レーマは霊(スピリット)であり命(ゾーエ)である

人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。-John 6:63

ここの言葉はレーマ。イエスが語り出したレーマは霊であり、命(ゾーエ)であった。かつて私は<レーマ=ロゴス+信仰=霊=いのち>と表現したことがある(+より×がいいかも)。何かを客観的に記述するロゴスに霊が乗るとレーマとして人を生かすのだ。メッセでも語っているが、たとえば、アナウンサーが正確に聖書を朗読しても、それは命を与えない。つまりレーマではない。まして癒しも奇跡も起きるはずもない。あるいは聖書の言葉を語っても、乗っている霊が違っていると、違和感を覚える。正しいことを語っていても、それは平安や安息を生み出すこともないし、命を与えない。

イエスのわざの鍵は内なる父の声を聞き、そのわざをそのとおりに行ったことにあった。イエスの霊(イエスは人としての霊を持っていた)は父の霊と完全にチューニングされていた。そしてその霊とともに父の言葉を語り出した。このレーマがあの数々のわざをなしたのだ。原則は私たちも同じ。内なる父の示される言葉を語り出すこと。これがイエスと同じわざをなし、それ以上のわざをなす秘訣なのだ。

言葉と霊。聖霊によってドライブされた霊を伴って語り出された言葉は霊的領域に波動を生じ、サブスタンスを生み出す。サブスタンスが時系列の中でこの世界に現出すると、私たちが五感で感知できるモノや事象となる。これが祈りがかなう瞬間だ。祈りはこの物理的時空間と霊的領域にポータルを開く。そのポータルが開くとき、私たちは祈りが生きている、通じている、あるいは手応えを感じる。きわめてタンジブルだ。またサブスタンスを語り出すとき、それが急所を突いたと感じることもできる。すると何かが起きるのだ。

現代は言葉が記号化されて、単なるラベルとされているが、ヘブル文化では言葉(dabar)は実体そのものである。日本の言霊信仰が近いかもしれない。クリスチャンが自分のうちにあるその潜在能力に目覚めることをサタンはもっとも恐れているのだ。現在のキリスト教の有様はとても主イエスが意図された信仰のあり方ではない。人の基準と、世の目を恐れ、世のマインドセットに服しているためだ。クリスチャンは世界をキリストの王権に服させる使命を帯びているのだ。終わりの時代、神は必ずこのような目覚めたクリスチャンたちを興されるであろう。そしてご自身の権威と能力とわざを託して下さる。