世界は神のレーマが結晶化したもの―そのシンプルな美と法則

この世界は神のレーマがフレーム化されたもの(Heb 11:3)。かつての私は単に自然を、つまりナチュラルな世界を楽しむだけだった。もちろんその美しさは神性の反映であると理解していた(Rom 1:20)。が、フェイスの目でみるともっと進んで見える。これは神のレーマがナチュラル世界に結晶化したものであると。frameという単語は日本語では馴染みが薄いので、結晶化というとわかりやすいかもしれない。

メッセでも語ったが、聖書は日本語のオツムで読んではならない。もっと言えば、この物理時空間のオツムで読んではならない。イエスもそのオツムで理解してはならない、元々イエスはわれわれの常識を超えた人なのだ。

ちょうど江戸時代の末期に黒船が来たとき、彼らの言葉や習慣や価値観などは日本人にはまったく理解できなかった。プロトコルが根底から異なるのだ。日本的対応をしてアメリカをイラつかせた。だから黒船は大砲を打つぞと威嚇するしか、幕府を動かす方法がなかったのだ。

これと同じ。天の国がこの地に入り込んでいる。それはカルチャーショックを引き起こすべき事態なのだ。ところが聖書を自分の感性や常識の範囲内で読もうとする。そして勝手なイエス像を作り上げる。三浦綾子文学などはその典型である。

あるいは神の賜物や現れに関して、自分のキャパで受け止められる事だけを選択する。そして自分は聖書を知っていると思っている。ちょうど富士山頂を見てもないのに、富士山のガイドブックを知っていると高らかに公言するようなものだ。笑い話。

人はふつう自分の経験の範囲で帰納的(具体例から一般化へ)に世界像を構成する。「今まで見たカラスは黒い⇒カラスなる鳥は黒い」と。もちろん全称命題ではないにも関わらず(すべてを調べたわけでもない)、それを頑なに守ろうとする。こうして自分のマトリックスを守るのだ。

が、啓示とは天下りに”丸ごと”知らされたのだ。それはパウロのように天からの光で”盲目”にされる経験でもある。それまでのパラダイムが粉砕されるからだ。いったん自分のそれまでのマトリックスが終わらされる必要があるのだ。これを死と復活の法則と言う。

見ることと理解することは全く違う。同じような事を語っていても、現地を見た人が語るのとガイドブックの理解を語るのではまったく違う。それが分かってしまう。言葉を弄しているだけだと。これは実に残念であり、さみしいことなのだ。

パウロが天に上げられた経験の一部だけしか語らない理由はここにもある。ペラペラと天国を観てきたと語る向きはまず・・・だ。われわれは神と自分の間だけのレーマの結晶を秘めている必要があるのだ。

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