マインドと物質の相互作用

ニュートン以来の古典物理学のフレームにおいては、時空間と物質は別々のもの、さらに私たちのマインドと物理的存在も別のものとされてきた。しかし、相対性理論により、時間と空間が実は絡み合っており、それらが伸び縮みすることが分かった。そして最近の量子レベルでは私たちのマインドと量子が相互作用していることが見出されてきている。mindとmatterの相互作用が報告されているのだ。さらに量子自身は時空間を超える!

かくして量子力学の世界では人間の意識が量子の状態に影響すると言われている。そもそも観測することは光を当てることによるが、光量子を電子に当てれば、電子は状態を変えてしまう。つまり位置と運動量を共に確定することはできないのだ。これをさらに進めて、意識作用自体が量子の状態に影響を及ぼすとする説が存在する。例えばこちらを

これを聖書信仰的立場から解すれば、ヘブル11章3節にあるとおり、目に見えるものは目に見えないものがフレーム化したものであるのだから、私たちのマインドが信仰によって目に見えない領域に影響を与える場合に、十分にありえることと思われるのだ。

信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られた(framed)ことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。-Heb 11:3

ポイントは、理性によって悟るのでははない。信仰によって悟るのだ。実はこの「信仰」という訳語も曲者である。信じて仰ぐ?はっきり言って意味不明だ。原語は"pistis"。この作用は1節に定義されている。

pistisは希求する事柄の実体(hupostasis)、目に見えないものの証明(elegchos)である。-Heb 11:1(岩波訳)

この目に見えない世界の実体を把握することは霊による。決してマインドにはよらない。が、マインドが制限されているとその実体を掴み損ねるのだ。例えば、病気は人格を練るために神が与えるものだとマインドがコンフォームされている人は、決して癒しの実体を得ることはできない。魂(soul)のマインドが霊の機能を抑圧してしまう。しばしば問題を抱え続ける人は、魂、特にマインドが束縛されている。だからそもそも神に求めることができない。キリストが十字架において成し遂げられた実体を得ることができない。かくしてこの時空間の中において延々と悶え続ける事になる。

昨今、いろいろな人々が、なかったものが存在するに至る現象を証している。切除された乳房が再生されたり、切断した指が生えてきたりと・・・。これらの現象はこれまでの私たちの世の形にコンフォームされたマインドの理解をはるかに超える。ゆえに大いなる議論や論争を生むのだ。それはイエスの御業を見た人々の間ですでになされたことであった。イエスは言われた、「信じる者には何でも可能である」と!信じるとはマインドが念仏を唱えるように、「われは○○を信ず!」と繰り返すことではない。望んでいる見えない実体を得ることだ。その信仰の瞬間、「得た!」と分かるのだ。それはマインドの理屈を超えている。"I know that I know that I know!"。

神の形に造られた人間のポテンシャルは相当のものがあるのだ。それは世の形にコンフォームされたマインドが、啓示された御言葉の形にトランスフォームされる時に発揮される。すなわちそれはキリストのマインドなのだ。私たちはすでにキリストのマインドを持っている!(1Cor 2:16;邦訳ではキリストの心とあるが、これは誤訳。)あらゆる状況や事象をキリストのマインドで見るとき、絶望とか失望とかはあり得ないのだ。

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