フェイス・アウェイクン-神の力を誘導するフェイス

詩編の作者はこう証している―

ただ少しく人を神よりも低く造って、栄えと誉とをこうむらせ、これにみ手のわざを治めさせ、よろずの物をその足の下におかれました。-Ps 8:5-6

この聖句が意味することは何か?YoungのLiteral Translationにはこうある:

And causest him to lack a little of Godhead, And with honour and majesty compassest him. 

Godheadに至るにはわずかに不足していると。Godheadとは神のPerson、すなわち神格だ(人ならば人格だが)。が、よろずの物を足の下にするものとして造られた。すなわち統治(Dominion)である。もし、エデンの園でアダムとエバがいのちの木の実をとっていたら・・・?

そう、彼らはGodheadに至ることができたのだ。もともと彼らの霊は神の息。すなわち神の霊だ。つまり人間は創造時点で神的存在だった。だから彼らが動物を呼ぶとそのアイデンティティーが決定し、地(=物理的世界)を治めよと命じられた。これは堕落後もサイエンスにより部分的には成就している。人類はその知性により物理的世界を相当程度治めている。が、神の統治は知性によるものではない。いのち(=ゾーエ)による統治である。

一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストによるいのちにあって支配するようになるのです。-Rom 5:17

それは自然法則を超える。いわゆるしるしや不思議は当然として、奇跡的癒やしや死者の蘇生なども起こるのだ。自分の身体に何かの兆候が出たとする。大抵は医師に検査してもらい、必要ならば処置を受ける。これは一般恩恵として、サイエンスによる物理的事象の統治である。しかしそのキャパを超える事象に対しては人類は未だに無力だ。

なぜ?神に至るにはわずかに欠損があるからだ。このわずか欠損をサイエンティストは必死で埋めようとしている。が、それは決して埋められないのだ。それを埋めるのはイエスの血のみ!否、埋めるにとどまらず、さらにわれわれを神格へともたらす。神と人が結合されるのだ!

しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。-1Cor 6:17

キリストは肉において現れた神だ(1Tim 3:16)。彼は生まれながらに聖霊の内住を得ており、ヨハネからバプテスマされたとき、外側も聖霊で満たされた。その肉体には罪(Sin;いわゆる原罪)はなかった。ゆえに100%、自由に神をご自分の魂と体をとおして現出させることができた。

われわれはどうか。罪の中に生まれ、原罪を継承し、魂と体はその影響下に条件づけされている。これが古き人であり、またその痕跡である肉を構成する。存在論的に古き人は十字架で抹殺されたが、この旧き体の大脳や神経系は古い条件づけを受けている。ゆえにマインドのリニューアルによるトランスフォーメーションが必要とされる(Rom 12:1-2)。ゆえにパウロは「古い人を脱ぎ捨てよ」とも命じている(Eph 4:22)。

ここで間違わないようにしてほしいが、すでに肉は十字架につけてしまったとある(Gal 5:24)。その事実(=霊的サブスタンス)に基づいて、それをフェイスにより適用することであって、肉と格闘することではない。御霊がそれをしてくださる(Gal 5:17)。すでにわれわれはキリストと共に復活した新創造、新人類、ネオ・ホモサピエンス、ニュークリーチャー、すなわち新生命体なのだ!これがフェイスにより私の身体と魂において実体化される。

このとき、神が人である私たちをとおして現出される。この点においてはイエスとまったく同じだ。ゆえにエクレシアはキリストの充満なのだ!宗教組織や宗教法人、なんと同盟や連盟とか、そんな人間が社会において構成した存在などではない!それは神の奥義(ミステリー)なのだ。神のいのち(ゾーエ)とパワー(デュナミス)がわれわれをとおして現出する。それは内なる神の国の現出とも言える。

新創造とは何か?神と結合された人間である。その霊が神(エロヒム)の霊から生み出された存在。すなわちエロヒム属だ[1] … Continue reading。神が臨在する領域であり、電磁場が宇宙を覆い尽くしているように、われわれも神の霊の場とされる。電波や光はその電磁場の振動、バイブレーション。さらにヒッグス粒子なども場のバイブレーションなのだ。私たちは神の霊のバイブレーションに囲まれている。もちろん内側にもバイブレーションは存在する。

その神の霊のバイブレーションを感知するとき、魂はそれをこの物理的世界の中で感じることができる。魂の一機能であるマインドはそれを言語化あるいは映像化し、私たちの身体の口が語り出す。内なる神のロゴスをレーマにする瞬間だ。するとそれは何かを生じるのだ!神の言葉を語るとは、聖書を正しく引用することなどではもとよりない。御言葉を解き明かすとか、自分はこう考えるとか、御言葉を弄ぶべきではない。バイブレーションに形を与えること。

このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す。-Isa 55:11

人を生かすのは霊であり、肉は何の役にも立たない。わたしが話した言葉は霊であり、またいのちである。-John 6:63

イエスは死人や天候、あるいは木に命じた。するとそのとおりになった。それと同じことをわれわれもせよと言われる。どうやって?・・・・こう考える人は罠に落ちている。フェイスによるのだ。フェイスはサブスタンス。願っている事柄の実体そのもの。それを語り出すとき、目に見えないものが立証される。これがヘブル書にあるフェイスの定義だ(Heb 11:1)。フェイスは神の領域にタッチし、そのサブスタンスをこの世界に現出させる。それは神の国の実体化。

フェイスには不可能はない。それは神の能力を誘導するからだ!私たちは全能ではない。が、フェイスは全能だ。なぜ?フェイスは神の霊そのものとも言えるからだ。われわれと神格を結合する。ゆえにフェイスはI AMの実体化だ。われわれが神になるのではない。神たる方がすでにわれわれの霊と結合されている。その方が現出するのだ。イエスは変貌の山でそれをデモンストレーションされた。私たちも同じことを経験する。内なる神が自分をとおして輝き現れる。これはニューエイジャーが言うアセンションと言っても良いかもしれない(まあ、言葉遊びにすぎないが・・・)。

イエスもすべてのわざを人としてなされた。もともとイエスは神、ゆえに全能だ。が、彼はあくまでも人としてサタンの誘惑に抗し、人として生き、人として御業をなさった。ゆえに私たちにも可能性が開けるのだ。彼が単に神として振舞っていたら、われわれは置いてきぼりをくらうだけ。神が人をとおして現出される奥義。これが敬虔の奥義である。

神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれました。このイエスは、神が共におられるので、よい働きをしながら、また悪魔に押えつけられている人々をことごとくいやしながら、巡回されました。-Act 10:38

ナザレのイエスは人としての彼の名、ゆえに聖霊と力を注がれて、神が共におられたゆえに・・・なのだ。かくして同じことがわれわれもなし得る(John 14:12)。神の国はロゴスにではなく、パワーにあるのだから(1Cor 4:20)。五感の領域を超えよ。五感に束縛されるな。あなたの本質は霊であり、それは神なのだ。それを知るのはフェイス!

フェイスに覚醒せよ!

(初出:2015年12月17日

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1 ここで何度も指摘しているが、いわゆる西洋神学における「エロヒム」の概念の変更が必要となる。これについてはDr.Heiserの一連の著作を読まれたい。

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