サブスタンスによって生きる

Now faith is a substance of [what is] being expected, an exposing matters [which are] not being observed. -Heb 11:1 (mine)

いま、フェイスとは願われているサブスタンス、観察されていないことの現出である。-ヘブル11:1(私訳)

われわれは五感により、自分の置かれた環境を感知し、評価し、反応している。これは物理的時空間にある「私」の生き方だ。イエスはそうではなかった。よくイエスの御足に従うとか、イエスのように生きるとかいう標語があるが、なにかシャナリシャナリと聖人君主を気取ることのように思われる。が、そうではない。イエスの言動を見てみよ。宮の両替人の机をひっくり返し、ムチで彼らを追い払った。きわめて激しいのだ。

イエスはただ霊的領域のサブスタンスを見ていたのだ。だからラザロが死んだ時も、彼の内側ではすでに蘇りのサブスタンスを把握していた。そこであえてラザロの死後4日たってから、彼の家族の元を訪れた。

するとイエスは、あからさまに彼らに言われた、「ラザロは死んだのだ。そして、わたしがそこにいあわせなかったことを、あなたがたのために喜ぶ。それは、あなたがたが信じるようになるためである。では、彼のところに行こう」。-John 11:14-15

そして

すると、イエスは目を天にむけて言われた、「父よ、わたしの願いをお聞き下さったことを感謝します。あなたがいつでもわたしの願いを聞きいれて下さることを、よく知っています。しかし、こう申しますのは、そばに立っている人々に、あなたがわたしをつかわされたことを、信じさせるためであります」。こう言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた。-John 11:41-43

私たちのマインドがトランスフォームされるとき、このイエスと同じ思考パターンを得ることができる。すると霊の中の事実がマインドのうちに流れ込んでくるのだ。こうして霊のサブスタンスがマインドに映るとき、私たちは「得た」と把握する。あとはそれを語り出せば良いのだ。

これまで五感の世界はある意味十分に楽しませてもらった。そろそろ倦んでいたかもしれない。そんな折に、霊的世界に直接タッチする経験を得た。パウロは第三の天に挙げられたと証言しているが、私もある意味その世界を見せてもらえた。霊的サブスタンスに満ちている世界が開けてきている。これは決していわゆる聖書の学びから得られるものでもないし、御言葉の解き明かしでもない。そのものにタッチすることなのだ。

富士山に登ったことのない人にいくらガイドブックを解き明かしても、富士山の登頂の快感を共有することはできない。しかし、あそこにタッチし、富士山頂のリアリティ、あるいはサブスタンスを得た者にとっては、言葉はもはや不要なのだ![1]この経験は特別な者だけが得るものではない。なぜならクリスチャンはすべてキリストとともに天の座にいるからだ(Eph 2:6

メッセでも語ったが、すでに私のあらゆるサブスタンスは神によって記録されている(Ps 139:16)。神の信仰の中ではすべてが完成している。その神の信仰に浸り、生きること。ゆえに主イエスはこう言われた。

神の信仰を持て。-Mark 11:22

個々の問題や病などはその大局的な神の信仰によって時系列的に処理されていく。私たちに必要なことは何か?そう、昨年の流行語だ。

LET IT GO INTO HIS HANDS!

 

00votes
Article Rating

References

References
1 この経験は特別な者だけが得るものではない。なぜならクリスチャンはすべてキリストとともに天の座にいるからだ(Eph 2:6

是非フォローしてください

最新の情報をお伝えします

Subscribe
Notify of
guest

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)

0 Comments
Inline Feedbacks
View all comments
Translate »
0
Would love your thoughts, please comment.x
()
x