鏡像原理-神は曲がった心の者には曲がるお方

人は神の全能性は誰も信じているだろうが、神のWillingness(意志)に対する信仰が欠如していることが多い。あの息子が悪霊に憑かれていた父親の「もしできれば・・・」との発言とも共通する。あるいは「お心でしたらきよめていただけるのですが・・・」と主に求めたらい病人のケースと同じだ(Matt 8:2)。この時、主は明確に言われた、”I Will”と。これが神の心なのだ。

しかし、しばしばわれわれはそのことに確信を持てないことがある。果たして主は自分の場合は、あるいはこの人の場合はどうだろうか・・・と。聖書には「イエスは昨日も、今日も、永遠に変わらない」(Heb 13:8)また「神は人を方より見るお方ではない」(Rom 2:11)と書いてあるにもかかわらずだ。

実は、これは自分の鏡像を見ているのだ。自分の裁く秤で自分も裁かれることは霊的な初歩的原則。同じように、主の心を疑うときには、実は自分の心を見てしまっている。そう、自分にWillingnessが欠如しているのだ!

あなたはいつくしみある者には、いつくしみある者となり、欠けたところのない者には、欠けたところのない者となり、清い者には、清い者となり、ひがんだ者には、ひがんだ者となられます。-Ps 18:25-26

もちろん神ご自身が「ひがんだ方(あるいは曲がった方)」になるのではない。人は自分の鏡像を神の内に見ているのだ。よく、今日、神は癒しはなさらないとか、癒しとかしるし・不思議などは浅薄なものとかする向きがある。その価値観を神に投影しているのだ。だからフェイスを使うことができない。

世の人がよく言うセリフ、「信じたくらいで楽になれれば苦労はない!」も同じ。だから彼らは救われないのだ。もっと言えば、彼らは自分を神としている! 彼らに尋ねたい、あなたは何をもっとも重要視し、何を求めているのか?と。彼らは自分が唯一の頼りだ。

神は病んだ人には同情(sympathy)ではなくあわれみ(compassion)を覚えるお方[1] … Continue reading。同情は単にその対象の気持ちに沿うだけだが、あわれみはその人をその状態から引き出す。イエスのあわれみは常にわれわれを神の国にふさわしくないモノや状態から解放するのだ。もし、それが信じられないのであれば、神に問題があるのではなく、あなたそして私の心にあることを知るべきなのだ。神は常に”I AM”にして”I WILL”なる方なのだから。

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1 よく言われる傷ついた人々と寄り添うとかの台詞はもっともらしいが偽りである。ジーザスは足萎えに「立て」、盲人の目に泥を塗って「シロアムの池に歩いて行け」と命じられた。決して主は寄り添ってなどいない。それは単なる自己憐憫の投影である。

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