主客一体-道元とJill博士

長沙岑禅師にある僧問ふ、いかにしてか山河大地を転じて自己に帰せしめん。師いはく、いかにして自己を山河大地に帰せしめん。いまの道取は、自己のおのづから自己にてある、自己たとひ山河大地といふとも、さらに所帰に罣礙すべきにあらず。-道元『正法眼蔵-渓声山色』

(注:道取=発言;所帰=主客分離;罣礙=妨げ)

山河大地は自分に帰するのか、自分が山河大地に帰するのか。たしかに自分は自分であるが、そのような帰する側と帰される側に分かれるといった主客分離に妨げられるべきではないのだ。

先のJill博士のサンサーラ(輪廻)から解かれたニルバーナ(涅槃)の境地だ。輪廻とは善と悪の二元論的あり方、ニルバーナはそれからの解放だ。要するに煩悩は自分が善と悪、生と死を判断することから生まれる。山河大地は私たちの善と悪の判断とは関係なく存在する。自分と山河大地を分離して判断するとき悩みが生じるわけ。それは生死を越えた境涯だ。もともと仏教には礼拝対象などはない。神はなく、仏とは覚醒した人に過ぎない。仏教とは元々徹底した実在論と認識論の体系である。

自分が作り上げた幻想をリアリティと思い込み、それを通して世界を、また神を見てあれこれ判断する心の姿勢、これが罪なのだ。自分を神としてしまっていることに気がついていないことが致命的。聖書では「善と悪を知ること」が罪である。それは自分を自分のリアリティの中に閉じ込める。あり得るとか得ないとか、まともだとかまともでないとか、神のスーパーナチュラルな介入をも排除して。神はわれわれの善悪の世界には住まわれない。主と客が渾然一体となった境地、そこはただ宇宙的なエネルギーに満ち溢れた世界である。すなわちデュナミスのリアリティの中に生きること。ゆえにすべてのことで感謝するのだ(1Thess 5:18)。感謝とは二元論を超えたスーパーナチュラルだから。

神の国はロゴスのうちにではなく、デュナミスのうちにある。-1Cor 4:20

意識の扱い方について-キリスト者と禅者の類似性と相違-
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