるいは透明性が不可欠となる。イエスは「悪魔はわたしのうちに何ももたない(=手がかりがない)」と言われた(John 14:30)。神の意志も霊に対してある種のインプレッションを与え、それがマインドにおいて映像や声や言葉としてフレーム化されることによる。マインドが自分のことや肉的要素で一杯であれば、神の波動はかき消されてしまう。かくして私たちのマインドは霊的せめぎあいの場となる。だが、敵の声か神の声か、見分けはある意味簡単。前者はマインドを苛立たせ、掻き立てるが、後者は鎮静し、平安といのちで満たしてくれる(Rom 8:6)。

マインドのトランスフォーメーションの重要性はここにもある。

*1:これについてはWatchman Neeの"The Latent Power of Soul"、あるいはJesie Pen-Lewisの"War on The Saints"、あるいはG.H.Pemberの"Earth's Earliest Aages"を参照されたい。

追記:ウォッチマン・ニーの"The Spiritual Man"から、マインドの重要性についてこちらを参照されたい。いわゆる主の御心のままにとか、御旨を待つとか、霊的受動性の危険性にも警鐘を鳴らす。われわれはマインドを積極的に用いて、神にアクセスする必要があるのだ。ニーはマインドはポンプのような役割だと言う。霊が流れるようになるまでポンプする必要があるわけ。なるほど。パウロも、霊で祈るとともに知性でも祈ろうと言っている。

The Principle of Mind Aiding the Spirit

 

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