「ディスペンセイション主義者は偽キリストを礼拝する」と再建主義者

いつもの再建主義の富井氏の論。彼の論を復習すると-

プレ・ミレ1)千年期前に携挙と再臨が起きるとする立場。この他にア・ミレつまり千年期はそもそも存在しないとする立場もある。19世紀にウイリアム・ミラーによる「再臨待望運動」からはセブンスデイ・アドベンティストやエホバの証人も生じる結果を招いたが、それは説の問題ではなく、説に対する極端な姿勢の問題である。再臨や携挙の時期を設定する過ちはこれまでも何度となく繰り返されている。これは携挙再臨を逃げの口実にしているためである。⇒「携挙再臨待ち疲れシンドローム」に注意せよのディスペンセイション主義3)神の経綸を7つの時節に分ける考え方。は19世紀のイルミナティのJ.N.Darby4)プリマス・ブレズレンの指導者。彼の説はアメリカ大陸で広く受け入れられ、現在の福音主義や聖霊派の主流的教えとして確立している。の発明であり、初期から19世紀以前はポスト・ミレが確立した説であり、AD70年にすでに携挙も再臨も起きており、現在は千年期である。全世界が福音化された千年期後にジーザスは再び再臨する。

彼の個人的経験により、かなりエキセントリックな批難をディスペンセイション主義者に向ける傾向があるが、その主張には参考になるもののある。今回、こう主張される―

引用

tomi 2017/08/14(月) 03:13 

 

 

「再臨待望運動」の真の目的

キリスト教はユダヤ教から派生したものではなく、旧約聖書の教えから生まれたのです。

イエスの当時、イスラエルには2つの宗教が対立していました。

旧約聖書の教えとミシュナーの教えです。

このミシュナーの教えが発展してユダヤ教になりました。

バビロン捕囚になったユダヤ人がバビロニアにおいてルシファー(バアル)礼拝の教えを持ち帰り、それがミシュナーと言われる口伝の教えになりました。

旧約聖書の教えを守ったイエスは、ミシュナーを信じていたパリサイ人と対立し、パリサイ人はイエスを十字架につけて処刑しました。

イエスの弟子が始めたのがキリスト教であり、パリサイ人の教えがユダヤ教になりました。

ミシュナーは後に成文化され、タルムードになりました。


ビリー・グラハムは、伝道メッセージを聞いて信じた人はキリスト教会かユダヤ教の会堂に行きましょうと指導し<ていますが、タルムードによるとイエスは地獄に行き、煮えたぎる糞便の中にいるはずです。

ラビをバカにしたのがいけなかったようです(Gittin 57b)。

イエスはバカ者であり(Sanhedrin 104b)、イエスの十字架刑は背教の罪に対する当然の報い(Sanhedrin 43a)。

富井先生の教えは世界的なキリスト教伝道者の崇高な教えに反していますね。


そうですね。

キリスト教に潜り込んだ隠れタルムードユダヤ人(マラノ)たちの計画は、キリスト教をユダヤ教に同化させることにあります。

エキュメニズムは世界統一宗教の樹立を目指していますが、それは、実のところ、世界の宗教のユダヤ教化です。

最終的に、来臨のメシアによる世界統一政府の樹立、ルシファーを神として全世界の人間が礼拝する体制が目標です。

そのためには、初臨のイエスは「任務を達成できずに死」んだが、再臨でそれを達成するという終末論(ディスペンセーショナリズムの前千年王国説)が必要になった。

福音派にはびこる「再臨待望」とは、実は、「偽メシアであるタルムードユダヤ人の受容」への障害を取り除くために作られたサタン的ムーブメントです。

アメリカでも日本でも、福音派クリスチャンはイスラエルを支持し、エルサレムでの神殿建設に賛同しています。

将来、タルムードユダヤ人が用意した偽メシアが神殿に立つと彼らは「再臨のキリスト」と思って歓迎するでしょう。

ビリー・グラハムやティム・ラヘイら福音派のリーダーたちは、この偽メシアの道備えとして活動してきました。

 

そこで教父たちは携挙・再臨についてどのような立場であるのか、参考になるサイトがあったので、こちらでも紹介しておく―

Irenaeus(130 A.D. – 202 AD)
Those nations however, who did not of themselves raise up their eyes unto heaven, nor returned thanks to their Maker, nor wished to behold the light of truth, but who were like blind mice concealed in the depths of ignorance, the word justly reckons “as waste water from a sink, and as the turning-weight of a balance — in fact, as nothing;”(1) so far useful and serviceable to the just, as stubble conduces towards the growth of the wheat, and its straw, by means of combustion, serves for working gold. And therefore, when in the end the Church shall be suddenly caught up from this, it is said, “There shall be tribulation such as has not been since the beginning, neither shall be.”(2) For this is the last contest of the righteous, in which, when they overcome they are crowned with incorruption.
Cyprian(200 AD – 258 AD)
We who see that terrible things have begun, and know that still more terrible things are imminent, may regard it as the greatest advantage to depart from it as quickly as possible. Do you not give God thanks, do you not congratulate yourself, that by an early departure you are taken away, and delivered from the shipwrecks and disasters that are imminent? Let us greet the day which assigns each of us to his own home, which snatches us hence, and sets us free from the snares of the world and restores us to paradise and the kingdom.
Ephraim The Syrian(306 AD – 373 AD)
We ought to understand thoroughly therefore, my brothers, what is imminent or overhanging. Already there have been hunger and plagues, violent movements of nations and signs, which have been predicted by the Lord, they have already been fulfilled (consummated), and there is not other which remains, except the advent of the wicked one in the completion of the Roman kingdom. Why therefore are we occupied with worldly business, and why is our mind held fixed on the lusts of the world or on the anxieties of the ages? Why therefore do we not reject every care of worldly business, and why is our mind held fixed on the lusts of the world or on the anxieties of the ages? Why therefore do we not reject every care of earthly actions and prepare ourselves for the meeting of the Lord Christ, so that he may draw us from the confusion, which overwhelms all the world? Believe you me, dearest brother, because the coming (advent) of the Lord is nigh, believe you me, because the end of the world is at hand, believe me, because it is the very last time.
  Or do you not believe unless you see with your eyes? See to it that this sentence be not fulfilled among you of the prophet who declares: “Woe to those who desire to see the day of the Lord!” For all the saints and elect of God are gathered, prior to the tribulation that is to come, and are taken to the Lord lest they see the confusion that is to overwhelm the world because of our sins. And so, brothers most dear to me, it is the eleventh hour, and the end of the world comes to the harvest, and angels, armed and prepared, hold sickles in their hands, awaiting the empire of the Lord. And we think that the earth exists with blind infidelity, arriving at its downfall early. Commotions are brought forth, wars of diverse peoples and battles and incursions of the barbarians threaten, and our regions shall be desolated, and we neither become very much afraid of the report nor of the appearance, in order that we may at least do penance; because they hurl fear at us, and we do not wish to be changed, although we at least stand in need of penance for our actions!

というわけで、プレ・ミレは別にDarbyに始まるものではなさそうだ。これらの教父たちは、むしろ、プレ・ミレにして前艱難期携挙説の立場でもある2)極私的には前艱難期携挙説は採っていないが、希望観測的にはそうであることを願っている次第。。それに霊的に覚醒しているならば、聖なる場所に立つ者をキリストとして礼拝することはないはずであろう。

私はプレ・ミレであるが、次のことは明確に宣言しておく―

  • ジーザスは死と復活を経て、天と地のあらゆる権威を得て、宇宙の王である。
  • われわれもキリストと共に天の座に座る者として、諸々の天の鍵を用いて、天の権威を行使できる。
  • われわれは神の当初の委託に従って、キリストと共にいのちにあってすべてを支配・統治する。

まことに創世記の命令は

地を従わせよ!

 

References   [ + ]

1. 千年期前に携挙と再臨が起きるとする立場。この他にア・ミレつまり千年期はそもそも存在しないとする立場もある。19世紀にウイリアム・ミラーによる「再臨待望運動」からはセブンスデイ・アドベンティストやエホバの証人も生じる結果を招いたが、それは説の問題ではなく、説に対する極端な姿勢の問題である。再臨や携挙の時期を設定する過ちはこれまでも何度となく繰り返されている。これは携挙再臨を逃げの口実にしているためである。⇒「携挙再臨待ち疲れシンドローム」に注意せよ
2. 極私的には前艱難期携挙説は採っていないが、希望観測的にはそうであることを願っている次第。
3. 神の経綸を7つの時節に分ける考え方。
4. プリマス・ブレズレンの指導者。彼の説はアメリカ大陸で広く受け入れられ、現在の福音主義や聖霊派の主流的教えとして確立している。