「人の子の再臨は紀元70年に起きた」と再建主義者

日本における再建主義の旗手富井健氏によると、AD70年にすでに人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来たと言われる。歴史的事実としてその様を目撃した者はいないし、資料としても残っていないが、世の資料にあるなしは問題ではなく、聖書がそう語っているので信じるのだと。そして、その後千年至福期に入っており、全世界が福音化され御国が建設された後1)御言葉はこう告げる、そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである(マタイ24:14)。この点についても、再建主義者は、AD70年前までに全世界に福音は延べ伝えられていたとする。、イエスはもう一度「再臨」される。つまり「再臨」には千年を隔てて二回あることになるのだ2)単純に考えて、それでは再再臨ではないのだろうか。

一方のディスペンセイション主義によると、現在はダニエル書の70週の預言におけるギャップ(69週と70週の間)の期間であり(Dan 9:24-27)、いわゆる恵みの時代、教会時代、異邦人の時代と言われる(Luke 21:24)。この時が終わると最後の70週目の7年に入り、解釈の差異はあるがこの前後に携挙と再臨が起こる。そしてイエスご自身が御国を地上に設立され、千年期に入るとする。つまりマタイの主の預言はAD70年のエルサレム陥落と来たるべき終末の光景が二重写しになっていると理解する3)この二重写しの解釈を取らない再建主義では、再臨が二回あるとせざるを得ないわけ。なお、最近、ディスペンセイション主義者による終末論と世界情勢の絡みを論じる傾向が強まっており、一部では携挙の時期まで指定して、仕事をやめたり、社会生活に支障が出ているむきもある。また日常生活をフェイスによって勝利の中で生きるより、主の再臨によってすべてを解決してもらう逃避的な傾向も見られる。極私的にはこのようなメンタリティーを「携挙再臨待機疲弊症候群」と呼んでいる。われわれはフェイスにより神の国のリアリティーを今、ここに、現出させる存在である。それは千年期の前味わい(foretaste)である。。このパラダイムの違いは大きい。

以下、いわゆるポストミレの主張をCLIPしておこう4)AD70年までに黙示録の20章までは成就したとする論はすでに紹介した。そのためには黙示録がAD年以前に成立している必要があるのだ。この点については富井氏はAD60年代とし、私はAD90年代としている。詳細はすでに紹介している

引用

(http://www.millnm.net/cgi-bin/wwwboard.cgi)

tomi 2017/07/12(水) 16:03 

人の子の再臨は紀元70年に起きた

彼らがこの町であなたがたを迫害するなら、次の町にのがれなさい。というわけは、確かなことをあなたがたに告げるのですが、人の子が来るときまでに、あなたがたは決してイスラエルの町々を巡り尽くせないからです。(マタイ10・23)

これは、「いわゆるイエス・キリストの再臨」が紀元70年に起きたことの証拠である。

「あなたがた」とは誰か。

弟子たちである。

聖書の時代のイスラエルは今日同様狭い地域である。四国ぐらいの面積である。

弟子たちが「イスラエルの町々を巡り尽せない」うちに再臨が起きる。

四国の面積の土地にある町々を巡り尽くす前に「人の子が来る」のであるから、つまり「それは紀元1世紀中に起きる」ということを意味する。

まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人々がいます。」(マタイ16・28)

「ここに立っている人々の中には」再臨まで生き残っている人がいる、とイエスは明言された。

イエスがこの言葉を言われたのが紀元33年ころとすると、紀元70年まで36年。

当時20歳の人は56歳。30歳の人は66歳。40歳の人は76歳。彼らが生き残っている可能性は十分ある。

もし再臨が今年紀元2017年にあるとすれば、彼らはそれぞれ2004歳、2014歳、2024歳。生き残っている可能性はゼロ。

しかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。
そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ちのきなさい。いなかにいる者たちは、都に入ってはいけません。
これは、書かれているすべてのことが成就する報復の日だからです。
その日、哀れなのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。この地に大きな苦難が臨み、この民に御怒りが臨むからです。
人々は、剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ、異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。
そして、日と月と星には、前兆が現われ、地上では、諸国の民が、海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩み、
人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです。
そのとき、人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。(ルカ21・20-27)

「人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見る」のは、いつか。

「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見」るときである。

いつエルサレムは軍隊に囲まれたか。

紀元70年である。

ティトゥスは第5軍団マケドニカ、第12軍団フルミナタ、第15軍団アポリナリスの3つの軍団を市の西面に、第10軍団フレテンシスを市の東のオリーブ山に配置し、エルサレムを包囲していた。(Wikipedia―エルサレム攻囲戦 (70年))

ディスペンセーショナリストの聖書解釈では、ダニエル書の9・24-27の「70週」はまだ起きておらず、その時に大患難が起きるという。

この大患難時代の間に「荒らす憎むべき者」が現れるという。

彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現われる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」(ダニエル9・27)

しかし、マタイ福音書では、それは、紀元70年に起きたと記されている。

イエスが宮を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに宮の建物をさし示した。
そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」
イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」(マタイ24・1-3)

それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)
そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。
屋上にいる者は家の中の物を持ち出そうと下に降りてはいけません。
畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。
だがその日、哀れなのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。(マタイ24・15-19)

そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。
人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。
いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。
そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。
まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。(マタイ24・30-34)

「預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』」が現れるのは、「あなたの来られる時や世の終わり」の「前兆」である。

そして、その前兆は、「この時代」に起きるという。

「これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。」

「これらのこと」には「荒らす憎むべき者の登場」が含まれている。

つまり、「荒らす憎むべき者の登場」は「この時代」のうちに起きるのである。

「この時代」の「時代」にあたるギリシャ語「ゲネア(γενεα)」という言葉は、「一世代(つまり、各世代によって通常占められる時間)、30年から33年の間」(Thayer's English-Greek Lexicon)とある。

つまり、ダニエル書の「荒らす憎むべき者」の登場は、同じ世代、だいたい30年から33年のうちに起きると明言されている。

だから、ダニエル書の「70週」が未来の出来事だと解釈することはできないのである。

References   [ + ]

1. 御言葉はこう告げる、そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである(マタイ24:14)。この点についても、再建主義者は、AD70年前までに全世界に福音は延べ伝えられていたとする。
2. 単純に考えて、それでは再再臨ではないのだろうか。
3. この二重写しの解釈を取らない再建主義では、再臨が二回あるとせざるを得ないわけ。なお、最近、ディスペンセイション主義者による終末論と世界情勢の絡みを論じる傾向が強まっており、一部では携挙の時期まで指定して、仕事をやめたり、社会生活に支障が出ているむきもある。また日常生活をフェイスによって勝利の中で生きるより、主の再臨によってすべてを解決してもらう逃避的な傾向も見られる。極私的にはこのようなメンタリティーを「携挙再臨待機疲弊症候群」と呼んでいる。われわれはフェイスにより神の国のリアリティーを今、ここに、現出させる存在である。それは千年期の前味わい(foretaste)である。
4. AD70年までに黙示録の20章までは成就したとする論はすでに紹介した。そのためには黙示録がAD年以前に成立している必要があるのだ。この点については富井氏はAD60年代とし、私はAD90年代としている。詳細はすでに紹介している