神の領域に触れること

神の領域あるいは神ご自身に直接に触れること。

それは人間にとっては恐るべきこと。古の聖徒たちは神を直接見てしまったとき、みな恐れに囚われ、自分はもうダメだ!と叫んでいる。ヤコブモーセギデオン、イザヤ、ダニエルなど、みな自分の無力の中に沈み込み、自分は終わりだ、と叫ぶのだ。

新約のパウロも同様であろう。彼は打ち倒され、盲目にされた。第三の天に上げられてそこで見聞きしたことを14年も秘匿し、しかもほんのわずかしか証言していない。最近よく天国に行ってきたとする証を朗々とする人々が散見されるが、これは極私的には理解できない。それはそんなに簡単に語り出せることではないから。

2014年12月下旬、私も3日間にわたり上げられた。そこで見て、聞いた。それは自分がいよいよおかしくなったかと思われた。カミさんも私のおかしさを感じていたというより、気味悪がっていた。これまでの経験にはない事態だったから。しかし、それはエクスタシー、栄光であった。

神と直接出会うことはまことに自分(セルフ)の終焉。ヤコブのようにもっとも強いもものつがいを外される究極の無力感。それからは独立独歩はできない。びっこになり杖に頼らざるを得ないのだ。まことに主の御手に落ちることは自分自身の終わり。が、神の手から彼らの中に確実に神のデゥナミスが流れ込む。啓示が次々にダウンロードされる。パウロが言うとおりだ。

また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。
神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。-Eph 1:19-21

(初出:2015年3月14日改)